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論文・レポート

Essay・Report

遊び(game)と遊ぶ(play)

石幡 愛 (東京大学大学院教育学研究科博士課程在籍)

2012年2月24日掲載

要旨:

筆者は「遊び(game)」と「遊ぶ(play)」を概念的に区別し、「遊ぶ」という行為は、「遊び」のヴァリエーションを作り、その構造に「ずれ」を持ち込むことであると考えている。ここでは、小学生の木工作の観察記録をもとに、両者の違いを説明し、「遊ぶ」という行為が「遊び」の構造を更新していくプロセスを分析する。また、このような遊戯論と伝統的な遊戯論の根底にある人間像の違いについて考察する。
小学校の図工室。真ん中のテーブルの上は、丸太の木屑でいっぱいだった。ヒロト、コウタ、マサキ、タクマが、丸太を切って丸い板を量産していたのだ。彼らは、その板を使って思い思いのものを作りはじめた。彼らは、それぞれ手を動かしながら、誰に向けるでもない言葉を、ぽつぽつとつぶやいている。コウタは「クリボー作るんだ」と言って、板を積み重ねていく。ヒロトも同じように立体を作っているが、彼は途中でいびつな板を重ねて「怪獣」の腕を作ったようだった。マサキは、丸い板と枝で車輪のような「かざるやつ」を作っている。タクマは、板の上に枝を寝かせて貼り、ドングリを2つのせて、しっぽと首が長い「ドングリ恐竜」を作っていた。
突然、コウタが木屑をひとつかみつかんで、クリボーの上にドサッとかけた。マサキとタクマも木屑をいじりはじめる。しばらくすると、マサキは怪獣の表面にボンドを塗って、木屑をくっつけはじめた。そして、表面をなでながら「けむくじゃら」と言った。タクマは、ドングリ恐竜の表面にボンドをたっぷり絞り出して、指先でパラパラと木屑をまぶしていく。そして、ボンドと木屑で盛り上がったところを指先で押しながら「きなこもち恐竜」と言った。

これは小学校の課外活動で行われた木工作教室の一場面である。「木工作をしている」と言ってしまえばそれまでだが、その様子をよく観察し、彼らの言葉に耳を傾けてみると、彼らの思考の多様性や、他者から影響を受けて物の見立てや使用法をずらしていく過程を見て取ることができる。

筆者は、このような「遊ぶ(play)」という行為を、「遊び(game)」とは区別すべきだと考えている。「遊び」とは、けん玉、しりとり、ままごと、工作などのように、その様々なやり方を抽象して、共通の構造のみを表した概念である。対して、「遊ぶ」ことは、その「遊び」にどう関わるかという「遊び」の構造の「使用法」を意味する*1。あるいは、このようにも言えるだろう。「遊ぶ」という行為は、「遊び」のヴァリエーションを作り、その構造に「ずれ」を持ち込むことである*2、と。

上述の「遊び」の構造という言葉は、エンゲストローム(1987)の用語を借りれば、「遊び」の活動システムと言い換えることができる。エンゲストロームは、人間の活動を統合的に説明する最小単位として、活動システムというモデルを提案している(図1)。このモデルによれば、主体は道具を用いて対象に働きかけ、規則に従って共同体における社会的生活を営み、共同体は分業して対象に働きかけることで集団的活動を達成する*3。そして、あらゆる人間の活動は、個人の独立した活動であると同時に、全体の活動の中の特殊な一例でもあるため、モデルの各頂点において、個人の行為と全体の間に矛盾が生じると述べている。

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図1 エンゲストローム(1987)の活動システム

例えば、冒頭の事例では、子どもたちが、一般的に「ゴミ」として扱われる丸太の木屑を、「材料」として扱う場面や、一般的に「接着できる」という性質を利用するボンドを、「もち」のような質感に着目して用いる場面が見られた。つまり、彼らは木工作という「遊び」の活動システムを使用すること=「遊ぶ」ことによって、そのシステムに特殊な一例=「遊び」のヴァリエーションを持ち込んでいるのである。

エンゲストロームは、システム全体と個の間の矛盾が当該システムを更新する契機になるとしている。木工作の事例において、個人によって持ち込まれた「ずれ」が集団的に共有されたことも、システムの更新の一例と捉えることができるだろう。この事例では、誰かのアイデアを別の誰かがさらに「ずらし」ながら模倣することによって、そのアイデアが集団的に共有されるという状況が生まれていた。同じテーブルで作業するという空間配置や、思考を外化するような独語的発話など、個人の行為や思考に他者がアクセスできる環境*4や、自分の都合に合わせて他者のやり方に従ったり従わなかったりすることができる関係性*5が、このような状況を可能にしたのではないかと、筆者は考えている。

伝統的な遊戯論は、遊びに対して、環境に適応するために必要な能力や技能の鍛錬としての機能や、既成の価値観や作法を内面化させる(社会化させる)機能を見い出してきた。そこからは既成の環境に対して従順な人間像が見て取れる。それに対して、「遊び(game)」と「遊ぶ(play)」を区別する遊戯論は、自らを取り巻く環境を作り替えていく存在として人間を捉えるものだといえるだろう。


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*1 アンリオは、「遊びは何よりもまず、遊び手とその遊びとのあいだに存在する遊びによって存在する」と述べている。筆者の考える「遊び(game)」とはアンリオの「その遊び」であり、「遊ぶ(play)」とは「あいだに存在する遊び」である。参考:ジャック・アンリオ. 『遊び―遊ぶ主体の現象学へ』 (白水社. 2000.)
*2 したがって、言葉で記述しようとすることは、微細なヴァリエーションを含む行為を、ひとつの単語に回収することであるから、本質的には、遊ぶ(play)の遊び(game)化を免れない。
*3 参考:ユーリア・エンゲストローム. 『拡張による学習―活動理論からのアプローチ』 (新曜社. 1999.)
*4 エンゲストロームの図式で言うと、これは生産された道具の分配に関することである。
*5 同様に、これはコミュニケーション(交換)に関することである。
筆者プロフィール
report_ishihata_ai.jpg 石幡 愛 (東京大学大学院教育学研究科博士課程在籍)

1984年福島県福島市生まれ。東京大学大学院教育学研究科博士課程在籍。「遊ぶ」という行為が、いかにして社会の構造の中に余白を見いだし、その構造を更新するのかに関心があり、主に創作ワークショップを対象としたフィールドワーク研究を行っている。2008年より、大学周辺のまちで遊ぶプロジェクトを開始。2010年より、NPO法人コドモ・ワカモノまちing非常勤スタッフ。2011年、東京都・東京文化発信プロジェクト・一般社団法人PLAYWORKS主催「東京の条件」にて、江戸川橋の商店街の子どもの居場所作りに参加。また、様々なアートプロジェクトや地域教育プロジェクトに関わり、心理学の調査法を活かしたプロジェクト評価の方法を探っている。
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