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【2月】子どもの好奇心は教育を超える

葉山の見晴らしのいい丘の上に、総合研究大学院大学という大学がある。日本全国にある国立研究所の研究を統括する役も果たす組織であるという。そこに付設する葉山高等研究センターの人間生命科学研究プロジェクト「ヒトの個体発生の特異性に関する総合的研究」のプロジェクトチームと日本子ども学会の共催で、「子どもの好奇心は教育を超える」という興味深いタイトルの公開講演会が1月24日、国際文化会館岩崎小彌太記念ホールで開かれた。葉山高等研究センターの上級研究員、尾本惠市先生(東京大学名誉教授、人類学)のイニシアティブによるものである。300人程の参加者を前に、以下のテーマのもと、三つの講演と二つの特別報告、そして総合討論が行われた。

 

『ヒトという生き物が他の動物と大きく異なるのは、その旺盛な好奇心にあります。とくに身の回りのものと遊び戯れ、その楽しさを仲間と共有しようとする子どもの姿はヒト独特のものといえます。今回の公開講演会では、ヒトの子どもの特異性、とくに"好奇心"と"創造力"に光を当ててみたいと考えています。
公開講演会案内より)』

 

講演はまず尾本先生から始まった。ヒトは身体的なネオテニー(幼形成熟)ばかりでなく精神心理的なネオテニーも示し、結果的に大人になっても子どもの様に好奇心が衰えないという特徴があることについて述べられ、博物学者と生物画家として幕末から明治にかけて活躍した武士、松森胤保について紹介された。

続いて神経内科医の岩田誠先生(東京女子医科大学名誉教授)が、地球上に存在した生物のうち自然環境下で自発的に絵を描くことを始めたのは、われわれの祖先である洞窟絵画を残した新人(クロマニョン人)だけであると述べられた。旧人(ネアンデルタール人)は、人をかたどった小さな像を残すなど造形能力はあったと考えられるが、描画は残していないのである。

新人の描画は3万年前から始まり、約2万年以上の長きにわたって多くの洞窟絵画をヨーロッパに描き残している。その殆どは動物の絵で、狩猟技術がその頃大幅に進歩したためと考えられる。仲間とチームを組み、棒などの道具を使って大型動物の狩りを行う、というような技術の向上によって、生活情報が大幅に増加したからではないかと個人的には考えている。

また、岩田先生はお孫さんの描画の発達過程をみて、3歳頃になって円形に閉じた線を描くという行動をとることに気づかれた。閉じた図形というのは画面全体の中で描かれたものが区別されていることを示すもので、それを描くところから描画能力が急速に進歩すると述べられた。

更に、染色体異常のWilliams症候群をモデルにして、描画と遺伝子の関係についても述べられた。Williams症候群は、大動脈壁、靭帯などの弾性線維に含まれるたんぱく質「エラスチン」に関係する遺伝子とそれに隣接する遺伝子の欠失による症候群で、成長障害、精神発達障害、大動脈弁上狭窄、妖精様顔貌(厚い口唇の突出、上眼瞼の腫脹、上向きの小さい鼻)、多弁で人懐っこい性格などで特徴づけられる疾患である。このWilliams症候群では、図形の模写能力において特異的な障害もみられる。したがって、本症の第7染色体長腕の部分(7q11.23)の欠失した数10個の遺伝子のいずれかが描画能力に関係するのではないか、とも述べられた。「図形をまねる」部分については遺伝子レベルで考えることが出来るが、「絵を描く」となると脳全体が関係していると考えるべきではないかと、お話を聞きながら考えた。

第三番目の講演は、認知科学者の佐伯胖先生(東京大学名誉教授、青山学院大学教授)による「模倣から教育を再考する」というテーマの講演で、大変内容の濃いものであった。子どもの教育の原点に「遊び」があり「模倣」があることは、誰も否定しないであろう。また、模倣が生得的なプログラムによる行動であることは、今や子ども学研究では常識になっている。新生児に舌を出して見せると同じように新生児も舌を出すことから始まって、乳幼児同士が遊んでいる時などに同じ動作をする共振現象といったことも、よく知られた事実である。

重要なことは、幼児は共振動作から相互に模倣を交換することによって、その背後にある「模倣行為をしている主体」としての「自己」と観察される模倣の背後にある「他者」を知るということであり、大人や先生が「よく見ていてね」、「ほらね」、「じゃ、やってごらん」と三語で行為を示してただ真似をさせるような教育は問題である、と佐伯先生は言うのである。「意味とか意図を考える」ことをしないで、無反省的な模倣を教育の場に持ち込んでいる現実は注意すべきであるとしている。

続いて特別報告として、ヒューマンルネッサンス研究所の中間真一さんが、「てら子屋」という小中学生を対象とした野性・知性・感性を育む教育活動を紹介された。また、日本子ども学会事務局長の木下真さんが、ヘレン・ケラーは手のひらの触覚で健康な人以上に色々なことを理解していた、という感銘深いお話をされた。最後に、チャイルド・ラボ所長の沢井佳子さんの司会で、質疑応答を含め総合討論が行われた。

それぞれの発表から色々と学ぶことは大きかったが、「子どもの好奇心はなぜ教育を超えるのか」が論じられなかったのは残念であった。好奇心とは、新しい情報を求める心のプログラムとも言えよう。それは生得的なものであって、産声がおさまった時に新生児が示す、周囲を見回す行動からもその存在がわかる。広くとれば教育とは、育児・保育・学校教育などの家庭技術・社会技術によって、子どもの生得的な心のプログラムを働かせながら組み合わせ、知性を含め心を育てることと言える。生得的な好奇心なしに教育は成り立たないことだけは確かであろう。

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