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児童文学からみる現代日本の子ども観

要旨:

本稿では、宮部みゆきの長編ファンタジー、『ブレイブ・ストーリー』(2003)を中心に、現代日本児童文学における子ども像や子ども観について考察している。現実の複雑さと対峙し、内面の闇を受容することで、現実を生き抜く内的拠点を得る子ども、社会的役割を全うすることを必ずしも優先しない大人の生き方を受け入れる子どもの主人公に、現在、構築されつつある子ども観や、子どもと大人との関係の一端が表れていることを論じた。
子どもを取り巻く環境が大きく変化している現代、児童文学作品にもその影響がさまざまな形で表れている。子どもの現実がダイレクトに影響するリアリズムのみならず、必ずしも現実を舞台としないファンタジー作品にも、離婚や虐待、ADHDなどの問題が反映されている。では、1990年代以降の現代日本児童文学にはどのような子どもが描かれ、そこからどのような子ども観が引き出せるだろうか。バチェルダー賞*1を受賞し、国際的な評価を得た宮部みゆきの長編ファンタジー『ブレイブ・ストーリー』(2003)を中心に論じることで、この問題を考察する一助としたい。

『ブレイブ・ストーリー』は、ファンタジーの王道ともいうべき「行きて帰りし型*2」の物語である。小学5年生の三谷亘が自らの運命を変えるべく「幻界(ヴィジョン)」という異界に赴き、さまざまな冒険を経て、「運命の塔」に辿り着くまでがストーリーの中心になっている。

亘が幻界(ヴィジョン)に行く動機には、家庭の不和が大きく関わっている。亘が現実から幻界(ヴィジョン)に移るまでにかなりのページが割かれているが、そこに描かれるのは、大人の事情に翻弄される子どもである。寡黙だが頼りになる父親と明るくにぎやかな母親との幸せな三人家族の生活が、父親がかつての恋人と再会し、家を出たことで大きく崩れていく。そして母親の自殺未遂をきっかけに、亘は自分の運命を変えるべく幻界(ヴィジョン)に旅立つ。

度々指摘されるように、「頼れる確かな大人の不在」は、90年代以降の日本児童文学に見られる傾向のひとつである*3。亘もまた、自分を守ってくれる大人がいない中で、家族の崩壊という問題に向き合わねばならない。

もっとも、物語は、非力な子どもの主人公が大人の都合に翻弄され、周囲に不信感を募らせたまま終わってはいない。幻界(ヴィジョン)での旅路の果てに、亘は、自分の運命を狂わせた父親に対する―つまりは人生の不条理に対する―憎しみの化身である分身と対峙し、自分の一部として受容することで、つらい現実に向き合う強さを獲得する。そして結局、自分の運命を変えてもらうという選択を捨てて現実に帰還し、父親の新たな人生を受け入れる。

冒険ファンタジーの形式で内的な闇の受容を語るのは、ル・グウィンの『影との戦い』(1968)以降すでになじみ深いテーマだが、小学生の少年がそれを引き受けているところに重みを感じずにはいられない。同じような重みは、梨木香歩の『裏庭』(1996)にもある*4。やはり行きて帰りし型のこのファンタジーでは、13歳の少女、照美が家族の問題から生じた心の闇を葛藤の末に受容し、自身の内面に生きる上での拠点的な場を得る。この作品が「児童文学ファンタジー大賞」を受賞した際、梨木は「人工甘味料で味付けされた(大人の考えた)お子様用作品なんて、このとんでもない現代社会に生きねばならない子どもたちの興味をひくわけがない」と述べ、新しい児童文化に必要なのは「本物の詩であり、宝石であり、苦悩だ。それは、大人だから子どもだからという次元を遥かに越えている」という言葉を寄せている*5

1994年に出版された森絵都のリアリズム作品、『宇宙のみなしご』も、現代日本児童文学における子どもを考える際に興味深い*6。この作品には、直接登場こそしないが、主人公の女子中学生、陽子に影響をあたえるキーパーソンとして「すみれちゃん」という教師が登場する。

学年の途中で学校をやめ、インドに行くことを選んだ「すみれちゃん」は、従来の理想的な教師像、大人像に程遠い。しかし、彼女の残した「大人も子供もだれだって、一番しんどいときには、ひとりできりぬけるしかない」「ひとりでやってかなきゃならないからこそ、ときどき手をつなぎあえる友達を見つけなさい」という言葉は、陽子の14年間の人生での切実な実感でもある。それはまた、作家自身の子ども読者へのメッセージでもあるだろう。

「頭と体の使いかた次第で、この世界はどんなに明るいものにもさみしいものにもなるのだ」と思う陽子も、すべては自分次第という結論に行き着く亘も、複雑な現実を生き抜くための拠点を内面に獲得している。亘の父や「すみれちゃん」のように、社会的役割を全うすることよりも人生の軌道修正を優先する大人の生き方も、彼らはひとつの生き方として受容する。そこには、大人に手厚く保護され、進むべき方向に教え導かれる側にある者としての子ども観は読みとれない。むしろそこに感じられるのは、複雑な現実と対峙し、自分なりの方法を模索しながら生き抜かねばならないのは子どもも大人も同じ、というスタンスである。

児童学研究者の本田和子は、現代の子どもを論じた著書の中で、従来の子ども観や家族観が破綻をきたしている現代、新たな子ども観や「子ども―大人」関係が求められていると述べている*7。宮部は1960年、森は1968年、梨木は1959年生まれで、ほぼ同じ年齢層にいる。子どもをめぐる既成概念がもはや通用しない社会にある現代の児童文学から、明確な子ども観を引き出すのは難しい。しかし、彼女達の作品には、構築されつつある、現代の大人から見た新たな子ども観や、「子ども―大人」関係の一端が表れているように思われる。

その一方で、亘や照美や陽子達は、私達大人に課題を提示している。現代社会の中で、子どもが彼らなりの方法で内的拠点を得、多様な現実を生き抜くというときに、どのような後押しが必要とされるのだろうか。彼らにとって、生きる励みとなる大人像とは何なのか。新しい子ども観の確立と切り離せない問いだろう。


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参考文献

宮部みゆき(2003)『ブレイブ・ストーリー 上』『ブレイブ・ストーリー 下』角川書店.
(最新版は、2009年に角川書店の「角川つばさ文庫」として全4巻で出版されている)



*1 The Batchelder Award. アメリカ図書館協会より、その年の優れた海外翻訳児童文に贈られる賞。『ブレイブ・ストーリー』は、2008年にこの賞を受賞している。
*2 主人公が日常から非日常世界に行き、何らかの非日常体験を経て再び日常に戻る構造のこと。「行きて帰りし」という言葉は、瀬田貞二が『幼い子の文学』(中公新書)の中で論じて以来、定着した。
*3 藤本英二(2009)『児童文学の境界へ 梨木香歩の世界』久山社,p.20.
*4 梨木香歩(2001)『裏庭』理論社.
*5 特定非営利活動法人 絵本・児童文学研究センター 「ドーンDAWN」3号. http://www.ehon-ej.com/info/?c=19&s=6495 (2012年3月26日閲覧)
*6 森絵都(2006)『宇宙のみなしご』フォア文庫.
*7 本田和子(1999)『変貌する子ども世界 子どもパワーの光と闇』中公新書.
筆者プロフィール
report_kawagoe_yuri.jpg川越 ゆり(東北文教大学短期大学部 准教授)

山形県生まれ。獨協大学大学院、白百合女子大学大学院修了。博士(文学)。専門は英米圏と日本の児童文学、子ども文化。著書に『エリナー・ファージョン―ファンタジー世界を読み解く―』(ラボ教育センター)、翻訳に『5人の語り手による北欧の昔話』(古今社)など。子ども、物語、ファンタジーのつながりや、ファンタジーに描かれた非日常世界の特性、秘密基地やジンクスなどの子ども間で伝承される文化に関心がある。
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