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39. 学習と記憶;海馬の新生ニューロン

要旨:

今節では著者は記憶の中枢とも呼ばれる海馬の構造と機能を解説しつつ、記憶がいかにして脳内に作られるのか、意識とも関係するワーキングメモリにおいて海馬はどのように働いているのかを推測しながら、新しく得られた海馬の新生ニューロンの仕組みと学習の関係について説明する。
前節では脳が多種類の感覚入力を統合して利用する、連合的思考という脳の高次機能を支えるワーキングメモリについて、前頭前野背外側部・前部帯状回皮質・上頭頂小葉が相互連絡しながら注意のフォーカスを移動しつつ、感覚情報を作業記憶としてアクティブな状態で操作していることを解説いたしました。今節ではさらに記憶の中枢とも呼ばれる海馬の構造と機能を解説しつつ、記憶がいかにして脳内に作られるのか、意識とも関係するワーキングメモリにおいて海馬はどのように働いているのかを大胆な推測を交えながら、新しく得られた海馬の新生ニューロンの仕組みと学習の関係について言及したいと思います。

ヒトの脳では海馬は側頭葉の内側に存在し、全体の形は半円形に曲がったバナナを2本並べて置いたようになっていて、外観がタツノオトシゴに似ていることから海馬と呼ばれています。その断面は側頭葉皮質が脳の中心部に向かって2重に折れ曲がったロールケーキか海苔巻きのような形状をしており、大脳皮質の構造としては最も古い3層構造皮質で形成されています。

report_04_52_1.jpg海馬と記憶・学習の関係については、ヒトでは海馬に障害を受けると記憶の機能に重大な障害が生じること、実験動物では海馬を破壊すると殆どの学習が成立しなくなることから、海馬が記憶と学習にとって必要不可欠な脳内器官で有ることが知られています。そもそも学習とは、動物が感覚刺激を脳内で情報として処理して、行動パターンを変化させるための記憶を脳内に形成することですので、右から左に聞いても直ぐに忘れていては学習にならないわけです。近年になって、海馬のみを選択的に破壊した実験動物でも遅延非見本合わせ課題という記憶操作を必要とする課題が最大40分間の間隔を置いても遂行可能であることと、海馬周囲の皮質の選択的破壊でこの能力が障害されることから、記憶が海馬のみならず海馬周辺の側頭葉皮質にも大きく依存していることと、記憶の種類によって主に働く皮質部位に差があることが判明してきています。

report_04_52_2.jpg上に示したのは海馬とその周囲の側頭葉皮質の断面図です。動物実験から得られた学習と記憶に関する知見をまとめますと、新規な事象と既知の事象では学習と記憶に関する作業部位が異なり、新規事象は主に海馬傍回と嗅内皮質で、また長期記憶から想起した過去の事象は第38回で解説した前頭前野外側部+頭頂葉のワーキングメモリで処理されている可能性を示唆する報告が多数有ります。またヒトにおいてもdevelopmental amnesiaという病気で9歳までに健忘症に陥った症例では、海馬機能が選択的に失われていて少し前に聞いた話さえ覚えていることが困難であるにも関わらず、言葉を覚えて話すことが出来、学校に通って普通の成績であった事実より、言語能力に必要な意味記憶は海馬に依存せず、エピソード記憶と回想性想起が海馬依存性であることがわかっています。

記憶の分類には種々の分別法が有りますが、大きくわけて長期記憶と短期記憶、機能的にわけて意味記憶とエピソード記憶(いつどこで何をしたかというタイプの記憶)、さらに作業記憶(ワーキングメモリ)に分類することができます。短期記憶には感覚入力そのものの500msからせいぜい5秒程度の持続時間しか持たない非意識的な感覚記憶から、選択的注意を伴い意識化することで短期記憶貯蔵庫に15秒から30秒間保持されるものまで記憶保持時間に幅があります。このワーキングメモリ内の短期貯蔵庫は前頭前野と頭頂葉のニューロン間での反響回路を使って情報を操作可能な状態でアクティブに保持していると考えられています。ド-パミン作動神経とノルアドレナリン作動神経を選択的に阻害する物質をサルの前頭前野に注入するとワーキングメモリ課題が遂行困難になり、L-dopaの投与で快復することから、これらの作業記憶はドーパミンおよびノルアドレナリンに依存的であることがわかっています。動物実験では蛋白合成阻害剤の投与が長期記憶の形成を阻止する一方で、短期記憶の形成には影響しないことが知られており、記憶には蛋白合成を必要とする長期記憶と必要としない短期記憶があることがわかっています。さらに健忘症の脳障害部位の検証から健忘症には海馬性の健忘症と視床・乳頭体等の間脳性の健忘症が有ることから、記憶回路にも海馬依存性記憶回路と海馬を通らない間脳依存性記憶回路の2系統の記憶回路があることが推察されます。また何かを見たときに既に見たことがあるという既視感を思い出すことと、それをいつどこで見たかを思い出すエピソード記憶の回想とは異なった神経基盤で処理されることも知られており、海馬の選択的障害ではエピソード記憶の回想が障害され、海馬周囲領域の障害では既視感の記憶が障害されます。

以上をまとめますと、記憶には作動部位と範囲の異なる2系統の記憶回路が存在することが推測されます。第1の回路は海馬から脳弓・乳頭体を経由して視床前核に至り、帯状回後部と海馬傍回を介在する相互連絡路で海馬に戻る回路で、エピソード記憶・回想性想起・空間記憶に関与しています。第2の回路は嗅周囲皮質から下視床脚を経由して視床背内側核に至り、帯状回を介在する相互連絡路で嗅周囲皮質に戻る回路で、視覚認識・意味記憶・既視感想起に関与すると考えられます。また新規性の認知は嗅周囲皮質-嗅内皮質外側部-海馬前部の経路が関与し、既視感の想起は海馬傍回、回想性想起には海馬傍回-嗅内皮質内側部-海馬後部の経路が関与することが示唆されています。これらの記憶の2回路を模式化したものを下図に提示します。

report_04_52_3.jpg近年になって海馬歯状回では生涯にわたって新しいニューロンが産生され続けることがわかり、これが海馬の可塑性を通じて記憶形成のメカニズムに大きな役割を果たしていることが海馬のスライスを用いた動物実験で確かめられています。海馬の断面は下図に示すように海苔巻きかロールケーキのような形状をしており、新生ニューロンはその内側の歯状回に存在しています。

report_04_52_4.gif(上図では左側の全体図はヒトの脳で、右側のスライスはマウスの脳を基本にして作製しています。)


海馬における記憶形成のメカニズムはLTP(長期増強)と呼ばれる神経シナプス連絡の量的および質的な生理学的変化によって特徴づけられています。海馬のLTPはCA3錐体細胞からCA1錐体細胞に投射されるShaffer側枝とCA3錐体細胞自身の樹状突起に投射される反回枝のシナプスに量的あるいは質的な生理学的変化が生じることでシナプス間の連絡が強くなる現象として記憶形成に関与しています。海馬の歯状回新生ニューロンを選択的に除去するとこのLTPが起こらないことが実験動物で確かめられており、海馬内では新生ニューロンとシナプスのLTP形成が可塑性の主役を演じていると思われます。

海馬について記憶と学習という見地からの解説を進めてきましたが、海馬機能には記憶以外に空間認知・ナビゲーション・文脈形成とその想起・不安などの情動・感情調節に関する機能も報告されており、海馬の空間認知に関する研究ではCA1錐体細胞が特定の場所を記憶する場所細胞として働いていることがわかっています。嗅周囲皮質が視覚・聴覚・嗅覚・触覚などの多くの知覚系記憶を統合し宣言的記憶として長期保存する場で有るとの知見と合わせれば、海馬およびその周辺皮質の機能は記憶の連合・比較・想起の中心ターミナルとして認知の統合機能にも深く関わっていることが推察されます。実際にうつ病や統合失調症患者で海馬のニューロン新生に障害があるという報告もあり、海馬の強い可塑性が動物の生活に必要な脳機能を支える重要なセグメントで有ることがうかがえます。また空間移動に関連して海馬のCA1錐体細胞は時系列で発火する場所-時間統合の機能を持つこともわかっており、海馬がエピソード記憶の作成と想起、情報の時系列統合と文脈の作成・想起を通じて脳の高次機能に重要な役割を果たしていることは疑う余地がありません。第31回で述べた「心のふるさと理論」はこの海馬の場所時系列統合機能が発展した形として、海馬が「自我」の主要なコンポーネントである自己エピソード記憶の作成・貯蔵・想起に関係していることから、精神医学的に提示されてきた自我の神経学的な基盤を海馬機能に求めることができると発展的に解釈する事ができます。

海馬の強い可塑性はその新生ニューロンに依存していることがわかったのですが、新生ニューロンの産生には海馬内のGABA作動性細胞が重要な役割を果たしていることが東京大学の久恒辰博らの実験で確かめられています。海馬歯状回では幹細胞の役割を持つtype-1細胞がニューロンに近いtype-2細胞へと分化し、type-2細胞から新生ニューロンが発生することが知られており、歯状回に至る貫通線維に学習時に発生するθ波と同じ電気刺激を与えるとGABAニューロンの活性化を通じて新生ニューロン分化が促進されることもわかっています。学習効果が海馬の新生ニューロン分化促進を通じて記憶・学習の脳機能を改善する、つまり勉強すれば勉強するほど成績が良くなることが神経学的にも確かめられた訳です。またGABA作動薬を投与されたマウスにおいては通常の1.5倍以上の海馬新生ニューロンが存在することが観察されており、GABAを投与された実験動物では学習能力が向上し、不安などの神経症状が和らぐことも報告されていますので、GABAそのものは血液脳関門を通過することができないのですが、食事から摂取されたGABAおよびその前駆物質が消化吸収後に血液脳関門を通過できる形で海馬に働けば、不安を取り除き記憶学習機能を向上させる効果が期待できるかも知れません。GABA機能性食品に関しては静岡県立大学の横越英彦教授とフーズ・サイエンスヒルズプロジェクトを中心とした研究開発が進んでいます。

 

report_04_52_5.jpg図版出典:東京大学出版会刊「シリーズ脳科学4 脳の発生と発達」255頁。



最後に海馬とその周辺側頭葉皮質がワーキングメモリの回路内に果たす役割についての筆者の推察を述べますと、ワーキングメモリを始め脳の高次機能では前頭前野の機能が強調される傾向が感じられますが、前頭葉皮質の各ニューロンには多くても1万から2万の入力しか無いと推定されることから、視覚・聴覚・嗅覚・触覚等の多くの情報を統合するには解剖学的機能から考えて不利であると思われます。海馬は大脳皮質の各部位と相互に密接な連絡を持っており、情報が最終的に収斂する脳内器官であると考えることもできます。その点を踏まえて推察すると、記憶の第1回路はエピソード記憶を統合して一時的に保持するエピソードバッファーの一部として、第2回路は視覚情報を一時的に保持する視覚バッファーの一部としてワーキングメモリ機構に情報出力を提供し、その回路の一部として機能している可能性が大きいと思われます。今後のヒト脳画像研究の進展でこの点が解明されることを大いに期待しています。

海馬と新生ニューロンの図版の転載にご協力をいただきました、久恒辰博先生と東京大学出版会に心から謝意を表します。

筆者プロフィール
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林 隆博 (西焼津こどもクリニック 院長)

1960年大阪に客家人の子で日本人として生まれ、幼少時は母方姓の今城を名乗る。父の帰化と共に林の姓を与えられ、林隆博となった。中国語圏では「リン・ロンポー」と呼ばれアルファベット語圏では「Leonpold Lin」と自己紹介している。仏教家の父に得道を与えられたが、母の意見でカトリックの中学校に入学し二重宗教を経験する。1978年大阪星光学院高校卒業。1984年国立鳥取大学医学部卒業、東京大学医学部付属病院小児科に入局し小林登教授の下で小児科学の研修を受ける。専門は子供のアレルギーと心理発達。1985年妻貴子と結婚。1990年西焼津こどもクリニック開設。男児2人女児2人の4児の父。著書『心のカルテ』1991年メディサイエンス社刊。2007年アトピー性皮膚炎の予防にビフィズス菌とアシドフィルス菌の菌体を用いる特許を取得。2008年より文芸活動を再開する。
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