「個体発生は進化の歴史を繰り返す」という考え方は反復説と呼ばれ、古くからその真否が議論のテーマになっていました。確かにヒトの胎芽から胎児を経て赤ちゃんが産まれるまでの個体発生を見ていると、原始的な動物から徐々に進化の足跡を辿りながらヒトの赤ちゃんへと育ってくるようにも見られます。

左から魚、サンショウウオ、亀、ニワトリ、ブタ、ウシ、ウサギ、そしてヒトの胎芽から出生までを示していますが、驚くほど類似性が高いのがわかります。
しかし近代に入って遺伝子が発見されると、個体発生とは遺伝子に蓄えられた情報が発現することによって起こるので、決して系統進化の過程を反復するのではなく(たとえば発生途中で生まれたから魚として生きていけないように)ヒトにはヒト固有の遺伝子情報があって、この遺伝子情報によってヒトの赤ちゃんになるのだと反復説は否定されていました。それがさらに近年になると、ハエの遺伝子骨格とヒトを含む哺乳類の遺伝子骨格が基本的に大差ないという衝撃的な発見がなされました。これが1995年にノーベル賞を受賞した研究で、ショウジョウバエの発生初期に体の各部の段階的な発生をコントロールする新しい遺伝子群が見つかり、後に他の多くの動物種でも類似遺伝子群が見つかったということです。ホメオティック遺伝子と名付けられたこの遺伝子群は発生過程において、頭から尾の方向に重なりを残しながら少しずつずれた位置で働き、このパターンがそれぞれの場所が将来身体のどの部位になるかを決めているのです。ホメオティック遺伝子はその後他の多くの動物からも見つかり、同じような働きをしていることもわかりました。これはなぜ「個体発生は進化の歴史を繰り返す」ように見えるのかということを科学的に説明する発見となると共に、ショウジョウバエも我々人類を含む哺乳類も共通の祖先から進化した同様の段階的な発達機構を持つ仲間であることを示唆する発見でありました。ヒトとネズミの祖先が同じというだけでも奇妙な感じがするのに、ヒトとハエとが同じ遺伝子骨格を持っていることには驚きを隠せません。



下郡智美先生は前述の著書の中で、ヒトの脳と類人猿の脳の構造的な違いとして、背側視床枕の発達割合が著しく異なることを示しておられます。視床は大脳皮質と相互に強い連絡を持つ部位でありますので、この部位が人類特有の心の発達に関与している可能性はあるかも知れません。

私は人類特有の心の働きは何かと問われれば、他者の心を自分の中に取り入れること、すなわち他者の精神的活動が自分の脳内に入り込んで来ることを許可して、他者の体験を脳内で追体験することで共に共感・模倣学習したり、さらには改良出来る能力が格段に高いことだと考えています。この能力を特別に伸ばすことで人類は個人の思考では作ることの出来ない偉大な文明と文化を形成したのです。第33回「心は小宇宙」で述べたことの繰り返しになりますが、人類の脳は「コミュニティや社会の知的資産」を生み出し、それを共有する事で他の動物種より圧倒的に有利な生存環境を作り出し、ホモサピエンスという種の遺伝子を繁栄させて来たのだと私には思われます。ヒトがいつ人類になったのかという疑問に対する私見は、次回でさらに思索を深めたいと思います。
図版引用の御許可を頂き、貴重な資料をご提供いただいた、下郡智美先生、明和政子先生、および東京大学出版会、NTT出版に心から謝意を表します。