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シンガポールにおける中国系青少年のアイデンティティと国家政策

要旨:

中国系民族が74%を占めるシンガポールでは、過去には民族色を強調しない国家アイデンティティの創造に力が入れられ、英語教育や工業化が推進されてきたが、現在は英語教育のみならず、民族の言語および民族文化を重視する政策が実施されている。それによって、中国系の青少年の民族アイデンティティにも変容が見られる。
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シンガポールは主に中国系、マレー系、インド系の多民族によって構成される国家であり、中でも中国系は74%を占めている。シンガポールでは、1965年の独立以降、「多民族によって構成されている国家において、国民の中に国家アイデンティティを確立させ、また、多民族による融和社会を作りあげる」ということが、国家形成の大きな課題となっていた。独立当時のシンガポールは、民族、言語、宗教、習俗、文化によって、各民族を凝集させることができる共通点は何一つ存在しないという状況の中で、国家アイデンティティを創造しながら、多民族および多文化が共生をするという建国路線を採用しなければならなかった。

人民行動党による国家アイデンティティに関する政策は、決して一貫したものであるとはいえなかった。大きくは、1960年代~70年代の民族色を強調しない政策から、90年代以降の民族アイデンティティを積極的に涵養する政策への転換が上げられる。

1960年代および1970年代の政府のスローガンの1つに、「シンガポールは新国家であり、国民は国家に対して帰属意識をもち、国家の生存と発展のために一丸となって努力をしよう」というものがあった。独立初期のシンガポールでは、反共政策をとるマレーシアおよびインドネシアとの関係を重視していたこと、そして、中国系の中にも中国語教育系と英語教育系という2種類のアイデンティティが存在していたために、両者の結合が困難であった。それにより、中国系をマジョリティとする民族国家の建国路線を採用することができなかった。その中で、民族色(特に中国系)を強調しない国家アイデンティティの創造に力が入れられた。そのようにして、英語教育や工業化を積極的に推進し、アジアの中では経済的に最も発展した国家に成長したのである。

しかしながら、英語教育の成功や経済的な繁栄の陰で失ったものは大きかった。シンガポールの中国系の若者は、物心が付き始めた頃から、政府の英語重視の教育政策によって、自己を中国系というよりも「シンガポール人」として位置付けるようになり、一昔前の世代と異なり、自己の文化的ルーツを辿ることもなくなっていった。マレー系の人たちには、イスラム教という信仰があるために、イスラム教を通して自らの民族アイデンティティを保つことができていた。一方、多くの中国系の若者は、自分の文化やルーツについて関心がもてなかったり、アイデンティティの問題で苦悩したりするようになった。当時、中国系歌手のディック・リーが、民族アイデンティについて苦悩する自らの心境を歌にし、多くの中国系の若者の共感を呼んだ。

民族アイデンティティの喪失という問題に対して、危機感を感じた政府は、1980年代以降、「国家アイデンティティの創造」一辺倒の方針から変換をみせ、各民族がそれぞれのルーツを知り、民族としての価値観を継承することを積極的に推進するようになった。具体的な政策として、初等および中等教育において、英語とともに民族の言語を必修科目とする2言語政策を徹底させた*1。また、毎年10月を「スピーク・マンダリン・キャンペーン」月間として、学校や公的機関などで、できるだけ中国語を使用することを奨励し、その活動は小中学校でも学校活動の中にも取り入れられた。同時に、政府は、主要民族の言語や伝統文化は残す価値があるものだということも強調するようになった。

1990年代末になると、2言語政策に加えて、教育部は「教育計画大綱」を宣布し、2000年を最終目標として、全国の各レベルの学校で、全面的な国民教育を推進していくことを決定した。そこではシンガポールの歴史に対する認識を深め、子どもたちが自らのルーツを知る必要性が強調されていた。そして、多くの活動が、政府主体になって実施されるようになった。例えば、毎年7月21日が「種族融和日」として設定され、全国の初等および中等教育段階では、この日に各民族に関する教育活動が展開され、活動を通して子どもたちが各民族文化を理解して融和することの意義を学ぶようになった。

その他にも、政府は、中国系の地縁血縁組織をまとめる宗郷会館聯合総会*2と共催する形で、中国系の伝統礼俗行事に関する活動を毎年実施している。その中の1つである「リバー・ホンパオ」は、旧正月の時期になるとシンガポール川沿いに会場を設け、旧正月に関する華やかなパフォーマンスや展示を実施している。また、宗郷会館聯合総会および南洋理工大学主催で実施されている「華族文化研修キャンプ」では、毎年、3泊4日のキャンプに、100名あまりの中高生を参加させ、地方戯曲、書画篆刻、囲碁や中国茶道等といった中国文化を鑑賞、学習させている。また、政府のコミュニティ・センターが、宗郷会館聯合総会などの組織と共催して実施している「華族文化節」*3では、「華族文化研修キャンプ」と同様に、学生のみならず、一般市民にも中国文化に触れる機会を提供している。

このように、1990年代以降、シンガポールでは中国系の民族アイデンティティを涵養する活動が積極的に実施されるようになった。それにより、中国系の若者たちは、民族伝統文化に触れる機会が増加し、民族アイデンティティが養われるようになっていった。なお、現在、シンガポール国民が所持する身分証明書には、民族名が明記されている。入学や就職時の願書や履歴書等にも民族名を記入する欄があるように、シンガポール国民であれば、たとえそれが形式上のものであっても、全ての者が自らの民族を認識しているという前提もある。

筆者が近年、シンガポールの中国系の中高生および大学生・大学院生265名を対象に実施した調査によると、「中国系であることを認識している」という青少年は、全体の6割以上(165人、62.3%)におよんでいる。特に「中国系であることに誇りを持っている」という青少年は全体の2割近く(50人、18.9%)であった。また、中国語および中国伝統文化に対して、全体の8割以上(224人、84.5%)が「興味がある」と答えており、全体の3割以上(92人、34.7%)が「非常に興味がある」と答えている。この数字からも、これらの政策は一定の効果を挙げているといえるだろう。

現在、シンガポールにおける英語教育は、更に発展を続けており、対内的には国民統合を促進する役割として、対外的には国際都市シンガポールを世界にアピールするためのグローバルな言語として効力を発揮している。一方、民族の言語および民族文化を重視する政策は、中国系の伝統文化や価値観の継承、中国系の民族アイデンティティの確立といった目標を実現させている。中国語や中国伝統文化の理解は、近年の中国の経済的な発展にともなって、中国語は対中貿易の促進、世界的な広がりを見せている中国系ビジネス・ネットワークへの参入にも貢献することとなり、国際都市シンガポールの競争力を更に強化する結果につながっている。民族の言語および民族文化を重視する政策は、国民の中に民族アイデンティティを涵養するということを可能にしているだけではなく、シンガポールのグローバル化を前進させているともいえる。シンガポールの青少年はそのような役割を任っているといえるのである。


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*1 なお、シンガポールの学校には、民族ごとに学校があるわけではなく、基本的には様々な民族の生徒が一緒に通っている。

*2 シンガポールには、中国系の移民およびその子孫によって設立された地縁血縁組織が200前後存在していた。民族の伝統文化の重要性が政府によって提唱されるようになると、中国伝統文化事業を推進し中国の優良な伝統を発揚することを目的として、横のつながりが薄かった各組織を取りまとめる役割を担う機関である宗郷会館聨合総会が1986年に成立した。

*3 1980年代になって、2年に1度開催されている華族文化節では、約1ヶ月の間に、中国伝統文化に関する行事が、国内各地のコミュニティ・センター、学校、劇場などにおいて開催されている。その内容は毎年異なるが、近年では、中国伝統武術や獅子舞のパフォーマンス、中国伝統的グルメ・フェスティバル、中国伝統衣装のファッション・ショー、中国廟めぐりなどが人気が高い。
筆者プロフィール
合田 美穂(香港中文大学助理教授、静岡産業大学非常勤講師)

現職:香港中文大学歴史学科・日本研究学科 兼任助理教授(2001年~現在)、静岡産業大学 非常勤講師(2010年~現在)
研究領域:歴史社会学、東南アジアおよび香港社会の研究、民族アイデンティティ研究、民族支援および特別支援教育の比較の研究。
研究歴および職歴:旧文部省アジア諸国等派遣留学生派遣制度にてシンガポール国立大学大学院社会学研究科に留学(1996年~1998年)、甲南女子大学、園田学園女子大学、シンガポール国立大学にて非常勤講師(1995年~2000年)。文学博士(社会学)学位取得(1999年、甲南女子大学)。
所属学会:日本華僑華人学会、日中社会学会
最近の出版:『日本人と中国人が共に使える発達障害ガイドブック  発達障害について知りたい!』(日中二ヶ国語併記。中国語タイトルは『日本人與中國人共用的發展障礙手冊 了解發展障礙多一些』)、向日葵出版社、香港、(2011年) 等。
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