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発達障害のある子と家族の幸せのゆくえ(後編)

3 療育の現場から ~日本の療育の現状~

アメリカなどでは週2~3回程度の専門家による臨床が通常である。
しかし、日本では発達障害のある子と親が通所する医療機関はどこもいっぱいで、初診は6か月待ち、作業療法士、臨床心理士、言語聴覚士などによる「療育」は2週間から2か月に1回のところが多い。
その頻度でできる支援は相当限られてくると私には思えてならない。
私が担当する市町の「ことばの相談」には医療機関に通院している子どももやってくる。その保護者に話を聞くと、時々、医療機関の臨床では、臨床時間以外(例えば家庭、保育園、外出先など)の子どもの行動の理解と解釈、そして「どうしたらいいのか」という基本的行動指針が伝えられていないことがあるという。
また、現在の子どもの発達状況、臨床における目標、当日おこなったプログラムの意義と結果が保護者にフィードバックされていないことも多いという。そして、それらについて親が聞きたいことがあっても、なかなか聞けないことも多いようである。「聞きづらい」「気が引けてしまう」というのである。
さらに小学校入学、中学校入学など節目のタイミングで、医療機関の方針で受診が終了になることも多い。
節目にあって親は「これからどうしたらいいのか」と悩む時期なのに、今後子どもの何が課題になるのか?親として何をしていったらいいか?が伝えられないままに、受診が終了することもある。保護者から「医療機関への通院が終わってしまってどうしていいかわからない。」という問い合わせを受けることも多い。
平成24年の児童福祉法改正によって児童発達支援事業所の制度が始まり、医療機関における療育以外に発達障害のある子の療育の場が生まれた。行政の認定(医師の診断を要しない)を経て受給者証を取得することで、より高頻度で療育を受けることができる(参考までにざっくりと当法人が運営する児童発達支援事業所WAKUWAKUすたじおの例で言うと、多くの子どもが週2回程度の頻度で療育を受けており、行政の補助があるため家庭の負担額は多くのケースで月4,600円程度である)。
当制度は、臨床回数の確保及び身近な臨床の場の確保、診断名がつくつかないにかかわらず臨床を受けられることから、いわゆる、専門家の支援が有効と考えられるが特定の診断名に該当するかどうかが明確ではない場合や、保護者に医療機関での療育への抵抗がある場合の受け皿、という意味で有意義である。
しかし実際のところ、この制度も特に地方においてはまだまだ認知されていない。
改めて言うまでもないが、子どもは、どんどん大きくなり、そして、ずっと生きていく。進学した、卒業したからといって支援が不要になるわけではない。その子が一人の人としてその子らしく生きていけるまで、乳幼児期、学齢期、青年期と連続した支援が必要だ。
しかし、現在の日本の療育のシステムには、そのような観点が欠けているように思う。
もうひとつ感じるのは「家族」の支援という視点の必要性である。乳幼児期から青年期までの連続した支援が必要だと書いたが、確実に連続的に子どもを支援するのは家族である。
連続的支援を考える時、家族の果たす役割は大きい。
発達障害のある子どもを育てていくのは実際さまざまな苦労がある。将来への不安もある。
だからこそ、苦労や不安を抱える家族を支援することが、連続的に子どもを支援するためには欠かせないと考える。

4 課題と私たちがめざすこと

以上、私が現場で日々感じていることを書いてきた。
課題を大きくまとめると、

  1. 保護者や支援者の中で発達障害があるかどうかに意識が集中し、大人が喜びをもって子どもを育てるという一番大事な視点が失われがちであること
  2. その子の願いを探り、その子らしい育ちを保障するという観点から、発達障害のある子どもと家族を支えるための、乳幼児期から青年期までの連続的な支援が行われていないこと

の2点が挙げられると思う。

これらの課題に向き合う際、次のような視点が必要になると私は考える。療育にかかる制度を構築するにあたってもこれらの視点が考慮されることを望むものである。

  1. 子どもと親の「願い」から出発する
    発達障害のある子への関わりや支援は、社会で生きていくのに必要なこと、役に立つことができるように訓練しようという観点ではなく、子どもの「願い」から出発することが大事だと私は考える。
    「何をしたいのだろう」「どうしてほしいのだろう」と子どもの「願い」を想像し、子どもがその「願い」を叶えることを応援したい。
    子どもの願いを叶えようとする家族を応援したい。
    願いの実現を応援する中で子どもと親、子どもと親と私たちとの関係性が作られる。
    そしてそういう関係性の中でこそ子どもは学ぶ意欲をもち、その意欲に支えられて実際に多くを学ぶ。そして成長する。
    「一緒に願いを叶えようとしてくれる人」が子どもには必要である。
  2. 「違い」を尊いものとし、同じ「仲間」として共に生きる
    発達障害のある子と私たちは異なる部分がある。そして「違い」は、時に緊張関係を生む。なぜなら、相手のことが全然「わからない」からである。
    「わかる」ためには「違い」をよく知ることが必要だ。
    「違い」に出会ったとき、「違うから別々に行きましょう。」となるのではなく、「なぜ違うの?」「違いの本質は何?」ということを「知ろうとする」ことが大事だ。
    近年の研究で発達障害についての知見が蓄積され、彼らの私たちとは異なるものの見え方、感じ方が知られるようになったことで発達障害のある子との「違い」の詳細がわかってきた。近年、国内外で行われている自閉スペクトラム症に特徴的な知覚疑似体験などは、彼らと私たちの感覚的な「違い」を体感できるものである。
    このような発達障害についての知見を探し、本を読み、情報を得て、「違い」を知ろうとすることは、子どもに近づこうとすることである。そのような行動は、子どもとの距離を縮め、子どもとの良好な関係を築くことにつながる。
    知識を得て「違い」を知ることで子どもの気持ちに近づくだけでなく、「子どもの気持ち」を「ああかな?こうかな?」と想像することも大事だ。
    不思議なことに、自分とは「違う」子どもの気持ちを想像することを続けていると、そこに自分との共通項が見えてくる。
    得意や苦手がある、誰もがそれぞれの価値観をもっている、そして人としての共通の願いをもっている。
    まるっきり同じ人はおらず、誰でも多様性の一つの形である、という点も「共通」である。
    「違い」がありつつ、しかし根っこのところで「共通」している私たち。
    そう感じられた時、「違い」は「緊張」ではなく「喜び」をもたらす。
    自分とは異なるものと出会うことに喜び、驚き、「違い」のある者同士の関係を楽しむことができるようになる。子ども、保護者、関係者の間に豊かな人間関係が作られる。
    「違い」を拒否するのではなく、「違い」を知ろうとし「違う」相手の気持ちを想像することで、そのような関わりが可能なのだ、と伝えたい。
    例えば発達障害のある子を「違うから別だね。」といって排除するのではなく、「違うけれど同じだね。」と仲間として尊重し合い、助け合える人間関係を築きたいのである。
    誰も排除されない、「違う」けれど「同じ」仲間として尊重し合い、助け合える社会は、誰もが自分らしくのびのび生きられる社会ではないか。
    幼稚園・保育園や学校はその第一歩の場である。
    そこで発達障害のある子と「違うけれど同じだね。」という関わりを経験することは、そのような社会を築く基礎になるのではないだろうか。
  3. 子どもと親の生き方を、自分や自分の家族のことのように考え、そして応援し続ける
    私は発達障害のある子と家族に関わるとき、彼らの気持ちや状況を自分や自分の家族のことと同じように受け止めたいと思っている。
    「もしわが子が有意味語を話さなかったら、どう心配するか?」「子どもを突然、医療機関に連れて行けって言われたら、親としてどんな気持ちか?」「せっかく医療機関に来たのに、何をしているかわからなかったらどういう気持ちになるか?」
    子どもや親の気持ちを想像し、困っているなら一緒に困ろう。
    そして、彼らの中に「嬉しい」「助かった」という気持ちが沸いてくるような対応をしたい。そういう気持ちで言葉をかけ、支援を考えることを忘れないようにしたい。
    仕事として関わる私たちにとっては、その時間が終われば、彼らの抱える問題も目の前から消える。だが、彼らは相談や臨床が終わっても問題と共に在り、困り続ける。
    子どもと家族の気持ちになって考えるならば、自分との今の関わりだけでなく、自分との関わりをその子が「卒業」した後も、その子の先まで見据えた支援を考えねばならないと思う。
  4. 幸せをめざす
    発達障害のある子と家族に関する支援課題は、関係性、価値観、学校システム、文化、地域社会に及ぶ幅広いものである。そして、支援をする関係者も多い。支援によって「何をめざすか」その方向性は一致していない。そもそも関係者が、自分が関わる「今」の課題にのみフォーカスしており、最終的に何をめざすかを意識していないのではないかと感じることもある。
    私は支援によってめざすものをしっかり見すえていたい。
    それは、「幸せになること」である。
    生涯にわたり幸せを育てながら暮らすことができるようになること、それが目的地である。
    とはいっても私たちが彼らを幸せにするわけではない。
    幸せを育てるのは子どもと家族自身である。
    だから、子どもと家族が自分たちで幸せを育てられるようにサポートしたい。
    どうやって?
    子どもと家族と社会を構成する人たちの人間関係の中に、幸せはある。
    認めてほしい、できることがあると実感したい、自分らしくありたい、楽しみたい、安心したい、信頼できる人と出会いたい、人とつながりを感じたい、という子どもや家族の願いを叶える人間関係を育てていけるようにすることが、幸せにつながる。
    そのような人間関係の構築を応援したい。
    願いを叶えるというところから出発し、子どもが願いを実現するために生活障害や関係障害を軽減し、家族や周囲との豊かな関係を築けるようにサポートすることがその手段である。
    当法人はこのような思いで「発達障害のある子と家族を幸せにする」事業をこれからもおこなっていきたい。

筆者プロフィール
Tetsuya_Hara.jpg 原 哲也 TETSUYA HARA

言語聴覚士・社会福祉士 / 一般社団法人WAKUWAKU PROJECT JAPAN代表理事 
1966年生。明治学院大学卒業後、カナダで障害者グループホームに勤務。帰国後、29歳で信濃医療福祉センター・リハビリテーション部に勤務。2005年に退職後も委嘱を受けて市町で発達相談および保育園、学校への巡回相談業務に携わる。2015年10月一般社団法人WAKUWAKU PROJECT JAPANを長野県諏訪市に創設。児童発達支援事業所『WAKUWAKUすたじお』、障害のある方の青年期までのプライベートレッスンや親子のワークショップ、教育、福祉機関へのコンサルテーションなどを行っている。著書『発達障害のある子と家族が幸せになる方法~コミュニケーションが変わると子どもが育つ』(学苑社 2018.9)お問い合わせ mail: info@waku-project.com
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