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子ども研究、なぜ必要なのか。

要旨:

大人中心の世界で、子どもは未熟で、大人に付属し、保護されるべき存在である。時代と共に子どもに対する考えがいろいろと変わってきたが、近年においても子どもそのものよりも、主に発達論に焦点を当てたものであった。子どもを理解するのに役立つが、子どもを低いレベルの存在とするという問題点があり、子どもは矯正され、修正され、また教育を受けなければならない存在にすぎないとみることで、子どもの世界は必要のない世界にすぎないかのように考えさせてきた。子どもは教育の対象であるが、それ自体が研究対象にはなっていなかったのである。子どもを正しく教育するだけでなく、彼らを正しく理解するためには子どもに対する客観的な研究が必要であり、それがまた人間理解の観点を広げるものである。
1.発想の転換

『コペルニクス(Copernicus)的転回』という言葉がある。コペルニクスは16世紀ポーランドの天文学者で初めて地動説を主張した人である。天動説が一般的であった当時に、逆に地動説を主張したコペルニクスの考えは既存の観念を覆す思考の革命であり、このような認識の転換を『コペルニクス(Copernicus)的転回』と称する。

人類の歴史の中にはこのような思考の革命があり、その思考の革命は人類の文明史を変えるきっかけになったこともあった。人間の平等に対する思想もそうだが、男女差別から男女平等に考えが変わったのもコペルニクス的転換の一つと言える。このような思考の結果、女性学という学問的な発展まで展開されている。女性学を通じて男性を中心に理解されてきた世界が男性と女性の二つの軸で動いていく世界として理解されつつある。

しかし、このような世界はいまだに大人中心である。その観点からみると、子どもはまだ世界を理解する軸として認められていない。それは、子どもはいまだに大人の付属的な存在で、保護されるべき未熟な存在として理解されているからである。1989年、国連総会で「子ども権利条約」が定められたが、いまだに全世界の大人から脅かされており、子どもが保護されるべき存在であることを強調している状況であるが、女性とは違って子ども自らが主体化することは難しく集団化する力も持っていない。子ども中心のコペルニクス的転回の思考は難しいが、子どもを教育する立場で子どもに焦点を当てることは必要である。

子どもに焦点を当て始めたのは西洋で近代に入ってからである。西洋の中世時代までも、7歳以降の子どもは大人と一緒に働く労働者であった。子どもへの関心の始まりは14世紀からである。それが18世紀に入ってからロマンチシズム時代に女性と子どもの感性的側面が注目されることになった。

今日子どもへの観点が多く変わり、特に、労働者ではなく保護されるべき存在として認識されているということは、子どもに関する考えが変わったとも言える。だが、まだ未熟で大人の付属物として見る観点は変わっていない。ここで問題なのは子どもに対する根本的な観察や研究が組織的になされておらず、独立的とも言えないという点である。


2.子ども研究の必要性

子どもに対する研究は人間を根本的に理解するための一つの戦略として価値がある。一般的に人間に対する問いは存在への問いのポイントとみなされる。また、それは哲学的な問いである。人間に対する問いが哲学的だというと、人間を抽象的に扱うことと理解されやすいが、人間に対する哲学的接近は人間に対する総体的な接近とみなすべきである。つまり、人間に関する様々な研究の結果から総合的に理解することを意味する。

今日人間に対する研究は、それぞれ学問的に接近することが可能であり、例えば自然科学的に、医学的に、社会学的に、また心理学的に接近することが出来る。最近は認知科学的に接近されており、特に精神と肉体に関する研究はそれぞれの分野の科学の成果に依存している。

他に人間に対する独特な接近方法というと、性的に、あるいは年齢的に接近することも一つの方法である。例えば、人間を女性の観点から接近して研究し、それが一つの独立した学問分野になることで、今までの男性中心の理解より、人間に対して総体的な理解が出来るようになったと思われる。また、道徳性に関しても正義(justice)が中心だったのが、女性的観点からみると配慮(care)が中心になることでより関係性的な人生になった。確かに、そのような努力によって道徳への理解を広げたと言えるだろう。

年齢的接近も一つの例であり、近年、高齢化社会になるにつれ老人への研究が盛んである。老人の観点からみた世界はそれほど闘争的ではなく競争的でもない。人間を闘争的・競争的で利己主義(egoism)的存在として見るのはある世代や特定の人物による観点であると批判することができる。そう考えると子どもに対する理解を通じて人間存在への総体的な理解がより広くなっていくと言えることがより意味を持つようになる。

今まで大人、特に男性中心の観点からみた世界といっても様々であり、我々は異なる観点から人間を見て理解する。子どもという存在に対する洞察は人間を総体的に理解する新しい観点を提示し、人間理解の観点を広げるきっかけになると思われる。それ以外にも子ども研究が必要な理由はあり、それは子ども自体が独立的に探究する価値がある存在であることで、現在子どもの存在を重視していることでもある。特に、心理学者であるフロイト(G.Freud)は、幼児を始めとする幼い時期が人間の心理的な面が形成される重要な時期であることを指摘した。人間の心理的な面を理解するためには彼らが幼児期にどのようなエゴとスーパーエゴを形成してきたかを理解することが重要になる。

子どもに関する研究の必要性は何より子どもの成長に関連づけられている。幼児期から成人になるまでの成長と発達はとても急激で画期的である。その時期には精神と肉体のバランスが悪く、行動はコントロールし難しい。子どもの正しい成長は社会の構成員になって社会を維持するためにも重要であり、教育は子どもの正しい成長のために最も重要な手段である。教育を通じて、既存の社会の理念やルール等を伝えられるし、新たな時代に合う想像力やビジョンを持つ人材を育つることもできる。

このような目的のためにも子どもに関する研究は必要である。初等教育*1は子どもを対象にするため、より重要である。子どもに関する基本的な理解とともに、全体的な理解が前提とされないと初等教育はうまくいかないだろう。実際、初等教育において子どもの認知発達、行動発達に関する理論は重要な位置を占めている。子どもの知的発達研究は教育の方法を決定するにおいて重要な役割をしており、また行動発達理論は子どもの行動を矯正、修正し指導するために重要である。

今までも子どもに関する研究がなかったということはない。しかし、今までの研究は発達論に焦点を当ててきた。発達論を中心に子どもを理解しようとしたのは、子どもが大人に成長していく段階にあることから簡単に選ぶことができる戦略であった。そのため、既存の子ども研究はほとんど治療、成熟、発達、教育の焦点を当てて発展してきたと見ても過言ではない。このような発達論的観点は子どもを理解するに役に立ったが、一方、子どもに対する一方的な観点を残した。大人の観点からは未熟で未発達、また付属的な存在である子どもは矯正され、修正され、また教育を受けなければならない存在にすぎないとみることで、子どもの世界は必要のない世界にすぎないように考えさせてきた。

発達的観点からみた心理学者の子ども観をよく見ると以下のような評価が明らかになる。

まず、ピアジェ(J.Piajet)は子ども研究を本格的に試みた人で、20世紀に入ってから人間の知識がどのように構成されるかを子どもから大人に至るまで追跡し、子どもと大人の知識構成や道徳性構成のやり方が異なることを明らかにした。だが、ピアジェが見ても子どもは未熟で、不完全な段階の存在であった。特に人格において子どもは、他律的で利己主義であり質より量を問い詰める人間で、11歳が過ぎてからようやく大人の可能性を見せる未熟児である。そのように考えると、子どもの時代は早く克服し乗り越えなければならない時期にすぎない。つまり、ピアジェにとって発達というのは子どもの時期から脱け出ることである。

ピアジェの理論をより精巧化したコールバーグ(L.Kohlberg)も同じである。道徳性発達に焦点を当てたコールバーグ理論をみると、人間の道徳性発達は6段階の過程を経るが子どもの時期は早熟な子どもの場合でも3段階にとどまる。1,2,3段階は自己中心的、あるいは小集団主義にとどまっている段階であり、習慣的で感情的である。発達的観点から克服すべき時期とみなすのはピアジェと同じである。

子どもに関する研究を主導した発達論が以上のようであり、子どもを低いレベルの存在として規定した結果は、逆に子ども研究の障害物となる。なぜならば、子どもの時期は結局捨てる時期、無意味な時期とみなすことで、そこに意味を置くことが無意味になるからである。ただ、いかにして子どもの時期から脱け出るかという方法論にのみ注目するようになる。ピアジェに反する心理学者であるヴィゴツキー(L.Vygotsky)においても子どもは大人により指導され、導かれる対象である。高等精神を持つためには指導者としての大人が必要な未熟な存在が子どもである。

ピアジェの発達論はその後、多くの教育理論家に影響を与え彼の理論を基にした教育方法が提案されることで子ども教育を体系化するように進んだが、それにもかかわらず本格的な子ども研究は具体的に進められていない。子どもは教育の対象であるが、それ自体が研究対象にはなっていない。子どもを正しく教育するだけでなく、彼らを正しく理解するためには子どもに対する客観的な研究が必要である。

最近、子どもの発達論的な観点のみの視角には問題があるという指摘があった。子どもの哲学的思考の可能性を提示したリップマン(M.Lippman)やマッチュス(G.Matthews)のような哲学者によると、子どもはレベルが低いが大人がする思考の基本的な形態を持っている。彼らの研究は既存の発達論者とは違って子どもの知的能力や情緒的能力について肯定的な評価をしている。また、子どもから大人になる過程がすべて成長や発達ではなく部分的には退化、及び退歩のプロセスもあるということを指摘している。例えば、芸術的関心や才能はほとんどの場合、大人に成長する過程で退化してしまうことが多く、また子どもの哲学的テーマへの関心も成長過程の中で大人により無視されることが多くある。そのような主張からみると今までの子どもに関する観点は、ただ成人の目線から子どもを未熟児としてみただけであるだろう。


*1 小学校教育

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2010年5月27日、晋州教育大学で行われた「子ども研究財団・子ども研究所 創立準備シンポジウム」での講演録を掲載しました。
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