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動物介在教育(Animal Assisted Education)の試み (6)

要旨:

筆者の考える犬を用いた『動物介在教育』とは、ウサギやニワトリを校舎の片隅の飼育小屋で飼うという一般的な「学校飼育動物」とは異なる。あえて目的を設定するならば,コミュニケーション能力に長けた介在動物としての犬が、毎日の学校生活の中で子どもたちと心を通い合わせることが目的である。一人でも多くの子どもたちが動物の「ぬくもり」、「いのち」を実感することができる、そういった教育環境の整備が広がることを願ってやまない。

動物の存在を身近に感じるということ

最近の子どもたちの中には死んでしまったペットがしばらくすると生き返る、「いのち」はリセットできると考えている子がいるという報告を聞いたことがある。生活環境の変化や核家族化などといった要因から、動物や植物と身近に接する機会を与えられずにそのまま大人になってしまう子どもが多いこともその要因の一つかもしれない。そういった環境では子どもたちの他者を思いやり、共感する力を育むことが難しいのではないだろうか。

 

動物と付き合うということは、散歩や食事の世話、排泄物の処理など骨の折れることだ。しかし、面倒だから、臭いから、汚いから、危険だからという理由で子どもたちから動物を遠ざけてはいけないと改めて感じている。バディと子犬たちの関わりを通して、動物の世話は大変でも、子どもたちが「いのち」を身近に感じてくれるように願っている。

「うわぁ、汚い!」「くっせー!こいつ」。ある夏の日、清里の牧場で、小学生の男の子の兄弟が牛のおしっこを見て大きな声で叫んでいた。それを聞いた母親は、「汚いから離れなさい」と男の子の手を引っ張り、遠ざけようとしていた。と、そのとき、ちょうど3歳になったばかりのわが家のお転婆娘は「うわあ、牛さんおしっこ上手にできたねぇ。えらいねぇ」と嬉しそうに牛に声をかけていた。その傍で妻は娘に葉っぱをちぎって渡しながら、「牛さんに葉っぱをあげようね~」。

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柵で囲まれた同じ牛たちを見て、これほどまでに違うやりとりがあるのはどういうことなのだろうか...。一言でいえば、「動物のいのちにふれる体験や経験の違い」なのではないだろうか。小さな子どもが「牛さんおしっこ上手にできたねぇ」と言えるのは、自宅のトイレエリアで犬たちが排泄をするたびに「グード!グード!」と言って褒められている様子を毎日見て育ってきたからに他ならない。わが家の娘たちは生まれた時から家の中に大きな犬が何頭もいて、長女は、1歳のときにはバディが産んだ11頭の子犬たちと一緒に暮らしたこともあった。何頭もの犬と同じ部屋で暮らすというのは、乳幼児を育てる環境としては必ずしも衛生的ではなかったかもしれない。

では、家庭で動物を飼えない子どもたちは牛を見て同じように「臭い、汚い」という印象しかもたないのだろうか?子どもたちが動物に対して抱く印象を肯定的なものにするか、否定的なものにするかは、「汚いから離れなさい」なのか「牛さんに葉っぱをあげようね」なのか、という子どもたちのそばにいる大人側の対応の違いで大きく変わるのではないだろうか。私は蛇や爬虫類は苦手で首に巻いて記念撮影をする人の気持ちはまったくわからないのだが、そんな生き物でも娘たちは母親と一緒に喜んで触っている。私にできることは、なるべく嫌悪感を表にあらわさないようにと注意をしながら少し離れてカメラを構えるだけだ。

言い換えれば、動物の「いのち」を大切なものとして感じることができるか否かは家庭や学校で親や教師がどのように子どもや動物と関わるかによって大きな違いが生まれるのではないだろうか。

私の考える犬を用いた『動物介在教育』とは、ウサギやニワトリを校舎の片隅の飼育小屋で飼うという一般的な「学校飼育動物」とは違う。従来の「学校飼育動物」のように一方的に人間側からの世話や飼育体験を通した学びということを目的とはしない。また、観察や実験のための学習教材として動物を用いるものでもない。あえて目的を設定するならばコミュニケーション能力に長けた介在動物としての犬が、毎日の学校生活の中で子どもたちと心を通い合わせること、それが目的であり目標であると考えている。

 

report_02_99_3.jpg 『動物介在教育』の実際の効果とは毎日の生活の中で自然発生的に生まれてくることなので、数値化することは適さないだろう。「犬の訪問」や「レンタルペット」という単発のイベントや、獣医師や研究者が子どもたちに行う犬やネコの生態について教えるような出張授業では、一時の盛り上がりはあるだろうが、子どもたちが本当にじっくりと動物と心を通わせるような体験は与えられないだろう。これからの『動物介在教育』は、研究者や行政の都合で行うのではなく、現場の教師が手間を惜しむことなく、愛されている動物を子どもたちの手の届く身近な場所に継続して置いてやり、子どもたちとふれあわせるということが最も大切で効果的な方法ではないか。子どもたちの心を育もうとするならば、AAE研究のためのAAEであってはならない。

動物介在教育を広げることが目的なのではなく、一人でも多くの子どもたちが動物の「ぬくもり」、「いのち」を実感することができる、そういった教育環境の整備が広がることを願ってやまない。2003年、立教女学院小学校で犬を用いた動物介在教育がはじまり、2010年を迎えた現在もなお、教育効果を上げながら、継続することができているのは、最初の出発点となる始めるための動機が「AAE研究のためのAAE」ではなく、主たる目的を「今ある子どもたち」のためとしたことにあると思う。ともすれば閉塞感に満ちた教育環境にあっても、子どもたちのために必要なことだという信念と、実現するための情熱と意思があれば、少しずつ世界を変えることができるのではないだろうか。賛同する多くの保護者や獣医師やドッグトレーナーといった専門家の協力を得られたことも実現を支えている。また、プログラムの実現において幸運だったことは、小学校の教職員たちが「子どもたちのよりよい成長を願う」という1点で犬好き派も犬嫌い派も含めて一致できたことだった。

今後、「動物介在教育」を導入しようという教育関係者の方々には、様々な困難や不便があるかもしれない。そんなときには、前例がないことで諦めてしまうのではなく、もう一度「今ある子どもたち」にとって何を一番与えたいのか?何が一番大切なのか?を振り返るようにして欲しい。学校に犬を連れていく教育プログラムとしての「動物介在教育」。現在の日本の教育環境においては、一人では決して実現できないことではあるが、きっと子どもたちのよりよい成長や発達を願う仲間は少なくないはずである。


立教女学院小学校での7年間の試みで見えてきたこと

動物介在教育を始めて7年、今では保護者や子どもたちからバディがいるから学校が楽しい、バディを見ていると緊張がほぐれ、リラックスできるといった声もたくさん寄せられている。学校犬バディは直接的な「癒し」として働くわけではなく、その存在自体が多くの子どもたちに「たのしみ」や「よろこび」を与えている。また、犬が大人(教師)と子ども(児童)の仲介者として関わることで、コミュニケーションを円滑にすすめる触媒的な働きをすることもある。学校犬バディの存在は多くの子どもたちの「学校へ行こう」「何かに挑戦しよう」というモチベーションになっている。「おもいやり」や「やさしさ」の通い合う教育を実現するための手助けの一つとして学校犬バディの与えてくれているものはとても大きい。

 

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筆者プロフィール
吉田 太郎 (立教女学院小学校 宗教主任)

1973年京都に生まれる。同志社大学神学部卒業、同大学院歴史神学専攻修士課程修了。神戸国際大学付属高等学校宗教科講師を経て、99年より現在の立教女学院小学校に宗教主任として奉職。2003年よりエアデール・テリアのバディとともに新しい教育プログラム「動物介在教育(Animal Assisted Education)」を実践。
バディの学校生活の様子はブログで紹介
http://blog.livedoor.jp/schooldog/

著書
report_gakkokenbuddy.jpg
子どもたちの仲間 学校犬バディ 動物介在教育の試み






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