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本稿では、前編で取り上げた『大きな森の小さな家』『わたしのなかの子ども』における子ども像が、現代日本児童文学作家、梨木香歩*1の『西の魔女が死んだ』(1994)にも興味深い形で表れていることを見ていきたい。

まいの両親は共働きで、父親は単身赴任中である。現代の子どもにとってはそれが普通なのだろう、両親と過ごす時間があまりないことに、まいが大きな不満を感じている様子はない。しかし、祖母との生活には、まいの日常に決定的に欠けているものがあった。それは豊かな自然環境と、ローラ(『大きな森の小さな家』)や「わたし」(『わたしのなかの子ども』)にとっての身近な大人、「作る人」、「語る人」としての大人の存在である。
手仕事を大事にする祖母を手伝いながら、まいは祖母にさまざまな生活の知恵を教わる。薔薇の間にニンニクを植えると虫除けになること、洗ったシーツをラベンダーの茂みに広げると良い香りが移って安眠できること、猛毒をもつ草の知識など、それらは自然にまつわる語りでもある。
他界したまいの祖父の若い頃の話、結婚して日本に来たばかりの頃の祖母の失敗談、イギリスにいる一族の話、そして、人は死んだらどうなるかについて――祖母の手仕事を手伝いながら語りのことばを聴く日々を通して、まいは少しずつ回復していく。
自然に開かれた環境のもと、仕事をする大人を観察し、彼らの語りを聴く暮らしは、ローラや「わたし」にとっての日常だった。一方、まいは家庭や学校といった自分の日常ではなく、「荒野の中の唯一の避難所」と形容される祖母との暮らしの中で同じような体験をする。まいは、祖母の家での日々が日常からの「エスケープ」であり、「またいつかあの世界に戻っていかなければならない」ことを自覚している。ローラや「わたし」にとっての日常体験が、まいの場合は、日常からの駆け込み寺的な場での体験として描かれていることを、どう考えればよいのだろうか。

『西の魔女が死んだ』や『裏庭』を前編で取り上げた二作品と比較すると、身近な大人や自然から分離された現代の日本の子どもの姿が浮き彫りになる。教育人間学の研究者である高橋勝は、今の日本の子どもが「様々な植物の芽吹きや動物の体温を知らず、道具の操作方法を知らず、乳幼児や高齢者の世界を知らずに大人になる」と述べ、それが「すべてを学校に依存し、学校に丸投げ状態で、子どもの教育を考えてきた結果ではないか」と指摘しているが*2、学校という場に取り込まれすぎている子どもと表裏一体なのが、身近な大人との関係が希薄な子どもだろう。とりわけ、梨木の作品に描かれた、生(なま)のことばが十分に流通していない家族、「自分」を語る余裕のない大人は、現代の「子ども―大人」関係を考える際にも興味深いといえるのではないか*3。
文化社会学者の河原和枝が述べているように、「社会が異なれば、さまざまな子ども観があり、それによって子どもたち自身の経験も異なってくる」*4という意味においては、子ども観は社会や文化の産物であり、流動的である。しかし、『大きな森の小さな家』や『わたしのなかの子ども』で、子ども時代最大の喜びとして回想された「見る子ども」「聴く子ども」像や、日常から離れた避難所的場で、「見る子ども」「聴く子ども」として生きることを通して回復するまいの姿からは、時代や社会の別を問わない、子ども本来のありようが読み取れるのではないだろうか。
従来の子ども観や「子ども―大人」関係が崩壊したといわれる現代、私たちは、国や文化の違いを越えて児童文学作品にあらわれる、本質的な子ども像について改めて考える必要があるだろう。
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使用テキスト
- 梨木香歩 (2001). 『西の魔女が死んだ』, 新潮社.
- 梨木香歩 (2001). 『裏庭』, 新潮社.
注