価値観を反映する小学校国語教科書
小学校の教科書は、子どもたちを教育する重要な道具の一つとして、それぞれの国や地域でその時代の大人の手により、時には莫大な国家予算を伴い作成される。国や地域によって教科書の採択・使用方法は異なるが、作成にあたり何らかのガイドラインが設けられていることが多い。例えば日本では民間会社で教科書は作成されるが、教科書検定が存在する。イギリスやドイツではナショナルカリキュラムや教科書作成ガイドラインがある。
本稿では、葛藤解決方略に焦点をあてて、小学校国語教科書に反映された価値観の国際比較を紹介しよう。どの時代においても世界のあらゆるところで戦争や紛争、国家間のいざこざが起こっている。日本をめぐる東アジア諸国においても、国家間で解決しなければならない問題が数多くある。その際に重要なのは解決の仕方であり、国家・地域間によって異なる解決方略が、解決を長引かせたり次の葛藤の引き金になったりする。そして葛藤解決方略は、それぞれの国や地域の人々がそれまで歴史の中で積み上げてきた価値観に左右されることが多い。教科書には前述したように国家による関与が見られるだけではなく、それぞれの国や地域の大人が次世代に伝えたいと思う価値観が反映されている。したがって、教科書の内容分析をすることで、それぞれの国や地域の人々がもっている葛藤解決方略の特徴を比較することができるだろう。
対象となった国・地域と分析方法
分析対象となったのは、東アジア4ヶ国・地域(日本、中国、韓国、台湾)と、欧州3ヶ国(ドイツ、フランス、イギリス)である。いずれも2000年に出版された小学校1~3年生(6~9歳児)用の各国語を母語とする子どもたちのために作られた国語の教科書に掲載されている作品を対象とした。日本・韓国・台湾の教科書に関しては、2000年に発行されたすべての出版社のものが対象となっている。中国については最も多く採択されている人民教育出版社のみを対象とした。欧州の教科書については自由発行制であるため、一定の基準を設けて、その基準内にある教科書すべてを分析対象とした。分析対象となった作品と内容については、起承転結のある作品を取り上げた。そして特に主人公の要求や行動を阻害する状況や他者の行動に対して、主人公がどのように対処するかを分析した。詳細については塘(2008)を参考にしてほしい。
葛藤解決方略を分析するには、社会科や道徳の教科書の方が望ましいと考えられるかもしれない。しかしこれらの教科書とは異なり、国語の教科書の第一目的は読み書きを教えることであり、価値観や理想像を教えることは二次的なものとなる。したがって国語の教科書の内容に投影されている葛藤解決方略は、その社会や時代の大人にとって比較的自然であり、少なくとも大きな違和感を抱かせる内容ではないだろう。さらに、国語の教科書はどの国においても基本的に存在するため、比較対象の素材として適切であると思われる(塘編,2005)。
東アジアと欧州の教科書に描かれた葛藤解決方略の比較
まず、アジアと欧州の教科書に描かれた葛藤解決方略の特徴について、量的な比較分析を行った。7ヶ国・地域の小学校国語教科書の作品1,278編(日本154編、台湾290編、韓国135編、中国88編、イギリス99編、ドイツ214編、フランス298編)に描かれた主人公の行動を2種類に分類した。一つは、相手に合わせて自分自身のやり方や考え方を変えることで問題解決をする「自己変容型」であり、いま一つは、自分自身のやり方をあくまでも貫き通す「自己一貫型」である。図1に見られるように、アジアの教科書の作品内に登場する主人公は、「自己変容型」の傾向が欧州に比べて多く見られた。また東アジアの中でも、日本と韓国では「自己変容型」が多いが、台湾と中国では「自己一貫型」が多かった(塘,2008)。
さらに「自己一貫型」について分析したところ、欧州3ヶ国では、主人公の行動を阻む「他者」に対して、主人公が自分のやり方を貫く傾向が見られたが、中国と台湾では、主人公の行動を阻む「状況」に対して、自分のやり方を貫く傾向が見られた。例えば「他者」の例として、友人がアドバイスしてくれたことに対して、それらを受け入れず自分のやり方を貫くというドイツの作品があげられる。一方、「状況」の例としては、経済的に貧しい状況の中でも、主人公が努力して成功するという中国の作品があげられる。このように「自己一貫型」といっても、その内容は欧州3ヶ国と中国・台湾とでは異なっていた。

東アジアの教科書に描かれた葛藤解決方略の比較
葛藤解決方略の量的な分析に関して、東アジア地域の中でも異なる傾向が見られたことから、さらに東アジア4ヶ国・地域の教科書に描かれた主人公の葛藤解決方略の特徴について質的に分析した(塘,2011)。
第1に、日本では敵を無邪気に信じることで葛藤を回避する作品が見られた。例えば小学校2年生の教科書の『ニャーゴ』(みやにし,2000)という作品を例にあげてみよう。授業をさぼっていて、猫の怖さについて先生の話を聞いていなかった子ねずみたちの前に、「ニャーゴ」と言って恐い顔をしたネコが現れた。しかし子ねずみたちは、ネコが自分たちの敵だとは知らない。そこで「おじさん、だあれ。」「こんにちはって言ったんでしょう」と無邪気に対応したり、一緒に桃を取りに行ったり、最後には自分たちの桃をネコにあげたりと、親切にする。そんな子ねずみたちの純粋で無邪気な気持ちは、ネコの心を変えていく。ネコは子ねずみたちを最初は食べようと思っていたのだが、徐々にその気持ちがなくなり、最後には子ねずみたちを食べずに別れるという内容である。子ねずみたちのやさしさが、本来敵であったネコの心を変えたという、他国には見られない葛藤解決方略が日本の教科書には描かれていた。
第2に、中国では主人公が敵に立ち向かうよう期待される作品が見られた。例えば『尻尾を振れる狼』(人民教育出版社小学語文室編,2000)では、穴に落ちた狼が羊をだまして助けてもらおうとしたが、主人公の羊はだまされずに、狼が助けを求めているにもかかわらず、最後には「猟師があなたを片付けに来る。」と言い残して、狼のそばから離れていく。前述の「自己一貫型」に関する量的な分析結果では、欧州に比べて「他者」に対する「自己一貫型」は少なかったが、日本に比べると、「他者」と対決しながら自分の考えを貫くといった葛藤解決方略が中国の教科書にはより多く描かれていた。
第3に、韓国では敵がもたらした状況に屈服しないよう期待される作品が見られた。例えば『石宙明』(韓国教育課程評価院編・教育部,2000)では、日本に国を奪われた暗い時代に生まれた石宙明が、三・一運動に参加して国を愛する心をもつようになったという作品が掲載されている。敵と味方とをはっきりと分けて、敵に対しては屈しないという自己表出をすることが、韓国の子どもに期待されていると考えられる。
第4に、台湾においても、2000年出版までの教科書には、中国と同様に敵に対しては屈服しない姿が描かれていた。例えば戦時下の日本人の軍事教官に反論する台湾人の行動を描いた作品が掲載されていた。しかし2010年出版の教科書になると、少なくとも小学校1~3年生用の教科書には、日本軍に立ち向かう内容の作品は見当たらなくなり、その代わりに日本の富士山と新幹線のすばらしさが描かれるようになる。このように時代によっても教育の場で子どもたちに与えられる他国に関する価値観は変化をしている。同様に葛藤解決方略についても時代とともに変化をする可能性がある。
以上のように東アジア地域と欧州地域とでは異なる葛藤解決方略が見られた。また隣国同士の東アジア地域内においても葛藤解決方略は様々であった。どの国・地域の葛藤解決方略が良いというわけではない。それぞれの国・地域の人々は歴史的文脈の中で培ってきた価値観に基づいて、国内外の様々な葛藤を解決しようとしている。しかし多様な価値観が混在する今後のグローバル社会の中では、他者の葛藤解決方略の基盤となっている価値観自体も変化する可能性がある。それぞれの国・地域が次世代に伝えようとしている価値観を詳細に分析し、互いにとってより良い解決方法を考えることが今後の社会の中でますます必要となるであろう。
謝辞
各国の教科書翻訳については、以下の方々の多大なるご協力を得ました。ここに記して御礼申し上げます。出羽孝行・金娟鏡・崔順子(韓国)、高向山(中国)、翁麗芳・童昭恵・林恵敏・林衣芳(台湾)、川口陽子(フランス)。
文献
- 人民教育出版社小学語文室編(中国)(2000) 尻尾を振れる狼 国語第5冊(3年生)人民教育出版社 156-158.
- 韓国教育課程評価院編・教育部(韓国)(2000) 石宙明 国語3-2 大韓教科書(株) 30-33.
- みやにしたつや (2000) ニャーゴ 山口明穂・渡辺富美雄他33名編 新訂新しい国語二上 東京書籍 48-55.
- 塘 利枝子編 (2005) アジアの教科書に見る子ども ナカニシヤ出版
- 塘 利枝子 (2008) 教科書に描かれた発達期待と自己 岡田努・榎本博明編 自己心理学5『パーソナリティ心理学へのアプローチ』金子書房 148-166.
- 塘 利枝子 (2011) 東アジアの教科書に描かれた自己表出 榎本博明編著 自己心理学の最先端:自己の構造と機能を科学する あいり出版 241-254.