一般市民が貧困問題とかかわり始めた
――いま子ども食堂に手ごたえを感じている理由を、ご自身ではどのように分析されていますか。
湯浅:貧困問題に取り組んで20年以上になりますが、ずっと活動してきて、感じていた壁はふたつあります。ひとつは取り組みがコアとなる少数の人たちの間にしか広がらなかったこと。もうひとつは、原因は同根ですけど、「力を発揮するのは福祉の専門職であって、一般市民の自分にはできることはない」と人々に感じさせてしまったことです。それは私の反省点でありますが、ある意味では時代の必然でもありました。21世紀になっても当初は「貧困問題など日本社会にはない」と言われていましたから、メディアも含めて極端な赤信号家庭にフォーカスしてアピールしていくしかなかった。テレビ番組でも視聴者の共感を呼ぶような深刻な子どもたちを取り上げていった。しかし、そのために貧困問題は一般の人々からは縁遠い問題だと思われてしまったし、黄信号家庭の貧困は見えにくくなってしまったわけです。
それでも徐々に貧困の実態は伝わっていき、政治も子どもの貧困の存在を認めるまでになったのですが、一般的には自分とは無関係だと思っている人たちが多かった。そのような壁をやすやすと乗り越えたのが「子ども食堂」だったのです。
子ども食堂にかかわるのは、主に地域のふつうの人々であって、福祉の専門職ではありません。例えば、子ども食堂で調理ボランティアをやっている80代のおばあちゃんは、自分が貧困問題にかかわろうとしてやっているわけではないのです。それでも、ある日、「コロッケを見たことがない」「家族で鍋をつついたことなどない」というような子どもと出会います。そういう子どもと直接知り合う前なら「貧困家庭のためにやれることはありません」と答えたであろう人が、知り合った後ならば「何かしてあげたい」と躊躇なく行動できるのです。餓死するわけではないし、道端で寝ているわけではないけれど、課題を抱えている子どもたちがいることに気がつくことになる。子ども食堂はそのように専門外の人たちの認識を促し、力を借りるための有効なツールなのだと思います。
私は内閣府参与のときに、貧困家庭の子どもの学習支援の元となるモデル事業を始めました。後に恒久法として制度化された生活困窮者の自立支援事業ですが、いま6割の自治体が実施しています。これはこれで達成した意味はあったのですが、これまでの公的サービスの在り方から言って、対象は生活保護家庭や塾に行けないような子どもに限定され、サービスを受けるためには、貧困家庭であるというラベリングを受け入れなくてはなりません。しかし、そのような課題も、子ども食堂は打開しています。子ども食堂には貧困家庭以外の子どもたちも自由に参加できますので、貧困家庭の子どもであっても引け目を感じることなく、青信号の家庭の子どもたちと一緒にサービスを受けることができるのです。 多くの課題を乗り越えることが可能なためか、旗振り役もいないのに、自然発生的にどんどんその数は増えています。現在、個所数の調査を行っていて、昨年2,286か所までカウントしましたが、今年は3,700か所を超えました。この1年間だけでも1,400か所増えていて、すごい勢いで、すそ野が広がっています。
急激に増加した理由はふたつ
――子ども食堂が急増した背景には何があったのだと思われますか。

湯浅:改めて振り返ると、原因はふたつあると思っています。「リーマンショック」と「東日本大震災」。このふたつが子ども食堂の生みの親だと考えています。リーマンショックを受けて、オバマ大統領が登場したときに、「ハゲタカ資本主義」という言い方で金融市場優先の経済を批判しました。そして、CDS(債務担保証券)のような怪しげな債権を作って、低所得者にどんどんローンを組ませて成長していくような経済モデルは持続可能ではないと主張しました。それがリーマンショックの反省点だったわけです。
その後、多くの人を取りこぼすことのない、よりインクルーシブな成長とは何なのかがG20のテーマになります。その発想の行き着いた先が「SDGs(持続可能な開発目標)」です。これは途上国の問題の解決をめざした「MDGs(ミレニアム開発目標)」から、先進国の問題も視野に入れようとバージョンアップしたものです。そして、誰一人取り残さず、成長が可能になるという発想は、「ひとりも取りこぼさずに、にぎわいをつくりたい」という子ども食堂の願いと方向性が一緒なのです。
もうひとつは東日本大震災。あの震災は不幸な出来事ではあったけれど、一言でいうと、"共にあること"の価値を高めたと思います。ああいうことが起きると、毎日、家族や親しい人たちと食事ができるというのはありがたいことだと思えるようになって、日常を慈しむ気持ちが生じてきます。健康じゃない人が、病気になって初めて健康のありがたさを知るみたいな話で、あの震災は日本人の生活意識の転換点になっていると思います。
高度成長期以来、地域のしがらみは面倒くさいものとして扱われるようになり、人々はなるべく周囲と距離を取って、気楽で便利な生活を求めてきました。いまやネットに接続して、ポチッと押せば、何でも届くようになって、一人暮らしをしていても、何も困らなくなりました。ところが、そうなったらなったで、それがユートピアではないこともわかってしまいました。
いまはどちらかと言えば、ひとりの気楽さよりもひとりの寂しさ、ふたりの面倒くささよりもふたりの喜びや豊かさの方に比重が移っている時代かなと思います。地域交流拠点としての子ども食堂が、都会だけではなく、地方にもワーッと広がっていった背景として、東日本大震災の影響は無視できないと思います。そういう意味では、子ども食堂は時代の流れに棹さすものなので、この勢いはそう簡単には止まらない。むしろ、それを加速させるのが私たちの仕事だろうと思ってやっています。
地域コミュニティはどこでも弱まっている
――湯浅さんは、子ども食堂は、「貧困対策」だけではなく、「地域交流拠点」としての役割も大きいとされています。だとすると、地域の祭りなどが盛んで、人間関係のつながりが強い地方の市町村は、子ども食堂を必要としていないということになりませんか。
湯浅:例えば、自治会役員のつながりが強い地方であっても、子ども会が開けないという話はよく聞きます。田舎の町も地域コミュニティは弱まっていて、程度の違いこそあれ、地縁のつながりが希薄化しているのは全国共通の現象だと思います。
今日、ちょうど長野から来られた方と話していましたけど、松川町という小学校が二つしかない地域で、高校の元教師である方が子ども食堂を始めたそうです。そうしたら地元のコンクリート建材の会社の社長が応援してくれることになったというのです。
その社長の気持ちを推測すると、――うちの地域はどんどん子どもが減っているし、そのうち地域がなくなるかもしれない。そんなところに子ども食堂が誕生し、子育て中の人たちが集まってにぎやかにやっているそうだ。確かにそういうことをしないと地域は続いていかない。よし自分も応援をしよう――。そんなふうに感じているのではないでしょうか。そうやって、地域の未来を心配する人たちが、昔ながらの地域コミュニティの「復旧」ではなく、よりインクルーシブな「復興」を求めて、子ども食堂を応援する。そういう現象が、全国各地で起こっています。
――もともとコミュニティが希薄な都会と、コミュニティが弱まっている地方の町と、どちらにもニーズがあるということですね。
湯浅:そうです。さらに言うと、地方の町の場合、子ども食堂は地縁コミュニティの外からの働きかけによって誕生することが多いのですが、地元の人たちが「これは我々のやるべき仕事だ」と声をかけあって、自治会や寺の檀家、PTAなどが設立に動き始めることもあります。実は、これも子ども食堂が全国に広がった理由のひとつです。弱まっていたはずの地域のつながりが、子ども食堂を介して復活するという現象も見られます。
だから、鳥取県や沖縄県などの古くからの地域共同体が生き残っているところでも、子ども食堂の普及率が高いというようなことが起こってくるわけです。そのような地方にはNPOのような新しい組織は少ないので、こども食堂を支えるのは従来の組織になります。
しかし、そうは言っても、いわゆる中山間地には子ども食堂はあまりありません。例えば、三重県なら、四日市や桑名あたりならたくさんありますけど、賢島や伊勢など県南部の、とくに中山間地にはほとんどありません。奈良県などもそうですね。しかし、そのような充足率が低い地域の人たちが、やる気がなかったり、子ども食堂に関心がないわけではないのです。がんばろうとしている人はいるのですが、形になっていないだけで、そのような地域にテコ入れしていくのは、今後の課題です。
最終的なゴールは「社会的包摂」
――子ども食堂に関しては、主催者側の声はネットなどで読むことができますが、参加している子どもや家族の声は、あまり聞かれません。湯浅さんはどんな意見を耳にしていますか。
湯浅:実は、それが十分出てきていないので、近々新書でルポを書く予定になっています。ただ、子どもの声や家族の声を拾うのはデリケートな問題で、簡単ではないです。課題を抱えている家庭を安易にクローズアップするわけにはいかないし、課題を抱えていない家庭はストーリーになりにくい。
私が個人的に家族から聞いている話から判断すると、子ども食堂は子どもだけではなく、親支援にもなっていると思います。子ども食堂の第1号と言われる東京都大田区の「だんだん」という子ども食堂で母親から聞いた話としては、「ここがあることで、ふだんの夕飯のおかずを一品増やせる」というのがありました。
会場では、他のお母さんが子どもを見てくれたり、ボランティアの大学生が勉強を教えたりしてくれるので、その間母親は少し子育てから解放されます。子ども食堂にきて、やっと自由な時間がもてたと感じる母親もいるようです。こども食堂で食事が終わっても、母親同士で話をしていて、なかなか帰ろうとしないという話も、主催者からよく聞きます。
誰が課題を抱えている人なのかはわからないけれど、地域の人とのつながりによって救われる。地域交流拠点の役割はそういうことだと思うのです。子どもを支えるというのは、家族を支えることでもありますし、子ども食堂の可能性はもっと広がると思います。
――子ども食堂の最終的なゴールを何か想定されているのですか。
湯浅:未来の目標はソーシャル・インクルージョン(社会的包摂)ですね。SDGsとはそういうことですから。その目標は、私の中では10数年間変わっていません。その実現にとってもっとも有効なツールが子ども食堂だと思っています。こういう多世代交流拠点が社会的に有用なのだという理解を広めて、公的なお金が使えるような流れを作り、世の中のインフラとして制度を整えていきたいと思っています。
子ども食堂というネーミングではありますけど、子ども食堂は子どものためだけではなく、子育て中の親、高齢者、引きこもりの若者などにとっても居場所として価値あるものなのであって、地域共生の本丸ではないかと、私は考えています。