しかし私は神を信じることを、まるで科学者としての資質を欠如しているかのように考える一部の急進派には賛同しません。私自身は例えば『まばたきとウインク』の中で紹介したサー・チャールズ・ベル(1774-1842年)の時代の科学者のように、一つの発見のたびに、一歩神に近づいた事を喜び、全人類への福音の発見を誇りに思い、感謝の念を忘れなかったダーウィン以前の自然科学者の態度もまた立派で尊敬に値すると思っています。
そして何よりも、「信仰は地球上で人類だけが持つ、前頭葉の高次脳機能である」という事実と、「地球上のすべての民族は何らかの信仰を、文化として長期間にわたり蓄積してきている」という歴史を黙殺することは真実から目を背けることになります。「実験的検証、あるいは少なくともどのようなデザインで実験を行えば検証できるかという提案は、すべての科学的仮説に必須の条件である」という科学的方法論の基本も、ある意味で科学者の信条であり、ドグマであります。精神機能が神経細胞のネットワークだけでは科学的に説明しきれない現状において、神の存在が現在の自然科学的な手法では証明できないとしても、人の精神活動としての信仰の妥当性を科学的手法によって否定しないままでこの世から葬り去る態度には論理的な矛盾が含まれています。科学者たちはまるで亡霊を恐れるかのように「神の存在」を恐れ、信仰から目をそらし、「宗教と科学は同居できない」とまで考えるようになったのですが、信仰を否定することに科学的根拠がない限り、その呪文は自分自身を撲殺する呪文にもなりかねないのです。
心や精神といった言葉も、大脳皮質や神経細胞、あるいはニューロンとそのネットワークの機能といった、物質とその生理作用を指し示す用語に置き換えられ、細胞の生理学的現象、生化学反応の結果として語られるようになってきています。科学者たちは一歩一歩神に近づくのではなく、一枚一枚論文を積み重ねることに無上の喜びを探し、他人から評価され認められることに誇りを感じなければならなくなりました。医学生として西欧科学に帰依した私の中でも次第に神様の居場所は狭くなり、結局20歳になったら自分の意志で洗礼を受けようと思っていた幼い日の決意も実行されないままになりました。
だからといって、私は今でも全面的に神の存在を否定して、信仰を持つことを侮る気持ちにはなれません。カトリックの教えは間違いなく私を大いなる苦しみから遠ざけて、人を愛して生きることの喜びと尊さを教えてくれたのです。心に重荷と苦しみを持つ多くの人にとって、良き信仰を持つことは、抗うつ薬と睡眠薬にドップリ浸かるよりは、よっぽど快適で金銭的にも負担の少ない治療法になる可能性があります。科学と宗教が同居しないと言い張ることは、男と女が一緒に暮らせないと主張するのと同じぐらい、自然を無視して馬鹿げた考え方なのかも知れません。良き信仰を持つことは正しく科学を理解することと同様に、人生を豊かで幸せなものにする目的にかなうことだと私は信じています。
今後の連載では子どもの脳や精神を物質的側面から観察して、細胞の生理学的機能としてコンピュータープログラムのように取り扱う記述が多く出現することになりますが、決して私は人間を物質のかたまり以上の物ではないと主張する急進派ではなく、狭くて居心地が悪いかも知れませんが、心の片隅には神様の居場所を少しだけとってある小児科医であることを宣言しておきます。

「二人は神によって創られて神によって結ばれた」我が家の食堂に飾られる、サレジオ会の聖書学者故石川康輔神父による私たち夫婦の結婚式。筆者の親友である藤田幸一氏(京都大学教授)の撮影。
(注釈:今回ここに自分自身の成育歴と宗教経験を持ち出したのは、今後の連載では宗教的な考え方から完全に独立することが目的で、特定の宗教を支持したり、あるいは流布・推奨、或いは逆に非難する意図は全くありません。それは今後の連載のなかでも同じ事であります。)