ニューヨークのビジネスマンにとって、昼休みにお皿に盛られてナイフとフォークが添えられた物体を見るとそれはランチ(=食事)と認識されるでしょう。ルアーで魚を釣ったことがある人は、スプーンのような形をした金属の板で魚を釣ることが出来るという事実を知っていますが、この場合魚にとってスプーンのように水中をジャバジャバと蛇行する光る物体が「餌」と認識される訳です。私は子どもの頃カエル釣りが好きでしたが、カエルはもっと単純で、鼻先でリズミカルに上下に動く直径数ミリの物体はなんでも「餌」と感じて飛びついてくれます。それらの事実は動物は何かを知るときに、知識よりもっと単純な感覚の組み合わせでそれを知るように脳神経が合成されているということを示しています。このような「何かを知るためのその元となる知識」のことを心理学者はメタ知識と呼ぶのです。
さてそれではメタ知識がどのように作られるかといいますと、これまでのリンゴや餌やランチ(食事)の例から既におわかりだと思いますが、感覚情報をある方法で取りまとめてそれが何であるかを知る神経経路、つまり認識に至るための知識としての神経回路の記憶がメタ知識ということになります。そしてこのメタ知識は自分自身が経験したことから集約された知識として脳内に記憶されているはずです。しかし私たちはこの経路を特別に意識的に働かせることはありません。赤くて丸くて芯が出ているからこれはリンゴだと認識してから食べるのではなく、空腹を感じればほとんど無意識かつ自動的に手が伸びてリンゴを口に運んでいると思います。このような無意識に働く知識であるメタ意識を私たちはどのようにして身につけるのでしょうか?間違いなくそれは生まれつき持っているのではなく生後の経験から習得されるものだと思われます。なぜならばギリシャの数学者ユークリッドや哲学者アリストテレスに携帯電話を見せたとして、生まれて今まで一度も見たことのない物体をいかなる天才であっても、ヒトはそれが何であるか認識することは出来ないでしょうから...
今まで見たことのない物体を認識することが出来ないという事実を少し気の毒な実験ですが、生まれたばかりの子猫を数週間真っ暗闇の中か真っ白な壁だけの環境で飼育しますと、視覚を失うという現象が報告されています。ヒトでも生まれつきあるいは生後すぐに視力を失った子どもが大人になってから手術で視力を取り戻しても最初は全てを手にとって触覚で確かめないと認識できない事が後天的な開眼者の症例から報告されています。このようにメタ知識やメタ意識が働かないとヒトは感覚情報を全くと言っていいほど認識することは出来ないのです。このメタ意識が意識のフィルター機能とも関係していることは前節でも述べましたが、このことをもう少し掘り下げて見ましょう。
私は個人的には脳の中に上下関係など無いと考えているのですが、説明の為には一般的な用語を使う方が便利ですので、これから使うトップダウンとボトムアップという2種類の心理学用語を先に解説しておきます。脳あるいは意識の中でより中枢に位置する大脳皮質のおそらく前頭葉連合皮質に近い方向を上位として、末梢感覚のおそらく皮膚の最外層に近い方向や視覚の網膜に一番近い方向を下位の方向として、上位である中枢から下位である末梢に向かう働きをトップダウン、下位である末梢から上位である中枢に向かう動きをボトムアップと呼びます。私たちの脳神経システムはボトムアップの感覚情報に対してトップダウンの抑制が無意識かつ自動的に働くように出来ていて、この抑制はボトムアップに対して行われるトップダウン的フィードバック抑制と呼ばれます。意識のフィルター現象はこのトップダウンによるフィードバック抑制で感覚情報を選別して、意識するべきものと、意識にのぼらせないで自動処理するものと、抑制して消去するものとに情報を非意識的に選別していることは第45回と.第46回で繰り返し述べてきた通りです。意識とメタ意識について現在私が考えているモデルを下図に示します。
さて私たちが何を意識して何を意識しないかが、実は生まれた後の環境から経験を通じて個別に習得される非意識的な脳神経システムの機構で、決して生まれる前から持っている生得的な能力ではないということが納得できたでしょうか。そうすると意識していることに対してそれを良いものか悪いものかをトップダウン的に区別する能力も当然生まれた後の環境から習得されるわけで、また意識に上る前からすでにその仕分け作業が始まっているということになり、これらのトップダウン的選別機能はその構造的フレームの設計図は生前から規定されているとしても、その働き方は生後の環境依存性に習得される機能だと結論づけることになります。つまり「良心は公平に分配されてはいない」のです。だからこそ子育ての中でメタ意識(=コモンセンス;良心)を鍛える必要があるのです。子どもは放っておいても自動的に良心を持った人間に育つように見えますが、実はそれは周囲の環境から自動的かつ非意識的に習得された能力なのです。このときに子どもたちは親がどうしているかを見て、その意図を感じて周囲の文脈から良いか悪いかを理解して、生まれて初めて見るものへの理解(=メタ意識)を記憶回路に蓄積していくのです。これが人類の赤ちゃんに特に発達した社会的参照と呼ばれる学習機能です。そう考えると子どもには良いことを教えて悪いことは見せないようにしなければなりません。はたして現代社会のコマーシャリズムは子どもたちに健全な倫理的メタ意識を育てるに相応しい情報を選別しているのでしょうか?
メタ意識的機能が欠如した社会では、正しいメタ意識を持った子どもが育たないのは当然の帰結で、このことの実害は我々の社会全体にはね返ってきます。いま一度、子どものメタ意識を育て鍛えることの重要性を社会全体で再認識する事が大変重要で緊急性のある課題だと私は強く危惧しています。
しかし社会が悪いのだからといって、自分自身の子どもが悪くなるのを一向に構わないと考える親はそう多くはないでしょう。自分自身の子どもだけは良い子に育って欲しいと願うのが一般的な親としての願望ではないでしょうか。そこで現時点で考えるべき「メタ意識を鍛える子育て」の要点をいくつか列挙してみましょう。(1)子どもが何に注意を払うべきかを生まれた直後から教える必要があります。このことが子どもが何を意識して何を意識しないか区別する基礎を作ります。(2)赤ちゃんの視力は生後3ヶ月までは数10センチぐらいで形の概観を捉える程度だと理解して、赤ちゃんに対してはなるべく大げさでわかりやすい表情コミュニケーションを常に心がける必要があります。特に口を開いて歯を見せる笑顔と、赤ちゃんの向いた方向を一緒に見て、指さしたり手前に持って来て優しく話しかけたりするコミュニケーションが早期の社会的参照を促すために効果的です。(3)言葉による聴覚的コミュニケーションは表情による視覚的コミュニケーションの土台がないと虚ろで脆弱なものになります。言葉への理解が十分発達する3歳ぐらいまでは常に手取り足取り、触覚と視覚に訴えるわかりやすい表情コミュニケーションを中心に子育てを行う必要があります。そうすることで子どもに早期から社会的参照の機能が働くようになり、赤ちゃんにも正しいメタ意識を持たせることが可能になります。
私が小児科の外来で一番気になる、多くの親たちがおかしている普遍的な失敗は「子どもに言って聞かせる子育て」を信奉するあまり、3歳前の言葉の理解の不十分な子どもにあれこれ子細にわたって大人の言葉で説明して理解させようと苦労していることです。そういう親の多くは子どもの目を見て話さない、表情コミュニケーションの基礎が出来ていない親と子どもの組み合わせです。こういう子どもの多くは社会的参照が下手で、意図や文脈の理解が出来ていません。このように育てられた子どもたちは言葉の本当の意味もわからずに口先だけで上手に言い訳することには長じていますが、社会的文脈というものは全く理解していませんし、周囲の人への気配りや注意の配分も総じて下手です。そのような口先だけの親子関係からは決して正しいメタ意識の発達を早期から期待することは出来ないことを20年間の小児科外来から訴えなければいけないと強く感じています。
マルコ・イアコボーニが『ミラーニューロンの発見』の中で、ミラーニューロンシステムは乳児期の表情コミュニケーションを通じて次第に発達してくるシステムで、自閉症がミラーニューロンシステムの機能不全であるとの説を提出していることは第44回に述べましたが、私は「メタ意識」こそが重要で、他人の意図や周囲の文脈を認識するトップダウン的メタ意識回路が円滑に機能しないために、情報の整理選別が出来ず、理解不可能な感覚情報が洪水のように意識の領域内に押し寄せてくるのが自閉症の認知回路の本態だと考えています。自閉症については脳神経の伝達システムについての解説の後にもう一度取り上げることにして、今回は「メタ意識を鍛える」をキーワードにした子育ての重要性を今一度考え直す必要があることを強調しておきたいと思います。