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名誉所長ブログ

名誉所長ブログでは、CRNの創設者であり名誉所長である小林登の日々の活動の様子や、子どもをめぐる話題、所感などを発信しています。

過去の記事一覧

国立民族学博物館で教授をされている信田敏宏さんが、自分のお子さんがダウン症で生まれ、10年間育てられた経験を、奥様の感想と一緒にまとめられたのが「『ホーホー』の詩ができるまで」(出窓社)である。本書からはご両親の優しいまなざしが感じられる。そのお子さんが小学校4年生のときに作ったのが「ホーホー」の詩なのである。

私がアメリカで勉強していた1950年代に、その昔は蒙古症と呼ばれたダウン症が、21番目の染色体が1本余計にあることが原因であると明らかになった。それは先天異常を中心とする新しい小児科学の始まりとなる大きな出来事だったので、今も印象的なこととして覚えている。

「ホーホー」の詩は、短いので、まず紹介しよう。

「ホーホー」

ホーホーとなきます。
パサパサととびます。
くらいところにいます。
さがしてみてね。
きょうのよる
まっています。
hoho_kobayashi.jpg


簡単な詩である。しかし、その中に心がこもっていることは、どなたも理解されよう。NHKの福祉番組「ハートネットTV」に取り上げられたのも、うなずける。

本書をぜひ多くの方に読んでいただきたいと、CRNでも取り上げさせていただくことにした。本書を読んで、ぜひ感想など、教えていただきたい。

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看護と私

2014年2月 7日掲載
看護師さんにお世話になったことのない人はいないであろう。大人も子どもも、病気や予防注射などで医療・保健の現場に行くと、お医者さんに会う前に必ず、看護を勉強した看護師さん、保健師さんなどのお世話になっているはずである。

それは、看護学の学問的発展と共に、看護師さんの果たすべき仕事が大きく進化し、戦後の看護が歴史的に大きな転換を迎えたからである。その大きな転換の時期に、私は東大小児科の教授と同時に、東大医学部付属看護学校長も兼任していた。

戦後のアメリカによる占領が終わって間もない当時、東大病院の付属看護学校はボケーショナル・スクール(職業訓練学校)と呼ばれており、高等学校を卒業した生徒たちが入学してきた。戦前は5年制の中等学校を卒業してからの入学だったことに比べれば、戦後の新しい3年間の中学校の義務教育に、3年間の高等学校の勉強をした上での入学だったので、教育期間が1年間延びたということになる。

これにより看護教育のレベルは、戦後ある程度高くなっていたが、私が校長を兼任するようになった頃、国立大学医学部付属の看護学校は次々と短大化して、更に教育レベルを上げていく流れとなった。しかし、東大は、1950年代に医学部保健学科(現:健康総合科学科)の中に大学レベルの看護教育を学ぶ部門がすでにでき上がっていたため、付属看護学校は短大化せずに続いたが、2002年に廃校となり、100年を越える歴史を閉じることとなった。

この新しい方針によって国立大学医学部付属の看護学校のほとんどが短大に移行した頃の話であるが、東京大学は当時の文部省から見れば国立大学の代表のようなものなので、東大の付属看護学校長であった私は、国立大学の付属看護学校の代表として短大化のお手伝いをした。当時、大学レベルの看護教育を行っていたのは、私立大学では聖路加病院の看護大学と、国立大学では東大と千葉大学看護学部の三校であったと記憶している。それらの大学の女性教授と一緒になって、日本全国あちこちの短大化された看護大学を視学委員として訪問した旅の思い出は少なくない。

短大化された看護教育による第一の影響は、当然のことながら、看護のレベルが上がったことである。アメリカでは、1960年代に看護学校の大学化が始まったが、私が医学教育の世界一周視察を行った1970年代には、大学化によって看護のレベルが向上すると言われていた。看護師さんを生んだイギリスも、看護のレベルを上げるために大学化を行うという話であった。 欧米では、大学化によって男性の看護師が増えたかどうかはよく知らないが、アメリカで軍隊の衛生兵が看護教育を受け、男性看護師として一般病院でも働いている姿は、アメリカでインターンをしていた1950年代に見たことを思い出す。わが国では、男性看護師の増加に、看護学校の短大・大学化が果たした役割は大きい。

先日、「医学界新聞」*1で、東大の医学部保健学科で学んで看護師になり、京大付属病院の看護部長をされている男性の看護師さんと、著述業も行っている女性の看護師さんとの対談を読んだ。男性の看護師さんは現在約63,000人(厚生労働省:平成24年度衛生行政報告例*2)で10年前の2倍以上であるが、それでも、全体で100万を越える看護師さんの中で、男性は6%を少し越す程度であると言う。男性看護師は手術室や精神科で働くのが代表的という時代は終わったようで、内科病棟やその他の病棟で働いている男性看護師も増え、男性看護師の知名度は高まってきていると認識されているようである。大きな問題は、女性患者の羞恥心を伴う看護を実施する場合、男性看護師の約70%は躊躇を感じ、約80%は拒否されたことがあるということである。したがって、男性看護師の80%は、女性患者の羞恥心を伴う看護を実施する際、患者自身や家族に「看護しても良いか」と事前確認をすると言う。看護も男女平等になることは悪いことではないと思うが、そこまでしなければならないかと考えると、少々淋しい思いがしないでもない。

*1. 週刊医学界新聞 第3052号(2013年11月18日)

*2. 平成24年衛生行政報告例(就業医療関係者)の概況

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子育ては本来、親の責任である。しかし、どういうわけか、社会が豊かになると親の子育て機能が低下すると言われている。私が、そのことを実感したのは、1954年(昭和29年)、大学を卒業して半年ほどたち、アメリカのクリーブランドのカトリック病院でインターンをしているときのことだった。

秋の夕日がエリー湖の彼方に沈む頃、救急室で当直をしていた私のところに、白人の母親がきつい顔で「我が子がベッドから落ちた」と子どもを抱きかかえて、入ってきた。細かく診察してみると、身体のあちこちに新旧の傷あとがあった。ついで、左手を持ち上げると、大きな声で泣いた。早速レントゲン写真をとってみると、左の上腕に骨折が見つかった。他にも、治りかかった古い骨折のあとがあった。インターンの私は、当直にあたっていた先輩の医師に報告した。彼はすぐに診察をし、その後、市立病院でもある大学病院に送ると言って電話をかけ始めたので、私は驚いた。彼は「子ども虐待(Child Abuse)」だと言うのである。インターンが始まって間もない私はまだ知らなかったが、当時、豊かなアメリカでは「子ども虐待」が増え始めていた。様々な事情を考えて、先輩の医師は、行政と連携している市立病院に連絡をとったのであろう。

それから5年程たった1961年、ニューヨークで開かれたアメリカの小児科学会でC. Henry Kempe医師が「Battered Child Syndrome(被殴打児症候群)」として「子ども虐待」の症例をまとめて発表した。アメリカでは、これを契機に、「子ども虐待」が社会病理のひとつとして認識されるようになっていったことはよく知られているが、1962年に私がロンドンのグレート・オーモンド通りにある子ども病院に留学していた頃、イギリスでも「子ども虐待」が問題になり始めていた。その頃、あるイギリスの小児科医が、私に「子どもに優しい日本では、『子ども虐待』 の事例はあるのか」と尋ねてきたことがある。私は当時、そのような話は見聞きしたことがなかったので、誇らしげに「No」と断言したことを思い出す。しかし、日本でも少し遅れて「子ども虐待」の症例が出現し、日本小児科学会で問題になり始めた。私がイギリスから帰国して間もない1960年代後半、東大の小児科でも「子ども虐待」の患者が入院したことを記憶している。周知のとおり、日本経済が戦後の荒廃から立ち直って、社会が急速に豊かになった時期のことである。

親子関係、特に母子関係が失調すると様々な子育て上の問題が起こるが、「子ども虐待」はその極限のかたちである。このような状況では、親に代わって社会が子育てを担うことが必要である。場合によっては、経済的な事情から、また、母親の孤立を防ぐために、母親の就業を支援することが求められることもあるだろう。しかしながら、子育ての在り方は多様であり、個々の状況に応じた方法で対応しなければならない。また、余りにも子育てを社会化しすぎると、親子の相互作用の機会が減少することも考慮する必要があるだろう。

このように、「子育ての社会化」が今のわが国にとって大変重要な問題であることは確かだが、この「子育ての社会化」を支援している新聞社があることは、ご存知であろうか。それは、読売新聞社である。読売新聞社では大阪本社が中心となって、10年ほど前から子育て講演会を行っていたが、2007年から「よみうり子育て応援団大賞」として、公募を行い、いろいろな子育て支援の団体を、賞金とともに表彰している。

今年、第7回となる2013年「よみうり子育て応援団大賞」には、全国各地から、大賞を希望する137団体と、奨励賞を希望する131団体の合計268団体が応募した。予備選考、一次選考を行って、大賞候補6団体、奨励賞候補14団体が残り、最終選考委員会が開かれ、大賞1団体と奨励賞2団体が選ばれた。全てが甲乙つけがたかったので、残念ながら受賞できなかった団体の中から、選考委員特別賞として、2団体が選ばれた。

今年の大賞に選ばれたのは、岡山県備前市の「NPO法人子ども達の環境を考える ひこうせん 」であった。古い民家を拠点として親子が集う広場や、父親向けの講座、育児相談等を行っている団体で、昨年の利用者は延べ9,700人にのぼったという。目指しているのは、子どもの育ちを社会全体で支える「子育ての社会化」そのもののようだ。大学や行政、企業、他の子育て支援グループと連携し、支援のあり方をともに考える取り組みは、これまでにないものであると高く評価された。

次に、奨励賞の2団体であるが、一つ目の、岐阜県高山市の「わらべうたの会」は、飛騨地方のわらべ歌を親子で学ぶ取り組みをしており、郷土の文化や暮らしを次の世代へ継承する重要な役割を果たしている。子どもの成長や心の発達ばかりでなく、親子のふれあいも応援するという、この賞の趣旨にふさわしい活動であると思った。

奨励賞の二つ目、京都市伏見区の「父活project(ちちかつぷろじぇくと) 」は、子どものおもちゃ作りを通して、お父さんの地域参加を進めるグループである。お父さんのための子育て支援活動は増えているが、男性が参加しやすい「ものづくり」に着目している点がとてもユニークであると評価された。

最後に、選考委員特別賞に選ばれた2団体であるが、北海道倶知安町の読み聞かせの会「ぐりとぐら」は、絵本の読み聞かせの会から発展し、幼稚園や学校でお話し会を開くなど、言葉の力を育む活動をしてきた。大阪市中央区の「特定非営利活動法人 プール・ボランティア 」は、障害がある子どもたちにもプールで楽しく安全に泳いでもらおうと、様々な取り組みを行っている。いずれも、長年、地道な活動を続けている点が評価されて、選考委員特別賞の受賞となった。残念ながら、賞金はついていない。

私は、読売新聞社大阪本社のこの運動に当初から関係し、「よみうり子育て応援団大賞」となってからは選考委員長を務めさせて頂いている。ぜひ、この素晴らしい運動があることを知って頂きたいと思い、ブログにとりあげた次第である。
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となりの猫〜母猫と子猫〜

2013年11月29日掲載
わが家では猫を飼っていないが、隣りの家には二匹の猫がいる。母と子の親子猫であるが、どういうわけか、夏のころから、私に挨拶をするようになった。私がわが家の門をくぐろうとすると、隣りの家の門の脇で木陰の涼を楽しんでいるこの親子の猫が、私の顔を見て「ニャー、ニャー」と鳴くのである。何となく愛嬌があって、私も悪い気がしないので、自然に笑顔で手を振ってしまう。子猫はまん丸の顔で、大きな目で私を見ながら鳴くので、特にかわいいと思っていた。

秋風が吹き始めて、ちょっと涼しくなった、ある夕方のことである。わが家に入ろうとすると、隣りの家の方から、突然、母猫が私の方に走り寄ってきた。私の脚に絡みつき、何かを訴えるように「ニャー、ニャー」と泣きつくので、私はとても驚いた。飼い主と私を見間違えたのではないかと思うと同時に、いつも一緒にいる子猫はどこへ行ったのだろうかと心配になった。家に入って、妻にこの出来事を話したところ、子猫は、近くの獣医さんの紹介で、わが家から1キロメートルほど離れたお屋敷に貰われていったという話を聞いたと教えてくれた。

猫が、人類とは長く特別な関係を持ってきた動物のひとつであることは、よく知られている。記録によると、紀元前数千年前のエジプトで飼われていたと伝えられ、わが国では奈良時代に中国から渡来してきたと言われている。そんな猫が、人間を見間違えることはまずないだろう。闇の中でも瞳孔を大きく開いて光の情報を集める視覚や、鼻孔を大きく開いて匂いの化学情報を集める嗅覚が共に優れていることを考えても、人を識別する際に間違えることは、まずないものと思う。

そう考えてみると、あの母猫の行動は一体何だったのだろうかと思いを巡らせてしまう。可愛がっていた小さな子猫が貰われていってしまい、母猫として何か感じていたのだろうか。私に何か訴えたいことがあったのではないかと考えると、心の痛む思いがする。猫の行動に詳しい方に、ぜひ、教えて頂きたいものである。

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中国の子ども学

2013年9月27日掲載

CRNは、設立以来、中国との交流を積極的に進めてきた。それには、私が中国という国が好きであるという背景もあり、CRNが日本語、英語の次に、中国語のサイトを立ち上げることになったのも、これと無関係ではない。私はさらに、CRNの中国との交流の核として「東アジア子ども学交流プログラム」を作り、事あるごとに、日本と中国が一緒になって「子ども学」について考える機会をつくってきた。

日本と中国の国交正常化が1972年のことなので当然であるが、私が中国に行き始めたのは1970年代に入ってからである。その頃私は、東京大学の小児科医として、もしくは、小児アレルギー学者として中国を訪れていたが、1996年にCRNが設立されてからは、CRNの代表として、また、「日本子ども学会」の代表として、「子ども学」をテーマに交流するようになっていった。

実のところ、「子ども学」を中国語でどのように表現するのかは大きな問題になった。なぜならば、「子ども」を中国語にすると「孩子(ハイツ)」「小孩(シォハイ)」になるが、それは「ガキ」とか「小僧」のような言葉であって、その後に「学」を加えても学問というイメージにはならない。結局のところ、「子ども学」は中国語で、一般的には「児童学」という堅い言葉が使われるようになってしまった。そこでCRNでは、中国語サイトを立ち上げる際に専門家が集まって議論を行い、英語の"Child Science"の訳語に近い「児童科学」という言葉も使うことにして、現在に至っている。

少し話がそれてしまうが、国立小児病院を定年でやめて、関西の女子大学で教え始めてから、保育学にもう少し教育学的な考えを導入すべきではないかと考えるようになった。現在の日本では、保育士になるための保育学と、幼稚園の先生になるための幼児教育学とでは、全く内容が異なる場合がある。保育学の中心は、子どもの「遊び」と「生活の世話」であるが、幼児教育学はいわゆる就学前教育で、教育学的発想が中心になっているのである。しかし、考えてみれば、子どもはこの世に生まれて来るや、経験すること、感じることすべてが初めてであり、生活の中で、親や養育者と一緒にそれに対応し、学んでいる。子どもの体の成長や心の発達は、その日々の「学び」の結果といえるであろう。したがって、幼稚園・学校という教育の場だけで行われているものだけが教育ではなく、日々の生活や保育の場においても、教育学的な発想が必要であると考える。

中国では、保育と就学前教育は区別していないようだ。あくまで都心部の話であるが、0〜2歳については、祖父母やお手伝いさん(阿姨/アーイー)による家庭での保育が一般的であり、2、3歳になると幼稚園に入園する。この幼稚園は、教育的発想に基づいたカリキュラムのある保育を行っているが、同時に、朝から晩まで子どもを預かり、働く親たちの生活を支えている。保育と教育が一体となっている点で、日本より一歩進んでいるという印象を持つ。

最近、関西の学会のために訪日された上海師範大学の学部長である陳永明教授以下、方明生教授、李燕教授、付属小学校・付属幼稚園の先生2人とお会いする機会を頂いた。私の提唱した「子ども学」を評価してくださり、方教授が中心となって、立派な「子ども学」の教科書「儿童学概论(児童学概論)」を出版し(表1)、さらに、大学に「子ども学部」を創設されたとうかがい、大変うれしく思った。また、陳教授も方教授も日本語が堪能で、コミュニケーションに困ることはなかったことも、驚きであった。


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中国の教授陣・現場の先生方とご一緒に
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「児童学概論」

私が考え、体系づけた「子ども学」を介しての交流が始まって、10年程になるが、中国の上海で「子ども学」が大きく花開いたことは、この上ない喜びである。
(表1)教科書「児童学概論」の目次
  • 第1章 「子ども学」へ―教師養成における「子ども学」の意義
  • 第2章 子ども観と教育―教育の基点としての子ども認識
  • 第3章 子ども政策―"子どもの権利"理念の下での政策概要
  • 第4章 子どもの栄養―現代の子どもたちの栄養の問題
  • 第5章 子どもの健康―現代の子どもたちの健康の問題
  • 第6章 子どもの心理発達―子どもの心の発達の問題
  • 第7章 子どもと哲学―子どもへの哲学教育の開拓
  • 第8章 子どもと文学―児童文学教育の深化
  • 第9章 子どもと科学―子どもにとっての科学の世界と科学探求
  • 第10章 子どもと造形―視覚世界の中での子どもの発達
  • 第11章 子どもと音楽―聴覚世界の中での子どもの発達
  • 第12章 子どもと遊び―遊戯活動と子どもの発達
  • 第13章 子どもと環境―環境と子どもの発達

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6月30日(日)、CRN主催による第1回ECEC研究会が、お茶の水女子大学で行われた。私も出席したが、幼保一元化などの現在の保育問題を考える良い機会となった。

最近の保育のあり方をみると、昔の保育とは大きく異なっていると感じる。私は医者であるので、身近な例として女性医師について話をしよう。

女性医師が結婚し、赤ちゃんが生まれると、まず問題になるのは保育園探しである。医師として仕事を続けるためには、赤ちゃんを預ける場所としての保育園が必須だからである。戦前であれば、医師の家庭は経済的に豊かで、生まれた我が子を世話する女中さんを雇い入れ、女中さんの住む部屋を用意することもできた。この頃、女中さんがいる家庭は少なくなかった。一方、1920年代に生まれた私が小学生の頃、今の保育園に当たるものは「託児所」と呼ばれていた。当時私は、この「託児所」を、生きていくために働かなくてはならない母親が仕事の間に子どもを預ける施設、つまり、社会的に恵まれない人々のための施設であると感じていた。

しかし、社会が発展し、豊かになるとともに、誰もが希望通りではないにしろ、学校に入り、勉強して、なりたい職業につくことが可能な社会になった。敗戦によるアメリカの占領政策の良い影響もあってか、日本政府は男女平等政策を進め、女性の社会参加が実現し、女性無しには社会が機能しなくなってきている。それに伴い、女性の働き方も多様化し、赤ちゃんを預ける時期や方法、産休・育休の取り方も人それぞれ異なるため、それに応えるべく、多様な保育制度が必要になっている。先進国のひとつとして、世界の経済もリードしているわが国の保育園は、女性の就業を可能にするだけでなく、男女が協同して社会を維持するための子育て支援システムとして考えなければならない時代になっている。このような子育て支援システムがなければ、現在の社会を機能させることができないのである。

さて、もともと「託児所」として始まった保育園であるが、その教育的側面について考えてみたい。何も知らないで生まれてきた赤ちゃんは、育っていく中で、食べることから排泄の仕方まで、生活に必要な心と体のプログラムを学びながら、発達する。それは、日々、生活を支援してくれる大人から教えられているのである。勿論、これらは、学校で知識中心に教える教育と同じではないが、広い意味で、「教育」の中に入ると言えるだろう。特に、乳幼児に対する教育は特殊で、学校に入ってから始まる教育の準備や、「しなければならないこと」「してよいこと」「してはいけないこと」などの「しつけ」も含めて、日常的に子どもの生活を支援する中で教えていく必要がある。私は今後、これを「保育教育学」として体系づけなければならないと考えている。

"ECEC"とは、"Early Childhood Education and Care"の略であるが、上述の私の考えを表現するのに適していると思った。私と同じような考えを持つ人が、外国でも主流になりつつあることは、大変うれしいことである。6月30日のECEC研究会を受けて、「保育」の中にある教育性を科学的に整理して新しい保育のあり方を体系づけることにより、現在問題になっている「幼保一元化」を、日本でも、なるべく早く実現して頂きたいと思った。

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6月9日(日)に早稲田大学 国際会議場 井深大記念ホールで「世界おもちゃサミット2013」が開かれた。多田千尋先生が館長を務める「東京おもちゃ美術館」と、私の関係する「日本子ども学会 "Japanese Society of Child Science"」が共催した小さな国際シンポジウムであった。8日(土)夕方には出席者の懇親会が行われ、その翌日となるサミット当日は、快晴に恵まれ、朝10時から夕方5時まで、多数の出席者のおかげでホールはほぼ満席であった。

まず、開会式でご挨拶をさせて頂いた。はじめに、小児科医として「子ども学 "Child Science"」という考えに至った背景を述べ、つづいて、日本子ども学会10年の歴史について話をした。そして、子どもの体の成長と心の発達には「生きる喜び "Joie de vivre"」を持つことが重要であることを申し上げた。その「生きる喜び」を生み出す仕組み、特に脳の働きについて考える学問を「子ども生命感動学 "Child Bio-emotinemics"」 と呼ぶ私の考え方についても説明した。そして、おもちゃは、子どもを「生きる喜び」でいっぱいにする力を持っているが、このサミットの中で、その理由を考えて頂きたいと出席者にお願いして、挨拶を終えた。

つづいて、二つの基調講演を頂いた。榊原洋一CRN所長(日本子ども学会副理事長、お茶の水女子大学教授・小児科医)より「子どもの発達とおもちゃ」、春日明夫先生(東京造形大学教授)より「おもちゃは世界の文化財」というタイトルの講演であったが、いずれも内容豊かで、学ぶことが多かった。

午後は、二つのセッションが行われた。第一部は「遊びとおもちゃのセッション(発達・環境・福祉)」であったが、私は、第二部の「世界の遊びとおもちゃのワークショップ」のセッションが特に興味深く、個人的に関心をもった。

第二部の一つ目は、ドイツのPeter Hanstein先生のセッションであった。彼は、家庭と自然を大切にする心を柱に、木や竹を使ったおもちゃの会社「Hape社」を中国に設立して、世界の子どもたちに供給している。その体験を、おもちゃを作る理念と共に話された。二つ目は、タイのVitool Viraponsavan先生からのセッションであった。彼は建築家で、ゴムの木の廃材を利用しておもちゃを作る「Plan Toys社」を設立しており、おもちゃの製造を地球温暖化の防止に役立てることを考えていて、感銘を受けた。

日本国内ばかりでなく、外国からもおもちゃに関心を持つ沢山の研究者、学者が集まり、議論することができた意義は大きい。更に、「グッド・トイセッション」として日本グッド・トイ委員会が選定したグッド・トイの展示もあり、来場した人が、実際におもちゃに「触れる」「動かす」ことができた点は、特に良かったと思う。いろいろな視点から考えて、「世界おもちゃサミット」は、今後も続けていただきたいと思った。

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「NHKと私」

2013年7月26日掲載

3月22日は、NHKラジオ放送が始まった「放送記念日」である。今年は、初めてその式典にお招きを受けた。NHKとは長い間仕事をさせて頂いてきたので出席することにしたが、葉書で返事をすると、車まで用意してくださるというので驚いた。どうやら全ては、現在私が「子どもに良い放送」という調査研究プロジェクトをお手伝いさせて頂いている、NHK放送文化研究所のアレンジによるものであったらしい。私はかつてNHK交響楽団の会員として、演奏を聴きによくNHKホールを訪れていた。この度そのホールで行われた式典は、NHK交響楽団の演奏から始まる、大変立派なものであった。

NHKがラジオ放送を始めたのは1925年3月22日である。私の生まれる2年前のことだが、「JOAK」のコールサイン*1で始まったという。私の頭に残っているNHK放送の最も古い記憶は、ベルリンオリンピックの水泳の実況放送である。「前畑がんばれ、前畑がんばれ」と言うアナウンサーの声を、一緒に聴いた父のことと共に思い出す。戦争中の放送のこともいろいろと思い出すが、末期は海軍の学校にいたので、放送を聴くことはなかった。そして、教室で聴いた8月15日の玉音放送と共に戦争が終わり、戦後が始まった。

戦後、日本はあっという間に放送天国になってしまった。その始まりは1951年の民間のラジオ放送であり、1953年にはテレビ放送が始まったと記憶している。民間のラジオ放送が始まってわずか数年後のことである。私は当時大学生であったが、電気屋さんの店頭に並ぶテレビの映像を見るために群がった人々の姿が、今も目に浮かぶ。

「テレビやラジオの放送に出演したことがあるか」と問われれば、"Yes"である。母校の東京大学の教授になって7、8年経過した1970年代後半のこと、NHKのスタッフから、「お母さん方を対象とした朝の番組にレギュラーとして出演し、子育ての話をしてほしい」という申し出があった。番組は「こんにちは奥さん」というタイトルであったと思う。今のように大学教授がテレビに出演することのなかった時代なので、医学部の事務局に相談したところ、事務局長始め事務局の人は皆、「社会教育として大きな意義があるので、ぜひ出演して頑張ってほしい」と言ってくださり、安心して、この申し出を受けることにした。

週一回、朝7時前にNHKからハイヤーが迎えにきて、8時頃にスタジオに入り、簡単な打ち合わせをして、お母さん方と一緒に本番を迎えた。アナウンサーは誰でも知っている、とても有名な方であった。しかし、開始から数ヶ月後に政界が動き、総選挙に入って、この放送は中断してしまった。残念というより、安心したという感じが強かった。

テレビに出るということは顔まで覚えられるということであって、東京は勿論のこと、北海道や山形、鳥取、福岡に至る日本全国で、また、鉄道のホームや空港のロビー、小さな町のレストランや寿司屋さんで、「朝のNHKのテレビに出ている小林先生ですね」と声をかけられるようになったのである。テレビは日本の津々浦々で見ることができるので、当然のことであろう。

ラジオ放送となるとテレビとは大分異なる。テレビ放送に出演してから数年たって、NHKからラジオ放送にも出演を依頼された。教育問題について話したと記憶している。深夜放送であったが、それでも日本のどこかで聴いている人がいて、NHKに直接手紙が寄せられてきた。いずれも真面目なご意見で、大変勉強になった。

赤ちゃん研究や子育て問題などの特別番組のお手伝いをさせて頂いたことも、忘れることができない。NHKは、いつも"best"を目指すので、ハーバード大学の育児学のBrazelton教授を招いて番組を作ってくださったことは、今も良い思い出として心に残っている。それは、アーカイブに保存されていて、いろいろな教育に利用されているという。

今年はじめて放送記念日の式典に出席させて頂き、芸能人や多くの有名人の顔を見て、今更ながら、NHKとはご縁の深かったその昔を思い出した。


*1 コールサイン(呼び出し符号)とは、無線局の識別ができるようにするための符号のことで、電波を出している放送局に割り当てられている。大正14年の開局時に「JOAK」がNHK東京放送局のコールサインとなった。
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CRN読者の皆さま


突然ではありますが、年齢のことも考えて、CRN所長を副所長のお茶水女子大学教授榊原洋一氏にバトンタッチすることにします。長い間お世話になりました。CRNには、体力の許すかぎり、名誉所長として寄稿するなど、お手伝い致す所存です。

考えてみますと、CRNは私が国立小児病院を定年で辞めた1996年の4月に、当時ベネッセコーポレーションの社長であった福武總一郎さんのご支援によって始めたものでした。

その発想の起源は、それからさらに4年ほど前の1992年春、ノルウェーのベルゲンで開かれた"The Norwegian Centre for Child Research"主催の国際会議「危機にある子どもたち」の後に開かれた小さな話し合いにあります。なお、このノルウェー国立の研究所は、当時は学際的・環学的な「子ども学」の研究をする場所と考えていましたが、最近そこを訪問した榊原氏によると、現在は文化人類学的な研究をしているそうです。必要に応じて研究の目的や方法を変えて研究する研究所と言えるかもしれません。

前述の、国際シンポジウム終了後の小さな話し合いに話を戻しましょう。今でも、その時の様子をありありと思い出すことができます。世界の参加者の中から選ばれた、子どもに関心をもつ学者・実践家が、大型バス2台に乗り、ベルゲンから半日ほどの時間をかけてフィヨルドの水際に建つホテルに集まったのです。ホテルの裏の山には残雪があり、山も空も夕日に輝いて赤く染まっていました。そこで話し合われたことは、子どもに関心をもつ世界の学者・実践家をインターネットでつなげて子どもの問題を解決しようという話でした。当時インターネットの事は何も知らなかった私には、話の内容がよく理解できず、具体的なイメージがわきませんでした。

しかし、幸いなことに帰国後1年ほど経つと、国立小児病院にもインターネットが導入され、その端末が院長室にも置かれたのです。その使い方もすぐわかり、ベルゲンの話の重要性も意義も理解することができました。それには、インターネットの操作に長けていた院長室の秘書Tさんの力も大きかったと思います。

そうこうしているうちに、定年の時が来たのです。私は、インターネットで我が国の子どもの問題に関心をもつ学者・実践家をつないで、子ども問題の解決に貢献することを、最後の仕事にしようと考えたのです。それで、ベネッセコーポレーションの福武社長にお願いに上がることになりました。

この時お世話になったのは、当時ベネッセコーポレーションの教育研究部長だった島内行夫氏と、私の医学部同級生の石井威望氏でした。島内氏には、福武社長を紹介してくださるなど、いろいろとご支援をいただきました。石井氏は、同級生でありますが、東京大学医学部を出て医師免許を取った直後に工学部に入りなおして情報工学の専門家になりました。私が教授になったのとほぼ同じ頃、工学部教授になった親友です。そして、私の赤ちゃん研究からはじまり、いろいろとご支援くださいました。CRNの計画をお話しすると、Child Research Net (CRN)という名前まで考えてくださり、いろいろご指導をくださったのです。

その後CRNは、様々な方のご協力により発展し、現在は日本語版ばかりでなく、英語版、中国語版(簡体字と繁体字)と3つの言語、4つのサイトに広がり、世界各地で子どもに関心をもつ学者や実践家と交流しています。これも、皆さん方のご指導、ご支援のおかげです。

 

今回、私も応分の年齢になりましたので、いろいろ考えた末、この4月から榊原氏にバトンタッチすることにしました。

榊原氏は、学生時代の頃から小児科に熱心な学生として記憶に残っています。卒業後私の小児科教室に入局し、小児科の臨床をされ、アメリカにも留学して小児神経学を勉強され、小児科専門医になられました。そして小児科医としては、数少ない「発達障害」の専門医として、診療ばかりでなく研究でも活躍されています。現在はお茶の水女子大学大学院で育児学・保育学・幼児教育学などを講義し、女子高等教育において活躍されています。また、私の始めた「日本子ども学会」でも副理事長として私をサポートしてくださっています。

これからのCRNは、榊原氏の新しい発想のもと、ますます活発に活動することになるでしょう。皆さま方におかれましては、これまでのご支援に感謝致しますとともに、引き続きご指導とご支援を賜りますよう、よろしくお願い申し上げます。

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ゲームと遊び

2012年11月 9日掲載

中山隼雄科学技術文化財団が研究費を出して応援している研究者の発表会が、10月10日の午後に東京で開かれた。この財団には、現在は関わっていないのだが、中山隼雄さんが設立して以来最近まで関係していたためにお招きいただいた。テレビゲームなどのIT技術は、教育にうまく利用すれば有用であることは明らかなので、毎回出席して勉強させていただいている。

第Ⅰ部では「オンラインゲームとゲームの教育利用」というテーマで3題の口演発表、「ゲームと遊びの本質・影響」というテーマで14題のポスター発表がされた。第Ⅱ部でも「オンラインゲームとゲームの教育利用」というテーマで2題の口演発表、また「新しいゲームと技術」というテーマで14題のポスター発表が行われた。そして最後に「デジタルゲームを用いた遊びと学習の違い」という調査研究が口演で発表された。

その全てをここに紹介することはできないが、個人的に関心をもったテーマを紹介しよう。
宮崎大学の宮野秀市さんは、仮想環境に高い臨場感を感じる者は、低い臨場感を感じる者に比べて、「他人との信頼」が高く、「行動が他者の影響を受ける傾向」とか「不安障害傾向」が低いことを、平均年齢20.8歳の女子学生41名を対象に性格検査質問紙を使って示した。また、岩手大学の藤井義久さんは、小学4年から6年の小学生354人を対象に質問紙調査を実施し、テレビやパソコンなどの電子メディアを利用した遊びをよく行っている子どもほど、またひとり遊び、点数を競わない遊び、体を動かさない遊びを好む子どもほど、キレやすいことを示した。

名古屋工業大学の田中悟志さんは、高度な視覚・運動制御が必要なアクションビデオゲームの経験は、右頭頂葉領域灰白質の体積を増加させる可能性を示し、この部分が視空間認知能力と関係するからであると説明した。

鹿児島大学の福留清博さんは、高齢者福祉に対するビデオゲームの利用について興味深い発表をした。ビデオゲームを利用したバーチャルリアリティ訓練をすると、片足立ち時間、10m最大歩行速度、左足中心移動速度などが向上し、高齢者の転倒を予防できる可能性があることを示した。

工学的な研究発表も多く、「視覚楽器」と称する時空間イメージを創り出す装置、二次元・三次元の動画の滑らかで高速な動きを作り出す技術、コガネムシや蝶、またサラマンダーなどの動物の動作を自然に作り出す装置の開発などが発表された。また、知的障害や読み書き障害のある子ども、入院治療を予定している子どもたちを遊ばせて、障害の克服や病院で受ける治療を学習させる研究まで発表された。

わが国では、メディアなどの技術を利用する弊害が強調されているが、コンテンツを含めうまく利用すればメリットは大きいことを、これらの研究は我々に教えている。

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