CHILD RESEARCH NET

HOME

TOP > 論文・レポート > 普段着の小児科医 > 38. ワーキングメモリと注意の制御

このエントリーをはてなブックマークに追加

論文・レポート

Essay・Report

38. ワーキングメモリと注意の制御

林 隆博 (西焼津こどもクリニック 院長)

2009年10月30日掲載

要旨:

今回、著者はなぜ、どのようにして人類の脳に高次機能が獲得されたのかについて自分の意見と推測を述べた。脳の高次機能を支えるのはワーキングメモリである。ワーキングメモリとは、脳の中で一定の時間だけ、ある情報を処理可能な状態でアクティブに保持する機能のことである。著者はワーキングメモリの概要と、ワーキングメモリを活用する上で重要になる「注意」の制御システムについて説明した。最後に、ワーキングメモリの容量制限について著者の私感も述べられている。
私たちの脳がどのような活動をしているかを示した模式図を以前も提示いたしましたが、脳の高次機能について考える前に、なぜ、どのようにして人類の脳に高次機能が獲得されたのかを私の意見として推測してみたいと思います。


report_04_51_1.gifreport_04_51_2.jpg上のシェーマは胎生5週程度の4個にくびれた大脳から、原始的な大脳と視床・中脳・小脳・延髄等が分化してきた時期の脳の働きを描いた模式図です。原始的な脳では、おそらく単一の刺激に対して単一の反応を行うという、チョムスキー派のモジュール論が主張するような一対一対応の入力と出力の調節を行う神経器官であったと思われます。しかし高等動物になり、視覚を単一で使用するよりも聴覚と組み合わせたり、嗅覚と組み合わせたりする方が有利であることから、次第に感覚の統合が必要とされ発達してきたと思われます。感覚情報の統合が進む一方で、過去の経験を参照して同じ過ちや成功を有効に使う方が動物にとって生存に有利である事から、現在の状況を詳しく伝える感覚情報と過去の感覚情報の参照が行われるようになったと考えられます。こうなりますと、過去の記録を検索する間や現在の状況を統合する間、一時的に情報を保持しておくことが必要となりました。なぜならば、ニューロンの興奮はわずか千分の一秒しか継続しない電位変化現象ですので、反射的に行動するには十分であっても、考えたり判断したりするにはその時間が不足します。高等動物で脳がわざわざ時間を消費してまで感覚情報の統合と保持、そして記憶情報との参照を行うようになったのは、その方が"喰うか食われるかの生存競争"に圧倒的に有利であったからだと思われます。その何よりの強力な歴史的証拠が、人類が地球上の食物連鎖の頂点に立つことが出来たということです。

さて、このように脳の中で一定の時間だけ、ある情報を処理可能な状態でアクティブに保持する機能は脳科学的にワーキングメモリという用語で表されています。人類および高次脳機能を有する霊長類等の動物にはワーキングメモリの機能が備わっています。身体の動きを止めて次の行動を考えるということは場合によっては逆に身を危険にさらす結果となります。したがって逃げ道を探しながら反撃の機会を考えるとか、食べながら敵の様子をうかがい判断するとか、何かの作業と併行して感覚情報の統合と記憶照合、そして取るべき行動の選択を行わなければなりません。このような場合に、複数の情報処理を併行して行える基盤となるワーキングメモリは大変有用なシステムですが、しかし空が青いとか、アルジェの太陽が眩しすぎるとか、必要度の低い情報まで考慮していたのでは、時間ばかり浪費して行動に踏み切れなくなります。おそらくその為でしょうが、ワーキングメモリには厳格な容量の制限が有ります。ワーキングメモリよりも小さい記憶として、意味のない数字の列をいくつ覚えることが出来るかで測定する「短期記憶」がありますが、この容量は一般のヒトでは4個、何らかの記憶方略(たとえば語呂合わせ)を使った場合には7個程度を記憶することが出来ます。ワーキングメモリでは単純に復唱するだけではなく、何かの脳内処理を行いながら記憶を処理可能な状態で保持するので、その保存・処理される情報の容量はヒトでは2項目(チャンクと呼びます)あるいは方略を併用する場合4項目であると計測されています。

ワーキングメモリの概要が理解できたところで、次にワーキングメモリを活用する上で重要になる「注意」の制御システムについて考えましょう。ワーキングメモリに厳格な容量があるのは、喰うか食われるかの状況でスピードと正確さを競い合う動物界に身を置いた進化の歴史がそうさせたのですが、地球上で食物連鎖の頂点に立って、敵は同じ人類以外にいなくなった今日ではむしろこの容量規定は個人にとってマイナスの足かせとなりつつあります。ワーキングメモリを使用する高等動物は容量制限を越えた情報が処理領域内に溢れ返らないように、使用するべき情報だけを優先処理する、すなわち不必要な情報を制限する「注意選択のシステム」を発達させてきました。注意を向けて情報を優先的に処理することと、不必要な情報でワーキングメモリが容量オーバーして思考が破綻する(俗に頭がパンクすると言われますが...)ことを防ぐことはワーキングメモリを使用する動物にとって大切なことになります。特に情報に溢れ返る現代社会では、人類は日々遺伝子が決めた僅か4チャンクのワーキングメモリを如何に有効に使うかに頭を悩ませなければなりません。個人的な希望をお話しますと、ワーキングメモリの容量を増設して12チャンクぐらいに出来れば現代人はもっと生活しやすくなると思うのですが、このような乱暴な遺伝子操作は小説の世界以外では当面は行われることがないと思われます。

それでは思考処理に重要な「注意制御のシステム」について解説しましょう。注意の制御はワーキングメモリの機能と切り離せない表裏一体の機能であります。ヒトが何かの思考を巡らせるとき、例えば目抜き通りのおしゃれな喫茶店で、原稿を書きながらコーヒーカップに手を伸ばしてコーヒーを口に含む、熱いなと思ってフウッと息を吹きかけてから、誰か見ていなかったかなと周囲をチラリと見回す、誰も見ていなかったので安心して一口飲んでから砂糖を入れ忘れたと感じてカップを置く、その瞬間に素晴らしいフレーズが頭に浮かんだので原稿用紙にペンを走らせる、そしておもむろにコーヒーカップに砂糖を入れて口に運ぶ...このように一連の動作がよどみなく行われるのは、原稿用紙、コーヒーカップ、周囲の人の視線、と注意を向ける対象を移動しながら、途中で進入してきたコーヒーの熱さや苦さといった感覚情報にもワーキングメモリで処理する容量を分配しているからです。もしも注意の移動と処理配分がうまくいかずにワーキングメモリの運用が混乱すれば、コーヒーは吹き出すし、原稿用紙は汚すし、散々な目に遭うこと間違いなしです。ワーキングメモリの円滑な作業実行には注意の制御が不可欠なのです。ここで「ワーキングメモリの脳内表現」から引用した図版を見ながら「注意制御のシステム」について解説しましょう。

report_04_51_3.gifヒトのワーキングメモリでは、前部帯状回と前頭前野背外側部が相互作用してワーキングメモリの中央実行機能を担当しています。ここで行われていることは情報を処理可能な状況で一定時間保持することです。それと同時に処理に必要な記憶情報を検索したり、新しく加わった感覚情報に対応したり、注意の方向を制御して感覚情報の入力量を制限したりしています。中央実行系はいわば思考の中枢的な機能を分担しているといえます。このワーキングメモリの容量を測定する方法にスパンテストといって一定の時間差を置いて脳内処理が必要な作業を連続処理させる検査方法があり、文章を読んでそのなかで指示されたターゲット単語を記憶するリーディングスパンテストや、文章を聞いてターゲット単語を記憶するリスニングスパンテストが頻用されます。これらのテスト得点は高得点群(4チャンク以上)と低得点群(2チャンク以下)の2群に結果がわかれ、高得点群では前部帯状回と前頭前野背外側部の相互連結がスムーズで有効な記憶方略を上手に活用していることがわかっています。

さらに高得点群では注意の制御も有効に機能しているのに対して、低得点群では一度注意を向けた対象からの注意の解放が上手く働かず、注意の制御の巧拙で高得点群と低得点群に分かれることも明らかにされました。この注意の制御はスパンテスト中の脳機能イメージ分析結果から、頭頂葉の上頭頂小葉(SPL)でコントロールされていることがわかってきています。

report_04_51_4.gif視覚的な注意の移動に関しても、前頭前野背外側部が下頭頂葉および視床枕を介して視覚野を制御移動しており、視覚注意の解放には下頭頂小葉が、注意の定位には視床枕が関与していることが示されているので(田中啓治著 『シリーズ脳科学2 認識と行動の脳科学』 東京大学出版会刊 2008年)注意のフォーカス移動には頭頂葉が重要な役割を担っていることが示唆されます。これは前頭葉の機能を異常に取り立てて崇拝する「前頭葉神話」に対する強力な反証であり、かといって脳機能全体論に甘んじることなく細部にわたり脳神経の全システムの解明が進むことを個人的には大いに期待しております。

またワーキングメモリと注意の制御システムについての研究が進むことは、今日の教育現場で問題視されている注意欠陥・多動性障害の脳を理解する上でも貴重なデータを提供してくれることになると思います。現時点で推測できることとして、注意の制御システムに未熟性があると、ワーキングメモリの分配が上手に出来なくなり、他動や学習障害として観察される結果を招くのではないかと、私は考えています。このような症例ではドーパミン作動薬等で前頭前野背外側部の覚醒度を上昇させることで注意力が向上して臨床的に良い結果を得ているのではないでしょうか。しかし薬物療法は行動療法と併用してこそ一層の良い結果が得られることと、ドーパミン作用薬の側坐核への耐性(依存性)形成の問題は置き去りに出来ない重要課題であると個人的に考えております。

最後にワーキングメモリの容量制限についての私感を付け加えますと、人類は一つの身体に二本の手を持つだけですから、一人のヒトが一度に出来ることには限界があります。したがって行動に視点を置いてワーキングメモリを考えるならば、4チャンクという容量制限は進化の結果選択された妥当な数量だと思われます。しかし現代社会では第33回「脳は小宇宙」で述べたように、脳は社会的な結合を形成して、文明や文化を生み出すことが主な仕事に変わりつつあります。脳内思考には容量制限は原則的に必要ないので、このような脳機能の新しい要求に応じて、いつか突然変異か遺伝子操作で巨大なワーキングメモリ容量を持った新人類が登場する可能性が有ることを期待しています。

図版の引用をご許可いただいた京都大学学術出版会および苧阪先生に心から謝意を表します。

筆者プロフィール
report_hayashi_takahiro.gif
林 隆博 (西焼津こどもクリニック 院長)

1960年大阪に客家人の子で日本人として生まれ、幼少時は母方姓の今城を名乗る。父の帰化と共に林の姓を与えられ、林隆博となった。中国語圏では「リン・ロンポー」と呼ばれアルファベット語圏では「Leonpold Lin」と自己紹介している。仏教家の父に得道を与えられたが、母の意見でカトリックの中学校に入学し二重宗教を経験する。1978年大阪星光学院高校卒業。1984年国立鳥取大学医学部卒業、東京大学医学部付属病院小児科に入局し小林登教授の下で小児科学の研修を受ける。専門は子供のアレルギーと心理発達。1985年妻貴子と結婚。1990年西焼津こどもクリニック開設。男児2人女児2人の4児の父。著書『心のカルテ』1991年メディサイエンス社刊。2007年アトピー性皮膚炎の予防にビフィズス菌とアシドフィルス菌の菌体を用いる特許を取得。2008年より文芸活動を再開する。
このエントリーをはてなブックマークに追加

TwitterFacebook

遊び

メディア

特別支援

論文・レポートカテゴリ

所長ブログ

Dr.榊原洋一の部屋

小林登文庫

冊子購入のお申し込み

PAGE TOP