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【1月】内藤寿七郎先生を偲ぶ

小林 登 (CRN 所長、東京大学 名誉教授、国立小児病院 名誉院長)

2008年1月31日掲載

「育児の神様」と言われた内藤寿七郎先生が、昨年12月、101歳で亡くなられた。101歳というと、正に天寿を全うされた事になるが、多くの人々にとって、淋しさは禁じ得なかったのではなかろうか。先生と御縁のあった方々は勿論の事、お会いしていなくても、子育てをした、あるいはしているお母さん方、更には育児・保育を勉強している学者・研究者、関係している実践家の方々にとっても、思いは同じであったに違いない。正に、巨星墜つである。

 

内藤先生は、昭和6年(1931年)東京大学を御卒業になり、愛育病院と日赤病院、特に愛育病院では長く務められ、院長までなさり、名誉院長になられた。東京大学の御出身であるが、生涯に亘り大学と殆ど関係なく野にあって、第一線の小児医療の中で、小児科医としてお母さん方の子育てを支援されたのである。また、小児医療の現場で日々汗を流しておられる開業小児科医のわが国初の団体、「日本小児科医会」の会長も長く務められ、名誉会長にもなられた。

 

残念ながら、小児科の外来や病棟で直接先生の御指導を受ける機会はなかったが、私にも、小児科医としての人生に大きな力を頂いた経緯がある。


日本画家の家で生まれ育った私は、少なくとも第二次世界大戦が終わるまでは、医師とは全く関係がなかった。大戦も敗色濃くなった昭和18年(1943年)、広島県江田島にあった海軍兵学校に入学した。当時の中学生なら、誰もが国を守る責任を感じてそうしたように、私もその道をとったのである。

 

昭和20年(1945年)の7月頃だったと思うが、8月15日付で山口県の瀬戸内海の島にある、特殊潜航艇の基地に赴任せよという内示を受けた。しかし、その8月15日に終戦となり、着任することなく、あまり良く聞こえなかったが、天皇陛下の敗戦の詔勅を拝聴したのである。ある意味で命拾いしたことになる。

 

その翌日、3隻の特殊潜航艇が、菊水の長い旗をなびかせながら江田島湾に入ってきた。死ぬまで戦い続けようという、過激な先輩海軍将校達のアピールであった。その時、桟橋についていた艇を見て驚いた。余りにもお粗末であって、戦えるような代物ではなかったのである。乗組員3~4人、魚雷2本の小さな鉄の塊のようなものであった。もし着任していれば、訓練中の事故死か、戦ってもあっという間に沈められたに違いない。

 

幸い命だけはとりとめ、8月下旬、原爆の焼野原を横切って歩き、広島駅から郷里に帰った。昭和21年(1946年)、東京に出て旧制高校に入り、駒場で4年間(浪人1年も含めて)勉強し、医学部に入学した。そんな頃、内藤寿七郎先生とお会いする機会があったのである。

 

内藤先生は、当時、下町の焼野原の中で薬屋さんの2階を利用して育児相談をなさっておられた。週数回私がその薬屋さんの小学生の息子さんの家庭教師をしていたので、何回かお会い出来たのである。民生委員をなさっていたと思われる薬屋さんのお母さんが、内藤先生と一緒に子育て支援をされていた。今考えると、戦後この様に早くから育児相談が始められた事に感銘を受けると共に、当時のお母さん方にとっては大きな救いになった事には間違いないであろう。

 

個人的には、芸術家の血もあってか建築家、または海軍生活の体験で海洋学者にでもなろうかという夢を持ち、医学系でないコースで駒場の寮生活を送っていた。しかし、内藤先生にお会いして大きく変化し、医学を学び、そして究極的には小児科医になる道に入ったのである。内藤先生にお会いする機会がなかったら、医師としての私は全く存在しなかったと言える。

 

昭和29年(1954年)卒後直ちにアメリカへ行き、インターン、小児代謝病研究、そして一旦帰国して、イギリスに渡り小児免疫病理学研究と、10年間は全く落ち着かない生活であった。その為、内藤先生とお会いする機会はなかった。しかし、昭和39年(1964年)にイギリスから帰国し東大の医局で生活するようになってから、特に、昭和45年(1970年)教授就任以降は、学会や同窓会で親しくお話を伺う機会が年に何回かあり、先生の謦咳に接する事は出来た。その度に、戦後の焼野原の下町で育児相談をされていた内藤先生の真摯なお姿を思い出したものである。

 

後に知った事であるが、内藤先生の育児学は、先生の御体験を単にまとめられたものでなく、脳科学の東大教授時実利彦先生と御一緒に勉強会まで開いて、理論的基盤も追求されたものである事は極めて重要である。

 

先生は優しい方であったが、熊本の、しかも軍人の御家庭に生まれ育たれたので、言動からは芯の強さが窺われた。また、昭和ひと桁という学生時代であったにも関わらず、チェロの演奏や、サッカー(ラグビー?)のプレーに熱中されたそうである。それも先生のお人柄を偲ぶ縁となろう。

 

先生のお力で小児科医の仲間入りをする事が出来たひとりとして、ここに生前に頂いた御厚誼を深謝申し上げ、内藤育児学をより良いものにする事を誓い、謹んで御冥福をお祈りする次第である。

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