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【一人一人の違いに寄り添うために】第1回 「大人の言うことを聞く」ことに、どんなモチベーションがあるのだろう?

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はじめまして! 東京都世田谷区にあるオルタナティブ・スクール「ヒロック初等部」で校長をしているミノテと申します。このたび、連載を書かせていただくことになりました。まず初めに、簡単な自己紹介とともに、学校教育について日々感じていること、特に違和感の部分を述べさせていただこうと思います。

元々私は、東京の公立小学校で14年間、教師をしてきました。初任校の次の異動先が特別支援学校だったことがきっかけで、インクルーシブ教育に関心をもつことになります。学校で担任をしながら、大学に通い、特別支援学校教諭二種免許を取得しました。その後大学院にも通い、人間発達科学プログラムで修士修了。修士論文のテーマは、もちろんインクルーシブ教育です。

特別支援学校での衝撃

特別支援学校で子どもたちを見ていると、本当に多種多様です。学年制なので年齢こそ同じですが、逆に言えば同じなのはそれくらい。それぞれの子どもの発達年齢は、同じクラスでさえ5歳近く違うこともあるし、身体がどの程度動かせるかも、子どもによってそれぞれ異なります。普通学校(あまり好きな言い方じゃないですが...)から来たばかりの私は、当然一斉指示を出すわけですが、全然子どもたちが動いてくれなかったのです。その時初めて、「これまでの普通学校の子どもたちは、こちらの都合に合わせてくれていたんだ」ということに気付いたのでした。

特別支援学校に異動したての4月の入学式、子どもたちの前で挨拶をし、体育館に移動するように一斉指示を出した時のことです。子どもたちは誰も席を立とうとしない。もう一度、ちょっと強めに指示を出すと、一言「行かない」という返事...衝撃でした。「行かない」、という選択肢があるんだと。普通学校では、大抵の教師からの指示は、拒否権がないですよね。子どもたちは、「えー」とか「めんどくさいー」とか言いながらも、形としては従ってくれるわけです。でも、これは考えてみたら、当たり前ですよね。子どもたちにとったら、入学式に出るモチベーションなんてない。そのクラスには、単純に私の音声のみの指示が理解できていなかった子もいれば、見通しがもてずに不安で動けない子、初対面の大人の指示を聞きたくない子、体育館に行くことのメリットを知りたい子など、様々な理由があったのです。

これは何も、特別支援学校に限った話ではないですよね。普通学校にだって、多様な子は在籍していて、音声のみで先生の指示を理解するのが難しい子もいれば、先の見通しがないと不安な子、大人との関係づくりに時間がかかる子、指示されて動くことに抵抗がある子もいるはず。その中で、友達の行動を真似したり、折り合いをつけたり、我慢したりしながら、一斉指示・一斉行動主体の学校システムになんとか合わせられる子が普通学校にいることを許可されていて、そこに合わせ切れない子が特別支援に行くしかなくなる。その両者を分けているのはその点のみかもしれません。

普通学校では...

それなら普通学校では、これからも一斉指示だけでよいかと言ったら、当然そうはならないですよね。インクルーシブ教育を実現するためには、今の学校システムを変える必要があるはずです。ここが無いままに「特別な配慮を要する児童にのみ特別な配慮をする」と考えてしまうところが、今の日本の学校教育であり、最大の課題であると感じています。

たとえば子どもたちを体育館に連れて行きたいのなら、黒板に文字や簡単な図で示しながら全体に話せばよいのです。予定時間と大まかな内容、そこに参加する必要性くらいは語りたいところですよね。丁寧なステップを踏むならば、そこに行くことで子どもたちにはどんなメリットがあるか(例えば、新入生から憧れの目で見てもらえる、保護者や他学年の先生たちに素敵な姿を見てもらえる、戻ってきたらみんなで遊ぼう! など)も伝えたいところです。もちろん、必要ない子も多くいるでしょう。それでも、一人でも必要とする子がいるなら、丁寧に説明をする。その子にだけでなく、全体に説明して実施する。そうすることで、実はぎりぎりのところで、合わせてくれていた子の、隠れたニーズにも応えられることがあるからです。

この考え方ですが、福祉の分野では、「ユニバーサルデザイン」と言われています。ニーズの有無で分けるのではなく、必要とする人に合わせて全体のデザインを設計することで、あらゆる人が使いやすくなる。エレベータのボタンの位置や音声ガイダンスなどが例として挙げられますが、学校で言うとむしろ目に見えないシステムの領域の方が圧倒的に多く必要とされるように感じます。これまでのやり方や「当たり前」とされてきたことを、ユニバーサルデザインの観点からアップデートしなければ、インクルーシブ教育は実現できないと考えています。

普通学校では、「〇年生だから」とか「〇年生なのに」とか、ことさら学年で子どもたちをくくりたがります。これは生活面のみに限らず、学習課程でも同じです。その学年のその月に、この内容を教わって習得できることが当たり前。できないのは落ちこぼれ、「努力不足」、「集中していない」などと言われることさえあります。全員が同じ発達をするはずがないのにもかかわらず、「〇年生」という代名詞でくくられるわけです。百歩譲って、定型発達が大方同じように発達するとしましょう。それでも、同じ学年には4月生まれと3月生まれがいるので、ほぼ1年違うわけです。さらに最近の内閣府の調査では、家庭で日本語を使わない環境にいる子や家に本が1冊もない子が、一定の割合で普通学校にいることが分かりました。こうした特性を無視して、無理やり「〇年生だから」とひとくくりにしてしまってはいないでしょうか。

子どもたちと一緒に考えていきたい

発達というのはスペクトラム、つまり連続性の中にあります。すでにできる子もいれば、まだできない子がいて当然です。それぞれの自然な成長を待たずに、訓練として身に付けさせることは可能なわけですが、それは「教育」と言えるのでしょうか。「しつけ」や「礼儀」などと言われることもありますが、相手の気持ちを慮ることなしに、表面上の形だけできるようになれば、果たしてそれでよいのでしょうか。子どもたちに機械的に従わせることは、思考停止と同じではないでしょうか。「大人のいうことを聞いていればよい」「無駄なことを考えない方が楽」と思わせてしまってはいないでしょうか。最近「小1ギャップ」という言葉が多く聞かれるようになりました。幼稚園でのびのびと育ってきた子どもたちが、小学校に入ってそのギャップの大きさに不適応を起こすという現象です。小1の担任の先生は大変だと言います。きっとそうなのでしょう。しかし、そこで行われている「教育」が、学校システムに無理やりはめ込むための「訓練」になっていないか、子どもたちが学校システムに順応するのと引き換えに緩やかに「思考停止」していってはいないか、学校全体や地域も含めて今一度考えなおしていきたいと感じています。

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HILLOCK初等部に隣接する砧公園にて、遊ぶように学ぶ子どもたち

筆者プロフィール
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蓑手 章吾(みのて・しょうご)

HILLOCK(ヒロック)初等部 校長。元公立小学校教員で、教員歴は14年。教鞭を持つ傍ら大学院にも通い、人間発達プログラムで修士修了。プログラミング教育で全国的に有名な前原小学校では、研究主任やICT主任を歴任。2022年4月、オルタナティブスクール・HILLOCK(ヒロック)初等部を開校。著書に『子どもが自ら学び出す!自由進度学習のはじめかた』『個別最適な学びを実現するICTの使い方』(ともに学陽書房)、共著に『知的障害特別支援学校のICTを活用した授業づくり』(ジアース教育新社)、『before&afterでわかる!研究主任の仕事アップデート』(明治図書出版)などがある。
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