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論文・レポート

発達障害のある子と家族の幸せのゆくえ(前編)

原 哲也(言語聴覚士・社会福祉士/一般社団法人WAKUWAKU PROJECT JAPAN代表理事)

2018年11月 2日掲載
自己紹介

私は長年、言語聴覚士として、発達障害のある子と家族の支援に関わってきた。現在は市町の委託を受けて発達相談や巡回相談をしながら、『一般社団法人WAKUWAKU PROJECT JAPAN』の代表として、児童発達支援事業所『WAKUWAKUすたじお』の運営及びプライベートレッスンなどの法人事業を行っている。
『WAKUWAKU PROJECT JAPAN』の活動拠点は日本のちょうど真ん中のあたり。人口5万足らずの長野県諏訪市を含む近隣6市町である。私たちはそこで「発達障害がある子とその家族を幸せにする」を志として事業を展開している。
本稿では、私が、相談や臨床、そして保育園・幼稚園・学校の巡回の現場で見てきた発達障害のある子、家族、そして発達障害のある子に関わる関係者の姿とそこで感じたことについて書いてみたい。

1 発達相談の現場から ~保護者の思い、子どもの願い~

地域保健センターなどが実施する「ことばの相談」はいつも予約でいっぱいだ。
そこに来る保護者の中には、乳幼児健診などで保健師に「相談に乗ってもらえるから行ってみませんか?」とうながされて、しぶしぶ子どもを連れてくる母親や父親も多い。相談したいから来ているはずなのだが「何か心配なことや聞きたいことはないですか?」と聞いても「特にありません。」と返ってくることもある。
しかし最初はこんな風でもじっくり聞いていくうちに、少しずつ子育ての中の困惑を話してくれるようになる。「先生、聞きたいのですが・・・」と質問が止まらなくなったりもする。
保護者は最初、私の様子をうかがっているのだ。「自分の子育てを批判されないか」「我が子の何かを指摘するのか、しないのか」。そこに保護者の不安を感じる。
「この先生は大丈夫だ」「この先生は私を責めない」と思ってもらえた時、少しずつ、親の本当の気持ちを伝えてくれるようになる気がする。

言語聴覚士の役割は、①言語を中心として子どもの発達状況を把握し、それを前提に ②家族や関係者に、周囲の大人が子どもの行動をどう理解し、どう対応していったらいいか、子どもとどう向き合っていったらいいか、を整理して伝えることである。
そのために保健センターの乳幼児健診のデータ、保護者や同席の在籍保育園等の担当者からの聴き取り結果、当日の子どもの状態や子どもと保護者とのやり取りの観察、私と子どものやり取りなどから、生育歴、運動や言葉の発達状況、生活リズム、感覚過敏の有無、そして言語理解やコミュニケーション状況などの情報を得て、子どもの発達状況を把握する。そしてその上で、その子の行動をどう理解し、どう対応するか、を保護者に伝える。
できるだけわかりやすい言葉で、大事なことは繰り返し伝える。
その際、診断名(自閉スペクトラム症、ADHD等)は言わない。診断名は医師がつけるもので、私はたとえ可能性であっても言う立場にはないし、子どもの発達状況や行動の理解と対応を説明する時に診断名は特に必要ではない。

最後に「何かわかりにくかったこと、疑問に思ったこと、知りたいこと、気になることがあれば、遠慮なく言ってください。」と必ず聞く。
大抵は、「どういうことで言葉が出ないかわかったし、どうすればいいのかわかったので、まずはやってみます。」「私のせいだと思っていたけど、お話をうかがって少し安心しました。」等の言葉が返ってくる。
ところが「それでは」と相談を終えようとすると、かなりの高率で保護者の方は尋ねるのである。
「この子、発達障害なのでしょうか?」と。
「子どもの発達はわかった。」「子どもの行動の理解とその対応もわかった。」
それでも「発達障害があるかどうか?」を知りたいのである。
私はその保護者の方の「ここに来るまで」を想像する。
ネット検索で発達障害、自閉症、ADHD、学習障害などの言葉に行き着く。全部わが子のことのようにも思えるし、どれも違う気もする。孫を思う祖父母は「大丈夫か?」と聞いてくる。ママ友は「うちの子も同じよ。」と軽く言う。夫は「俺の小さい時も同じだったさ。」とまともにとりあってくれない。どう考えていいかわからない。
自分の子どもは「障害児」なのだろうか。
「なぜそんなことをするんだ?!」理解できない子どもの行動に困り果てながら、親は自分の子どもは「発達障害」ではないかと「恐れて」いる。だから最後の最後の「ギリギリ」のタイミングで問うのである。
もし発達障害ならどうなる?子どもと家族の暮らしから幸せが永遠に失われてしまうような感覚を、「発達障害のある子」という言葉に感じてしまうのかもしれない。

保護者の方は「発達障害かどうか」と問うが、そもそも「発達障害のある子」という特別な子ども、定型発達の子どもと本質的に異なる子どもがいるわけではない。発達障害のある子と定型発達の子どもは連続している。
発達障害のある子は定型的な発達とは異なる特徴的な発達を示すが、「発達障害である」とされるのは、特徴的な発達によって生活障害や関係障害が生じている場合である。
例えば、手先の不器用さという特徴的な発達のために日常的な動作が習得できず生活に支障がある(生活障害)、人との関係を嫌がるという特徴的な発達のために人と関わりあうことができず(関係障害)、その結果、様々なことが学べないなどである。
子どもと家族の生活全般に現在から将来にわたってさまざまに形を変えながらも生活障害と関係障害が起きてくることが予想され、それらの障害をできるだけ少なくしていくために周囲の統一的な理解と対応が必要であるとき、「発達障害のある子」と考える。
そして、それに応じた対応をするのである。
「発達障害がある」ということはそういう意味である。

ところで、そもそも、何のために発達障害のある子の生活障害や関係障害を軽減する必要があるのか。
周囲が困るからか?そうではなかろう。
その子が社会で生きていくのに困るからか?そういう面はあろう。
だが生活障害や関係障害を軽減する最大の意味は、その子がその子らしく生きていけるようにすることだと私は考えている。
人は誰しも自分らしく生きたいと願う。そのために自分のこうしたい、こうありたいを実現していこうとする。
発達障害のある子も同じである。
発達相談に行くといろいろな子に出会う。
物凄い勢いで室内を走る子、視線が合うと「ぎゃー」と泣いて母親に必死で抱き着く子、おもちゃを投げる子、寝たふりをする子などなど。
でも、どこで出会うどんな子でも、子どもの願いは共通である。
認めてほしい、できることがあると実感したい、自分らしくありたい、楽しみたい、安心したい、信頼できる人と出会いたい、人とつながりを感じたい。私たちと同じである。
同じであるが、願いの具体的な形は一人ひとり異なる。
走り回りたい、砂山を作りたい、
大きな紙に大きな絵を茶色一色で描きたい。
それぞれに異なる願い、それが「その子らしさ」だ。
自分で砂山を作り、「お母さん、大きな紙ちょうだい」と言って紙をもらい、そこに大好きな茶色のクレヨンで絵を描くことで自分の願いを実現できる子どももいる。
だが発達障害のある子は、特徴的な発達ゆえに不器用だったりするので、自分でそれを叶えられない。また彼らの願いはわかりにくく、そしてコミュニケーションが苦手だから人に助けてもらって願いを叶えることもできない。大きな紙をちょうだいと伝えられないから床にクレヨンで絵を描いてしまう。茶色一色で描きたいと言えないから、親が差し出す赤いクレヨンを「ポキッ」と折ってしまう。
彼らが「人としての願いを叶えてその子らしく生きていく」ことができるようにするには、彼らに関わる大人が、彼らを適切に理解して、わかりにくい彼らの願いを探り、それが実現するように助けていくことが必要だ。
不器用さを軽減する方法を試し、人との関係の取り方を学びやすいアプローチを検討して「彼らが願いを実現できるように」生活障害や関係障害を最小限にとどめていく。
それが療育(医療や治療+教育)の使命だと私は考えている。

大事なのは発達障害かどうかを確定することではないのである。
発達障害の状況を適切に理解し対応して、彼らの願いが実現するように助けることこそが大事なことだ。
そうして関わっていくうちに、子どもと周囲の人たちは豊かな関係と経験を積めるようになっていく。その過程で生活障害や関係障害は軽減し、特徴的な発達が発達「障害」である状況は変わってくる。
保護者との関係も変わってくる。豊かな関係が構築され、互いに楽しいな、嬉しいな、と思う時間が増えてくる。
「発達障害」という言葉を聞いたとき、もう得られないと思った「子どもとの豊かな時間、楽しい幸せな時間」を創ることは十分に可能なのである。
発達障害のある子に関わる大人が、その子が発達障害かどうかという点にのみフォーカスするのではなくて、むしろ子どもと豊かな時間を過ごしながら子どもの成長を喜び、ともに生きていくという、一番ベーシックな命題を達成することにこそ意識を向け、集中することが大事なのではないかと私は考えている。

2 保育園・幼稚園・学校巡回で ~子どもをどう「理解する」か~

行政の求めで保育園・幼稚園・小学校の巡回相談に行くことがある。
「集団行動が苦手、日常生活動作が身につかない、離席や暴力などの困った行動をする子どもがいて、どう対応したらいいか」を聞かれることが多い。
子どもの状態を記したシートを読みながら、子どもが所属するクラスの様子を見る。依頼を受けた子どもの様子、先生の出している課題、環境設定、言葉がけ、支援の仕方、他児との関わり、そして、加配保育士の子どもとの関わり方や支援の方法などを見た後、個別に子どもと対面する形で言語及びコミュニケーションを中心に発達状況を見る。その後、親と担任保育士や学校教諭等から子どもの情報を集める。
そして個別の発達相談と同じく、「子どもの発達状況を把握し、子どもの行動をどう理解し、どう対応したらいいか」を伝える。
例えば「絵本の読み聞かせの時に離席したり、隣の子どもにちょっかいを出す。」という子どもの相談を受けたとしよう。
読み聞かせの現場を見ると、読み聞かせの時間が長すぎる、絵本の内容が難しくて子どもの興味にあっていなくて子どもにとってつまらない、という状況が見てとれる。
読み聞かせが長いしつまらないから「離席」したり「ちょっかいを出す」のであり、子ども側としては「離席」や「ちょっかい」は、読み聞かせが長くてつまらないことの当然の結果としての行動なのである。
離席やちょっかいの理由がわかれば、対応できる。時間を短くする、その子の興味に合わせるなどしてみる。それによって状況が変わることが多い。
集団での読み聞かせにおいて、内容をその子にのみ合わせることができないのであれば、本を運ぶ係やページをめくる役目をやってもらってもよいだろう。
いずれにしても読み聞かせがその子にとって長くてつまらないことが離席やちょっかいの理由ならば、そこへの対応をしないままにその子に大人が望む行動を求めても無理である。
だから、最初に問うべきは「なぜ離席するか、ちょっかいを出すか」という子どもの気持ちであり、「どうしたら離席しないかちょっかいをださないか」はその「次」の問題なのだ。
先生方とやりとりをしていると、先生方はどちらかというと、子どもの行動を「どう理解するか」より「どうしたらいいか」の方を熱心に知りたがる傾向があるように感じることがある。
確かにその子以外の20人、30人の子どもを見ながら、例えば離席、暴力といった子どもの行動に対応しなくてはならない先生方は大変だと思う。
離席する子を追いかけて行って連れ戻す、といった子どもの行動への対応で精いっぱいで、子どもをどう理解したらいいか、から始める気持ちにはなれないのかもしれない。

子どもの「理解」に関してこんな経験をした。
ある町の勉強会で保育園園長、主任、加配保育士を対象とし、発達障害のある子が何を感じているのかを言葉にしてもらうワークを行ったことがある。
例えば、ある子が友だちがブロックで作ったロボットを壊してしまったという状況において、この子が感じていることを想像して言葉にしてみるのである。例えば「僕、友だちのロボットを壊しちゃったんだよ。だって、●●●だからだよ。」という形で表現してもらうのだ。
この「僕、●●●だからだよ。」のワークは、意外に不評だった。
先生方は「私たちは子どもの気持ちがわかっている。どうしたらいいかを教えてほしい。」と言うのである。
この先生方の言葉に私はひっかかるものがあった。
子どもが感じていることは、どういう環境や生活の中でどのように遇され、どんな言葉をかけられて生きてきたか、それをどう心に刻んできたのかという子どもの「歴史」の結果である。
成育歴を知って子どもの気持ちをある程度想像することはできるけれど、その子の歴史の全てを知ることはできない。そして、その子、そのものになりきることもできない以上、その子の気持ちそのままを理解することは不可能なはずである。
厳しい言葉になるが、「子どもの気持ちがわかっている」と言えてしまうということは、子どもの気持ちは先生方が想像したとおりだと決めつけているということなんじゃないか、と私には思えるのだ。
多くの子どもと多くの時間を過ごし、専門的な勉強を重ねるうち、私が「今、この子、こう思っているんじゃないかな~?」と思ったことが「そのとおり!」という確率は上がってきた。だが、あれ違ったよということだってある。それは当たり前である。
でも、最初、子どもの気持ちを読み間違ってしまっても、そうやって「理解したいよ」という気持ちで子どもに向かうと、子どもは自分の気持ちを何かの形で教えてくれる。
「理解したい」というこちらの動きに反応して、子どもが自分の気持ちを伝えるようになる、というのが、私が経験から実感しているところである。
先生方には、「キミは今どんな気持ちなの?想像してみたけど合ってるかな?」「キミを理解したいんだよ。教えてくれないか。」という思いで子どもの気持ちを推測してみることから始めてほしい。
先生方はよく「私たちは専門家ではないのでよくわからない。」と言うが、専門的な知識や経験だけでその子を理解することができるわけではない。子どもを日々よく観察することで、その子が誰のどういう行動に対してどう反応するのか、どういう時にどういう表情をみせるのか、子どもがどういう思いでいるのか、を理解「しようとしてほしい」と思う。
子どもへの困った行動への「対応」は「理解」の結果である。「理解」がなければ「対応」は常に的を外すし、的を外され続けていると子どもは「的をあててもらえる=理解して対応してもらえる」ことをあきらめてしまう。自分の気持ちをもっともっと表さなくなる。そういう子どもをたくさん見てきた。
日々を共に過ごす先生方には、ぜひその子を「理解」しようとしてほしい。そうして子どもが自分の気持ちを教えてくれるようになれば、それが子どもの行動の変化にもつながっていくだろう。

筆者プロフィール

Tetsuya_Hara.jpg 原 哲也 TETSUYA HARA

言語聴覚士・社会福祉士 / 一般社団法人WAKUWAKU PROJECT JAPAN代表理事 
1966年生。明治学院大学卒業後、カナダで障害者グループホームに勤務。帰国後、29歳で信濃医療福祉センター・リハビリテーション部に勤務。2005年に退職後も委嘱を受けて市町で発達相談および保育園、学校への巡回相談業務に携わる。2016年10月一般社団法人WAKUWAKU PROJECT JAPANを長野県諏訪市に創設。児童発達支援事業所『WAKUWAKUすたじお』、障害のある方の青年期までのプライベートレッスンや親子のワークショップ、教育、福祉機関へのコンサルテーションなどを行っている。著書『発達障害のある子と家族が幸せになる方法~コミュニケーションが変わると子どもが育つ』(学苑社 2018.9)お問い合わせ mail: info@waku-project.com
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