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【7月】「よだかの星」、読書教育を取り戻そう

小林 登 (CRN 所長、東京大学 名誉教授、国立小児病院 名誉院長)

2008年7月25日掲載

「よだかの星」というと、CRNにアクセスしてくださる方々の中で何人の方が宮沢賢治(1896-1933)の童話を思い出されるだろうか。当時東京に住んでいた筆者が、両親の勧めで読んだのは昭和10年代の初め、中学校に入学したばかりの頃と思う。家にあった宮沢賢治全集の中で、他の童話「風の又三郎」、「セロ弾きのゴーシュ」、「注文の多い料理店」、「銀河鉄道の夜」などと一緒に読んだ。そのいずれも、あらすじは憶えているが、残念ながら特に強い感銘を受けた記憶はない。賢治の自然への共感、幻想性、言語感覚などを理解出来る程、成熟していなかったのである。

 

なぜ両親が筆者に読む事を勧めたかは解らなかった。ただ、賢治没後5年程の頃で、作品の評価が高まったからだけではなかったであろう。両親は、読書こそ人間形成に必須と考えていた節があった。注意が散漫になる、軽薄になるとか言って、少年倶楽部や漫画は禁止という厳しい考え方であった。従ってわが家には、カルチャー・キャピタルとして日本文学全集、世界文学全集、四書五経、百科事典、東西の画集なども、賢治の全集と共に並んでいた。

しかし、漫画の「のらくろ」や「冒険ダン吉」、少年倶楽部の「怪人二十面相」も友人に借りて、どこかでこっそり読んでしまったのは事実。家庭教育もなかなか難しいものである。大切なのは、読んだ本の内容を親子が話し合う事ではなかろうか。筆者には、残念ながらその記憶はない。

筆者の両親は日本画家であった。結婚後、母は自ら描く事なく、父の手伝いに徹していた。筆者が賢治の童話を読んでいた頃、院展の中堅だった父は脱退して新院展(現:新興展)を創立し、戦前戦後、反主流派の日本画家として厳しい日々を送り、30年前に81年の人生を終えた。しかし、出身地の茨城県には大切にされ、県展でも活躍し、父の作品のいくつかは県の美術館に保存されている。幸い弟が父の跡を継ぎ、今も筑波山麓で日本画を描いている。

思春期に入った頃の筆者に、両親が賢治の作品を読ませようとした事には、今考えてみると大きな理由があったように思う。両親自身が賢治の童話を勉強し、その精神性の高さと豊かさを評価していた事である。賢治の文章を読んでいると、新しい感覚と共に美しい色彩を感じると父は述べ、二つの作品を絵にしている。

ひとつは戦前の作品で、二匹の蟹の会話「クラムボンはわらったよ。」から始まる「やまなし」の絵巻物である。やまなしがポチャンと川の水面に落ちる姿、川底に揺らぐ月光の陰、清流の中を泳ぐ魚や歩く蟹といった自然詩的な絵巻で、今でもよくその絵を思い出す。解らないながらも賢治の作品を読んでいた頃、身近で父がそれを描いていたので特に印象が強かったからであろう。残念ながら、この作品は戦争中の焼夷弾で焼失してしまった。

もうひとつは、戦後、霞ヶ浦の岸辺の町で農作をしながら絵を描いていた父が、芸術運動も復活し始めた昭和26年、再興された新興展に出した作品である。それが「よだかの星」の屏風絵であった。みにくい「よだか」が、仲間の鳥達にいじめられ、その上、生きているものを犠牲にして毎日生きなければならない生き方に虚しさを覚える。そこで、星になろうとして、あちこちの星に「連れていってくれ」と頼むが断られ、最後に覚悟して天空を目指し飛び続け、ついにカシオペア座の隣で燃える星になったという物語である。

「よだかの星」は、幸い茨城県の美術館に所蔵されているが、この5月末から7月中旬にかけての40日間程、北茨城市にある茨城県天心記念五浦美術館で開かれた「田園交響詩-芋銭、巣居人を中心に」で、父の他の4点の作品と共に展示された。小川芋銭先生は父の最初の師なので、一緒に並べられる事は父も心苦しかったであろう。筆者も6月の週末に五浦まで行き、久し振りに父の絵を見た。

「よだか」は、黒褐色の夜行性の夏鳥で、全国各地の低い山で低空を飛びながら、大きな口で昆虫を捕食して生きている。そして、冬には南に渡るのである。父の温かい観察眼で描かれた夕陽に輝く雲、次第に暗くなる低い山々、沈みゆく大きな夕陽、森の仲間の鳥達、夜空に輝く星、輪を描いて低く飛び、天空を目がけて上昇する「よだか」、そして星になる姿を見て、初めてその内容に共感し、万感胸に迫るものがあった。

医学生になって間もない私が、戦後の復興による平和と豊かさを感じ始め、同時にこれからの生き方に色々悩んだ頃であり、父も、体験した事のない新しく始まる平和な時代の芸術について、色々考えたに違いない頃の作品である。芸術運動は、反体制運動を繰り返して常に新しいものを求めている。だからこそ、再興された展覧会で何か新しいものを示そうと思ったのであろう。その時、父は決するところあって、私立の美大教授も辞め、これからは高い精神性の作品を描こうと、戦前から勉強していた賢治の「よだかの星」をまずテーマに選んだのである。

両親が私に賢治の童話を読む事を勧めたのは、両親、特に父が賢治の作品に直接触れて感じた、賢治の内なる精神的なものをわが子に感じて欲しい、学んで欲しいと考えたからであったと、この歳になってやっと理解出来たのである。考えてみれば、読書教育、特に家庭教育の中のそれは、親が読んで良いと思った本を勧めるのが当然であろう。

日本文化は、本で支えられているという。大都市は勿論、田舎の町や村など、どんな街角にも本屋はある。また、数百万の本が毎日の様に出版されているのである。しかし、社会のIT化と共に、大人も子どもも本を読まなくなり、本は売れず、出版社は倒産という事態も起こっている。

読書は、子ども達の心を豊かにし、物事を論理的に考える訓練になると思う。子ども達が内容の深く豊かな本を読む事が殆どなくなっている今こそ、われわれは読書教育を家庭教育、学校教育の中で取り戻すべきではなかろうか。

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