私が「脳の励まし役」と位置づけているドーパミン神経系は、より一般的には報酬系と呼ばれており、行動選択に対する報酬信号として、選択した行動の優位性を学習・記憶させる働きがあります。この報酬系という言葉の意味が大衆レベルではやや世俗的に解釈されており、ドーパミンを「快楽物質」あるいは「愛を作る物質」などとその一端を誇張した表現も多く見られますが、その本質的な働きは詳しく知られていない部分も多くあります。これからの解説の中で明らかにされてきますが、ドーパミンには側坐核を舞台として、生体にとって良い行動をプラス評価して学習・記憶させる作用があります。その一方でドーパミンは前頭前野では不安を感じさせる作用を発揮することや、薬物依存症での病態中心となっていることも知られており、一言で快楽物質と位置づけることには短絡的な危うさを感じます。
ドーパミン神経系の働きとしては、第1には中脳黒質緻密部(A9) から尾状核・被殻への投射経路を通じて、線条体の運動機能調節に寄与する作用があげられ、この機能が障害されるとパーキンソン病に見られる振戦・硬直・無動等の運動障害を引き起こします。中脳黒質緻密部の内側に広がる腹側被蓋野(A10) からのドーパミン神経系は扁桃体・嗅結節・側坐核・帯状回への投射経路を通じて情動的な行動選択に対して、報酬回路としての役割を果たしています。すなわち、選択された行動が生体にとって有利であった場合にA10 からのドーパミン神経系が興奮信号を送り、その行動をプラス評価して学習・記憶させるのです。このことは例えばラットのA10 からのドーパミン神経の走行経路上に微小電極を埋め込み、レバーを押すと電気刺激が流れるように実験系を作ると、ラットは餌などの具体的な報酬が何も与えられなくても、永遠にレバーを押し続ける行為を繰り返すことからも確かめられています。このときにラットがはたして快楽を感じているのかどうかはわかりませんが、大衆的な解釈としてはA10 神経系がドーパミンという快楽物質を脳に送り込んでいると解釈されています。ラットのドーパミン神経系の走行を次に示します。
また、ラットの脳に不慣れな読者のために、ヒトの大脳におけるドーパミン神経系の走行を示した図を次に示します。
上記の図に示したように、腹側被蓋野からの報酬系としてのドーパミン神経系の第1の標的は側坐核です。側坐核は前頭葉の古い皮質である島皮質の内側に尾状核と被殻の交わる要の位置に腹側線条体の一部として存在しています。側坐核の位置をわかりやすく示した図版を次に示します。
また、私が作製した側坐核と尾状核・被殻からなる背側線条体と海馬・扁桃体の位置関係と連絡を示す図版を次に示します。側坐核の働きは、背側線条体に対して尾状核・被殻の両方の経路間でバランスをとって運動の調節・選択をすることと、扁桃体・嗅結節・側坐核・帯状回への投射経路を通じて情動的な行動選択に対して、報酬回路としての役割を果たすことがあげられますが、今回は側坐核を中心とした情動的な行動抑制モデルについて解説いたします。
上に示したのは『脳内物質のシステム神経生理学』(有田秀穂著 中外医学社刊 2006年) から著者と出版社の承諾を得て転載させていただいた腹側被蓋野からのドーパミン神経系が海馬・扁桃体・大脳皮質前頭眼窩野に対して調節的な信号を送っている、動物の(本能的な)情動回路のモデルです。
このモデルによれば、外部からの刺激信号は、大脳皮質感覚野で連合された情報として扁桃体に提示され、そこで生物学的な良い・悪いの評価を受けます。また個体内部での環境変化情報も同じくこの経路で生物学的な良い・悪いの評価を受けます。これらの情報は海馬に記憶データとして蓄積され、常に照合と書き換えが行われています。これらの情動的な(本能的で無意識の)判断による行動が、例えば美味しい餌を獲得したとか、良き生殖相手と関係を結べたなど、動物の生存・繁殖にとって有利な結果に導かれた場合には、腹側被蓋野からのドーパミン神経系が側坐核に対して報酬信号を送り、その行為を記憶して反復するように学習・記憶の設定が起こります。このようにして学習・記憶された行動は、次に示す大脳皮質-視床-基底核ループ内に行動パターンとして記憶・蓄積され、同じ状況では同じ行動が自動的に発現するようになります。大切なことは、これらの情動的な行動選択はほとんどの動物種では本能的で無意識な自動的選択として実行されているということです。
動物が行う情動的行為、例えば空腹を感じて餌を探す、餌を見つけて接近する、接近途中で邪魔な敵を発見する、邪魔な敵を追い払うためにうなり声を発して威嚇する、敵が逃げた後で餌を食べ始める、空腹が満たされると仲間に餌のありかを教える遠吠え(鳴き声・さえずり)を発声する...とこのような一連の行動パターンは上記の大脳皮質-視床-基底核ループ内に運動信号情報として記憶蓄積されています。そのうちの或るものは生得的な本能行為で、或るものは生後の経験から学習によって獲得された行為パターンであります。
大脳を持った動物が備えているこのような情動的な運動選択は、モモンガは敵から逃れるときに木の枝から飛翔しても、シマリスは飛翔しないといった例に見られるように、多分に遺伝子の情報を基盤とした生得的な行動であります。またその行動選択は瞬時的で自動発現的な場合がほとんどで、このことはホモサピエンスである現人類でも基本的には変わりません。ただし我々はナイフを突きつけられれば、当初は身を守るために最良の回避あるいは闘争行為を選択しますが、その途中で理性的に思考をめぐらせて、例えば金を払って命を助けてもらうなどの意識的思考と自由意思が介入した行動判断を追加してより賢明に生きることを知っているのです。このことの違いを十分に理解できない一部の哲学者が、我々人類も動物の一種に過ぎず、自由意思さえ存在しないと意識的な思考の存在を否定する風潮がありますが、私は賛成しません。ヒトは決して本能だけにより、自動的に生きているわけではないのです。次回は現人類であるホモサピエンスに特有とも感じられる「自由意思による行動選択の脳神経回路」について説明をいたします。
本稿の作成には、有田秀穂著「脳内物質のシステム神経生理学」(中外医学社刊 2006年)と「シリーズ脳科学2・認識と行動の脳科学」(東京大学出版会刊 2008年)より多くの図版と文章を引用させていただきました。転載に快諾をいただけた著者の有田秀穂先生、永雄総一先生、渡邊正孝先生と出版社に感謝と敬意を表します。