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前回の日記では、娘の将来の「夢」に関する話をきっかけに、「女らしさ」・「男らしさ」といったジェンダー意識のあり方について考えてみました。そして、今日の日本社会では、若い人たちほど昔からの性別役割意識にとらわれることなく、仕事でも家庭でも、男女が平等に役割を果たすべきだということを感じている様子について紹介しました。ただし、そういった若者たちの意識も、必ずしもジェンダー平等の意識が浸透してきた結果として生まれているのではなく、経済不況などの社会環境の変化が影響していることも忘れるわけにはいきません。このように、非常に複雑なジェンダーの問題ですので、今回も引き続き考えてみたいと思います。
父親にはできないこと
前回は性別役割分業への考え方を通してジェンダーについて考えてみましたが、仕事か家事かといった単純な分け方では、なかなかとらえきれない側面があるように思えます。「ジェンダー平等」という言葉を使ってきましたが、何をもって「平等」とみなせば良いのでしょうか。
そもそも、女性と男性が全く同じことをすれば「平等」だというわけではありません。母親にはできて、父親にはなかなかできないことが、さまざまにあります(逆もまた然りだと思います)。また、病気のときなど心も体も弱っているときは、本能的に母親の存在を求める傾向にあるように思います。もちろん、これは私の気のせいかもしれませんし、それこそ性別役割意識が刷り込まれてしまっているが故に感じてしまっているだけなのかもしれません。
たとえば、とても具体的に違いを感じてしまうのが、女の子としてのさまざまな習慣への対応です。毎朝、どうしても私にはできないことが、娘の髪の毛を結んであげることです。どちらかといえばショート・カットの娘なのですが、髪の毛をゴムで結ぶことに情熱を傾けているため、必ず保育園へ行く前に妻がやってあげています。
そのため、妻が出張や朝早くの講義などでいないとき、わが家はパニックに陥ります。私は、何度も結んであげようとトライしたのですが、不器用なせいでまともに結べたことがありません。私の太い指では、ゴムを固く結ぶことができず、すぐに緩んでしまいます。そもそも、自分の髪をゴムで結んだ経験など一度もないのですから、要領などわかるはずもありません。何とかそれらしく結ぶたびに、娘はゆるーく髪の毛に乗っかっているに過ぎないゴムをむしり取り、「こんなんじゃ嫌!」と言って、もう一度きちんと結ぶように要求してきます。結局、私の努力もむなしく、いつも近所に住む義母のもとへ駈け込んで、結んでもらうのです。
「ジェンダーの問題」などと大上段に構えた割には、髪の毛を結わくことなど、些細なことにこだわっていると思われるかもしれません。しかし、髪を結わくことはあくまで身近な一例に過ぎません。スカートの選択から絵本や人形の好み、大好きなアニメ番組まで、娘の様子をみていると、男4人兄弟で育った私にはすべてがカルチャー・ショックとしか言えません。女の子を対象とするオモチャや洋服などのお店には、娘が生まれるまで一度も足を踏み入れたことがありませんでした。ピンク色やパステル・カラーに溢れたそういったお店を目にするたびに、遠い異次元の世界のように思っていました。前回の日記で触れたように、「ジェンダー」と称される性別役割は歴史的・社会的に構築されているわけですが、確かに育った環境や文脈によってジェンダーに関する意識が大きく影響されていることを、日々実感しています。
しかし、それと同時に、4年以上も娘の父親という役割を与えられると、人間は変わるものだなとも思います。いまでは、海外出張のお土産探しでは女の子を対象とするお店に真っ先に入り、娘の大好きな色であるピンク色のオモチャや洋服を無意識のうちに探しています。さらに、娘が女の子向けのアニメ番組を観ていると、知らず知らずのうちに娘と一緒に主題歌を口ずさんでしまっています。その度に、「パパは男の子だから歌わないの!」と、娘にたしなめられる有様です。それらの経験を通して、娘のなかにジェンダー意識が確実に芽生えていることを実感する毎日です。
ジェンダー・フリーとは
前回と今回の日記をここまでお読みになられた方は、私が「ジェンダー意識の刷り込み」といった言葉を使ったりしていることからも、ジェンダー意識に対して批判的な立場をとっているとお感じになるかもしれません。
確かに、ジェンダー意識は、ジェンダー格差やジェンダー差別といった言葉で表されるように、社会における男女間の格差や差別を生み出す原因となっています。そのため、ジェンダー意識にとらわれず(=ジェンダー・フリーの状態)、男女が対等に生きることのできる社会の実現を目指すことが大切です。私自身、娘には「女性であるから」という理由で、自分の生き方を狭めず、自らのもてる力を存分に発揮しながら生きていって欲しいと願っていますし、そうしたことが可能になる社会を実現することに、少しでも貢献していきたいと思っています。
ただ、それと同時に、当たり前のことですが、ジェンダー・フリーであることと、「女らしさ」・「男らしさ」を否定することとは、意味が異なるとも思います。確かに、娘は知らず知らずのうちにピンク色を好み、女の子の好きな遊び(おままごとや人形の着せ替え遊びとなど)に熱中していますが、それは果たしてジェンダー意識の刷り込みの結果だけなのかは、疑問です。
おままごとで、自ら母親役を演じ、同級生の男の子を父親役にしながら、「○○ちゃん、すぐに止めたらダメだからね!」と言っている娘の姿は、それはそれで自然な姿にも思えます。ちなみに、相手役を任されてしまった男の子は、おままごとをするとすぐに飽きてしまって他の遊びをしようとするので、娘は必ず遊びだす前にこう言って釘を刺すのです。そんな2人の姿を見ると、女性の役を務めることが、必ずしも弱い立場を意味するわけではないことに気づくのです。(もちろん、子どもたちのおままごとと、社会的に女性が抑圧されてきたこととを、同列に論じることはできませんが・・・)
前回の日記で紹介した、学校現場での「隠れたカリキュラム」も、かつてほどは明確に男女の役割分業を刷り込もうとするのではなく、できるだけ男女平等の考え方を伝えるように意識化されてきています。
ただ、それでも社会のさまざまな側面で、いまだにジェンダー平等が十分に達成されていないこともまた事実です。たとえば、日本の高等教育の在学率をみると、男性が61.5%であるのに対して、女性は54.1%にとどまっています。これは、女性の高等教育在学率が9割を超えているアメリカや北欧諸国と較べて非常に低く、先進国(=経済協力開発機構[OECD]加盟諸国)のなかでも最低水準にあることがわかります。また、高等教育を受けた女性(25~64歳)の就業率が、やはりOECD諸国のなかで最も低いグループに属しています。(これらのデータについては、内閣府の『男女共同参画白書 平成22年版』をご参照ください http://www.gender.go.jp/whitepaper/h22/gaiyou/html/honpen/b1_s00_03.html)
実は、高校段階までの学力をみたときに、明確な男女差を認めることはできません。たとえば、OECDによる「生徒の学習到達度調査(PISA)」の2009年調査結果のなかで男女の平均点を比較してみると、読解力については女子の方が男子よりも点数が高く、数学的リテラシーと科学的リテラシーについては有意な得点差は確認されませんでした。(PISAの2009年調査結果の要約:http://www.mext.go.jp/component/a_menu/education/detail/__icsFiles/afieldfile/2010/12/07/1284443_01.pdf)もちろん、PISAの結果と大学・短大への進学に必要とされる学力を直接的に結び付けて論じることは少々乱暴ではありますが、その他の学力テストの結果においても、学力に明らかな男女差がみられ、男子の学力到達度が明確に高いといったデータを、私は基本的に目にしたことがありません。
それにもかかわらず、高等教育の在学率にこれだけの差があるということは、やはりジェンダー意識の影響を考えずにはいられません。また、せっかく高等教育を受けた女性が、その能力を社会的に発揮する場が限定されているのならば、残念なことです。(もちろん、家庭で家事や育児を通して能力を発揮することを、自覚的に選択している女性もいるとは思いますが、やむなく仕事を辞めざるを得なかった女性も多いことと思います。)
ジェンダーは、歴史的・社会的に構築されてきたと言いました。以前よりは、女性がより高い教育を受けることや仕事に就くことに対する社会的な理解は深まっていると思いますが、それでもいまだに目に見えないさまざまな壁や偏見があります。それを乗り越えるためにも、「男」・「女」といった区別をするのではなく、まさに「ジェンダー」の視点から男女の平等なあり方を考えることが欠かせません。
結局、女の子であろうが、男の子であろうが、「女だから」とか、「男だから」といった理由で夢を諦めるのではなく、自らのもっている力を最大限に発揮して、それぞれの夢に向かって挑戦していけるような社会を実現していくことが、私たち大人の責任だと思います。
前回の日記で、娘の将来の夢をご紹介しました。そこで娘が語ったように、「おかあさん」でもいい、「コックさん」でもいい、あるいは他の何でも良いのです。娘がなりたいと思う自分の姿を思い描き、それに向かって努力していってくれること。そうした努力が、社会的な無理解や偏見によって妨げられないこと。そして、そうした生き方を通して自分らしい人生を歩んで行き、幸せになってくれることが、父親としての私の「夢」なのです。