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【4月】東日本大震災:post.3.11を考える

3月11日午後2時46分に起こった東日本大震災、地震とそれに続く津波、そして原子力発電所事故と、まずは被災された皆々様に心よりお見舞い申し上げます。また、亡くなられた方々の御冥福をお祈りし、御遺族の皆さんには心からなるお悔やみを申し上げます。さらには、被災地の一日も早い復興をお祈り申し上げます。そのためには、まず第一に、東北・関東各地で被災された方々に、まず我々みんながいろいろなかたちで、支援の手を差しのべることです。

3月11日夜は、私もいわゆる「帰宅難民」という経験をすることになり、多くのことを学びました。そんなこんなで、いろいろと考えた事、思った事もあり、新しい年度の4月にあたり、所長コラムとしてそれをまとめさせて頂くことにしました。

3月11日は、次世代育成研究所・CRNが、神田から西新宿に移って、私にとって2回目の出勤日でした。午後に入って、一緒のフロアで働くことになった仲間の方々の代表に御挨拶して、ひと息ついた時、2時50分近くだったと思いますが、グラッと大きな揺れが来て、ガタガタとかつてない激しい揺れが続いたのです。壁の6段の大きな本棚が前に倒れて、本が飛び散りました。ビルの緊急放送で、「震度6!」、「当ビルは耐震構造なので御心配なく!」などと、次々にアナウンスされました。数回の余震の後、一応落ち着いたのですが、岩手、宮城、福島、茨城、千葉の太平洋岸の港町が、あの地震に続いて、あのような大きな津波に襲われていた事は全く知らなかったし、自分自身が後に「帰宅難民」になる事なども想像すらしなかったのです。

夕方6時前だったかと思いますが、地震のためエレベーターが止まっていたので、13階から階段を一段一段と歩いて下り、帰宅のタクシーを拾おうと、隣のホテルの前に行きました。そこには、もう100m以上の行列が待っていました。しかし車は30分に1台来るか来ないかで、2時間程待っても乗ることは出来なかったのです。幸い、訪問して来た日本子ども学会の事務局長 木下氏と行動を共にしていましたので、前を通るバスで都心から一寸離れた中野に行くことにしたのです。そうすればタクシーも拾えると考えたからです。幸いバスにはすぐ乗れましたが、普段なら30分もかからないで着ける中野に到着するのに、交通渋滞で2時間もかかってしまったのです。しかも、中野駅前のタクシー乗り場は、列は多少短かった様ですが、新宿のホテル前と同じような行列が待っていました。

帰宅をあきらめて宿を探すことにして、まずは腹ごしらえと、開いていた駅前の居酒屋に飛び込んで、やっと落ち着いて食事をとることが出来ました。ただ、店員は二人、サービスは望むべくもありませんでした。

さて、宿を探すと、中野サンプラザの一階ホールを、帰宅出来ない人達のために開放していることがわかり、早速ドアを開けて入ってみると驚きました。床にゴロ寝している、すでに100人を超える老若男女が目に飛び込んで来たのです。幸い、中野区の職員が親切に対応して下さり、区の緊急用の毛布を1枚いただき、コートを床に敷き、毛布をかぶって眠りにつきました。暖房のきいたホールで、床暖房があるのか、床はほかほかとしていて、寒さを感ずることもなく睡眠をとることが出来たのです。新宿のホテルの前の行列に並んでいた時の、冷たい北風で震える程の寒さに比べれば、ゴロ寝とは言え正に天国でした。

朝7時前に目を覚ましましたが、JRでは8時半まで電車は運行出来ないことがわかり、木下氏と別れ、走っているバスで渋谷に出て、地下鉄に乗り継いで、9時前にはわが家に無事帰り着くことが出来ました。

わが家に帰って驚いたのは、東北・関東の太平洋側の激しい地震と、津波による、それを上回る惨状でした。次々とテレビに現われる映像に、胸が痛み、なんとお見舞い申し上げてよいかわからない気持ちで一杯になりました。

3月11日当日の夜遅く、否もう翌日の午前1時を過ぎていたかもしれませんが、災害用の毛布にくるまった時、終戦の年の8月21日だったと思いますが、その日から3日程の出来事を思い出しました。2年間生活し勉強した広島県江田島の海軍兵学校が閉校される事になり、両親の疎開先である栃木県に帰った時の事です。

終戦の年の1945年(昭和20年)に入ると敗色が濃くなり、アメリカの航空母艦からグラマン機が飛来して、練兵場にいる我々は機銃掃射され、さらに燃料がなく動けなくなったわが国が誇る艦艇の数々が瀬戸内の島影に碇泊していたため、艦爆機の攻撃を受ける様な状態になっていました。そんな中、8月6日に広島に原爆が落ちたのです。朝、広島のキノコ雲を遠くに見上げ、夜になると火災を反映する赤い夜空を2、3日の間にわたり目にして間もなく、敗戦の8月15日をむかえたのです。

続いて海軍兵学校の閉校が決まり、同じ地域に帰る生徒がグループ分けされて、それぞれの家族のもとに帰ることになりました。当時、両親・弟妹は栃木県の山の小さな町に疎開していましたので、10人程の生徒の隊長として宇都宮まで帰ったのです。

海軍兵学校から、船で広島の宇品桟橋まで送ってもらい、そこから原爆による放射能汚染のまだ強く残っている道を歩き、途中破裂している水道管の水を飲み飲み、広島駅にやっとたどり着いたのです。その日は正に暑い夏の一日でした。

広島から東に行く列車は、来るには来たのですが全てがあふれる程の満員で乗れず、結局夕方になってやっと貨物列車に乗り、石炭の上にゴロ寝する旅になりました。岡山、神戸とアメリカの空爆による焼野原の町を通り大阪に着きましたが、大阪も勿論焼野原でした。しかし、幸いそこからは、普通の列車に乗ることが出来、焼かれなかった京都を通り、再び焼野原の名古屋に着いたのです。すでにアメリカ占領軍の先遣隊が、横浜・東京に入っているとの情報もあり、結局その後は東海道線に乗らずに、中央線で松本・長野を通り、全員無事に焼野原の宇都宮に到着することが出来たのです。中央線の列車の窓から見た山や森林の緑は、夏の太陽にキラキラ輝いていました。その姿は、今も目に浮かびます。宇都宮駅前で、我々の隊は解散、それぞれの家へ向かったのでありました。

中野サンプラザで、毛布にくるまって思い出した事は、66年も前の敗戦・終戦という歴史上特別な出来事ですが、第二の人生の出発点として、特に思い出深いものでした。考えてみれば、今回の東日本大震災も、その大きさからして、歴史上何百年、何千年ぶりのことであり、いろいろと相通ずるものがある様に思い、考えさせられました。勿論、充分に年をとった私にとっては、第三の人生としての意味はほとんどない事は明らかですが、外から見ただけでも、アメリカの焼夷弾による焼野原と津波によって裸になった町、そして原子爆弾と原子力発電所事故など、これからの事を考えてみれば、共通点は少なくないと言えます。したがって、国全体として考えなければならない事、しなければならない事も、終戦時とある意味で同じと言えましょう。

今回は、わが国の半分にもならない東北・関東地方の出来事と言っても、国にとっては、敗戦の時に引けを取らない大きな問題ではないでしょうか。特に、経済的影響は重大な問題と言えましょう。今、再建のために考えなければならないことの第一は、地震・津波による災害を記録し科学的に分析し、その前兆の早期発見、災害対策を科学的に改めて組織化する必要があると思います。特に、今回問題になっている、そのロジスティクスは重要です。地震や津波があるからと言って、この美しいわが国から、それらのない国に移るわけにはいかないことは明らかであるからです。テレビを見ても、その対応には、あまりにも問題が多いのです。

また第二として、原子力発電所の事故の問題があり、それについて考えなければならない事も同じでありましょう。原子力の平和利用の最先端は、原子力発電であり、原子爆弾の洗礼を受けた唯一の国ではあるわが国は、原子力を戦争に利用した国、利用しようとする国々に対して、わが国の面子をかけても、平和利用のため、今回のような災害を乗り越える技術を作り上げて頂きたいものと思います。それにも、今回の事故の記録とその分析が全ての始まりで、その基盤にはあらゆる科学・技術のレベルアップが必須であると言えましょう。

何よりも重要なことは、この機会に、社会の柱、われわれの心の在り方も立て直すことでしょう。わが国は、第二次世界大戦の荒廃の中から立ち上がり、世界を驚かす様な回復を見せ、豊かな社会、特に物質的に豊かな社会を築き上げるのに成功しました。その豊かさが裏目に出て、わが国にガタが来ているのではないかと、CRNの中で何回か申し上げて来ました。この機会に、再建の基盤となる子ども達のために、社会のチャイルドケアリング・デザインを考えて、「優しい社会」、「思いやりある社会」、「共感の社会」を新しい在り方で築き上げたいものです。そのために、われわれ日本人はどのようにしたら良いかを考える必要があると言えましょう。いろいろな意味で、豊かな社会に「たましい」を入れる、「心」を入れる必要があると思うのです。

最後に、私達の最大の関心事は子どもの問題の解決でしょう。この度の災害で命を失った子ども達も少なくありません。まことに無念であり、残念なことです。また、災害を体験したばかりでなく、その上、親を失ったりした子ども達も多く、そのような子ども達の心のケアは、大きな問題であると言えます。阪神・淡路大震災に関係した資料については、2008年7月に整理して発表していますが、この機会にCRN「震災地の子どもの心のケア」として再び載せましたので、是非ご覧頂きたいと思います。

さらに、震災地の皆さんにお願いしたいことは、どんな情報でも良いですから、東北・関東の震災地の子ども達がどんな問題に当面しているか、CRNまで投稿して頂きたいと思います。父親、母親の立場から、保育園の保育士さんの立場から、そして幼稚園・学校の先生の立場から、経験したこと、見たこと、考えたこと、実践したこと、勿論、小さな研究や調査でも結構です。それを是非皆さんと一緒に「震災の子ども学」としてまとめたいと今考えているのです。
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