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見る子ども、聴く子ども-児童文学における本質的子ども像-(後編)

川越 ゆり(東北文教大学短期大学部 准教授)

2012年9月 7日掲載

要旨:

この試論は、時代や国や文化の異なる児童文学作品に描かれた、共通の子ども像を探ることを目的としている。後編では、現代日本児童文学作品である『西の魔女が死んだ』にも、『大きな森の小さな家』『わたしのなかの子ども』と同様、仕事をする大人を観察し、彼らの語りを聴くことを喜びとする子どもの姿が見られること、もっとも、その体験は主人公にとっての日常(学校や家庭)ではなく、そこから離れた避難所的な場で得られることを明らかにしている。



本稿では、前編で取り上げた『大きな森の小さな家』『わたしのなかの子ども』における子ども像が、現代日本児童文学作家、梨木香歩*1の『西の魔女が死んだ』(1994)にも興味深い形で表れていることを見ていきたい。

report_02_152_1.gif作品の主人公、まいは、中学入学早々不登校になる。いじめなどの特段の理由がないにもかかわらず、学校は「苦痛を与える場でしかない」と言うまいに両親は戸惑い、しばらくの間、田舎に一人で暮らすイギリス人の祖母に娘を預けることにする。

まいの両親は共働きで、父親は単身赴任中である。現代の子どもにとってはそれが普通なのだろう、両親と過ごす時間があまりないことに、まいが大きな不満を感じている様子はない。しかし、祖母との生活には、まいの日常に決定的に欠けているものがあった。それは豊かな自然環境と、ローラ(『大きな森の小さな家』)や「わたし」(『わたしのなかの子ども』)にとっての身近な大人、「作る人」、「語る人」としての大人の存在である。

手仕事を大事にする祖母を手伝いながら、まいは祖母にさまざまな生活の知恵を教わる。薔薇の間にニンニクを植えると虫除けになること、洗ったシーツをラベンダーの茂みに広げると良い香りが移って安眠できること、猛毒をもつ草の知識など、それらは自然にまつわる語りでもある。

他界したまいの祖父の若い頃の話、結婚して日本に来たばかりの頃の祖母の失敗談、イギリスにいる一族の話、そして、人は死んだらどうなるかについて――祖母の手仕事を手伝いながら語りのことばを聴く日々を通して、まいは少しずつ回復していく。

自然に開かれた環境のもと、仕事をする大人を観察し、彼らの語りを聴く暮らしは、ローラや「わたし」にとっての日常だった。一方、まいは家庭や学校といった自分の日常ではなく、「荒野の中の唯一の避難所」と形容される祖母との暮らしの中で同じような体験をする。まいは、祖母の家での日々が日常からの「エスケープ」であり、「またいつかあの世界に戻っていかなければならない」ことを自覚している。ローラや「わたし」にとっての日常体験が、まいの場合は、日常からの駆け込み寺的な場での体験として描かれていることを、どう考えればよいのだろうか。

report_02_152_2.gif同じような構図は、『西の魔女が死んだ』に続いて出版された『裏庭』(1996)にも見られる。主人公の少女、照美の家族は、数年前に長男を不慮の事故で失った。家族はふだん通りの日々を送っているが、それぞれに深く傷ついており、誰も長男のことを口にしない。そんな照美にとっての救いは、友人の祖父、丈治である。自分の体験談や昔話などを語ってくれるこの老人に、照美は「照美に向かってきちんと話しかけてくれる大人」という印象を抱く。「語る人」である丈治と照美の関係は、祖母とまいのそれに呼応している。

『西の魔女が死んだ』や『裏庭』を前編で取り上げた二作品と比較すると、身近な大人や自然から分離された現代の日本の子どもの姿が浮き彫りになる。教育人間学の研究者である高橋勝は、今の日本の子どもが「様々な植物の芽吹きや動物の体温を知らず、道具の操作方法を知らず、乳幼児や高齢者の世界を知らずに大人になる」と述べ、それが「すべてを学校に依存し、学校に丸投げ状態で、子どもの教育を考えてきた結果ではないか」と指摘しているが*2、学校という場に取り込まれすぎている子どもと表裏一体なのが、身近な大人との関係が希薄な子どもだろう。とりわけ、梨木の作品に描かれた、生(なま)のことばが十分に流通していない家族、「自分」を語る余裕のない大人は、現代の「子ども―大人」関係を考える際にも興味深いといえるのではないか*3

文化社会学者の河原和枝が述べているように、「社会が異なれば、さまざまな子ども観があり、それによって子どもたち自身の経験も異なってくる」*4という意味においては、子ども観は社会や文化の産物であり、流動的である。しかし、『大きな森の小さな家』や『わたしのなかの子ども』で、子ども時代最大の喜びとして回想された「見る子ども」「聴く子ども」像や、日常から離れた避難所的場で、「見る子ども」「聴く子ども」として生きることを通して回復するまいの姿からは、時代や社会の別を問わない、子ども本来のありようが読み取れるのではないだろうか。

従来の子ども観や「子ども―大人」関係が崩壊したといわれる現代、私たちは、国や文化の違いを越えて児童文学作品にあらわれる、本質的な子ども像について改めて考える必要があるだろう。


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使用テキスト
  • 梨木香歩 (2001). 『西の魔女が死んだ』, 新潮社.
  • 梨木香歩 (2001). 『裏庭』, 新潮社.

  • 1 梨木香歩(なしきかほ)1959年、鹿児島生まれ。イギリスの児童文学者、ベティ・モーガン・ボーエン(Betty Morgan Bowen) に師事。『西の魔女が死んだ』で日本児童文学者協会新人賞受賞。
  • 2 高橋勝(2012). 「子どもが生きられる空間とは何か」『社会教育』5月号791号, 財団法人全日本社会教育連合会, p.18.
  • 3 『西の魔女が死んだ』『裏庭』では、主人公をめぐる一連の出来事を通して、それぞれの家庭に生(なま)の言葉が回復するきざしが見られる。
  • 4 河原和枝(2007). 『子ども観の近代』, 中公新書, p.5.
筆者プロフィール
report_kawagoe_yuri.jpg川越 ゆり(東北文教大学短期大学部 准教授)

山形県生まれ。獨協大学大学院、白百合女子大学大学院修了。博士(文学)。専門は英米圏と日本の児童文学、子ども文化。著書に『エリナー・ファージョン―ファンタジー世界を読み解く―』(ラボ教育センター)、翻訳に『5人の語り手による北欧の昔話』(古今社)など。子ども、物語、ファンタジーのつながりや、ファンタジーに描かれた非日常世界の特性、秘密基地やジンクスなどの子ども間で伝承される文化に関心がある。
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