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論文・レポート

【いじめの構造】 第2回 いじめの文化差-国際比較からみる相違点と共通点-

杉森 伸吉 (東京学芸大学 准教授)

2012年7月13日掲載

要旨:

日本と、アメリカやドイツのいじめの比較研究から、いじめの文化差について、4点をあげた。
(1) 日本では、いじめる者、いじめられる者、傍観者、無関心者の四者でいじめが構成されるという四層構造理論が当てはまりやすいが、欧米では、力の序列であるペッキングオーダー型のいじめが多い。
(2) からかいや悪口がいじめの最多タイプであることは世界共通であるが、日本では無視など人間関係から疎外する関係性攻撃が多く、欧米では直接的な暴力によるいじめが多い。
(3) いじめの発生期は、仲間内の空気を読むようになる小学校高学年からで、空気を読むことが不介入にもつながる。
(4) 自己防衛のスタイルが個人主義的か集団主義的かで、いじめから受けるダメージや、いじめへの反応も異なる。
English
四層構造とペッキングオーダーの比較

四層構造理論(森田・清永、1986)によれば、いじめの場面は四種類の人間で構成されます。それは、いじめられる人、いじめる人、はやしたてる観衆、無関心な傍観者です。前回の記事で述べた鹿川君のお葬式ごっこも、同じ構造でした。こうしたタイプのいじめは、日本では珍しくないですが、国際的には必ずしも一般的ではありません。

以前、ウィスコンシン大学のミルウォーキー校で、若者と暴力を異文化間で比較する国際シンポジウムがありました。シンポジウムで取り上げられた暴力の種類の中にはいじめも含まれ、日本のいじめについては筆者が発表し、アメリカ、ドイツのいじめについてもそれぞれの国の研究者が発表しました。このシンポジウムの内容は、社会学の専門書のシリーズの一冊としてアメリカで出版されています(Watts, 1998)。そこで、主催者である社会学者メレディス・ワッツ氏の、いじめについて三ヶ国を比較したコメントが興味深いので、紹介します。

まず、日本のいじめの基本的パターンの一つとして四層構造があるのに対して、アメリカやドイツのいじめは力の強いものが弱いものを攻撃するという、ペッキングオーダー(pecking order)で理解できるというのです。ペッキングオーダーとは、直訳すれば、突っつき順位のことです。ニワトリなどがエサを食べるとき、強いものが満腹になるまでエサを占有し、下位のニワトリが食べに来ても、突っついて追い払ってしまうため、上位のニワトリから順にエサを食べることになります。ニワトリやサルなどの群れには、こうしたペッキングオーダーが存在します。

例えばYouTubeで"pecking order"と検索して出てくるもののうち、ある動画では、ニワトリが群れの中で自分の順位を上げる行動が見られます。首の長い茶色いニワトリの攻撃に対して、元の順位が上のニワトリは、最初は反撃しますが、次第に反撃しなくなり、逃げるようになると順位の入れ替わりが確定します。このように、常により強い者が、より弱いものの上に立つ序列がペッキングオーダーです。

ペッキングオーダー型のいじめは、ちょうど『ドラえもん』のジャイアンが行ういじめのように、より力の強いものが弱いものを攻撃するもので、無視や仲間外れといった集団内の人間関係から除外する日本的ないじめとは性質が異なります。そもそもいじめに該当する英語はbullyingであり、雄牛(bull)が猛り狂い攻撃するというイメージです。このことと符号するように、アメリカでいじめの調査をすると、いじめというよりも暴力の調査のような結果が出やすいといいます。ドイツではさらに、男子による男子への暴力が典型的ないじめとして出てきます。先述のYouTubeの動画のタイトルも、"Bully chicken redefines pecking order"(いじめっ子のニワトリが突っつき順位を変える)です。

このようなことから推察されるように、集団内の人間関係からの除外などの関係性攻撃が与える心理的なダメージの度合いには、文化も影響します。アメリカやドイツなどの場合は、基本的な人間関係が相互に独立的であるため、周囲に同調して空気を読んだり、自分を抑えて周囲に妥協することは日本ほど多くはないでしょう。日本に四層構造理論があてはまりやすいのは、こうした集団内の同調のメカニズムがあるからではないかと考えられます。ちなみに、YouTubeで"bullying"と検索して出てくる動画の中には、平和でのんびりしたイメージの、ヤギのいじめ"goat bullies are like students who bully"もあります。こちらはむしろ、いじめられるヤギ、いじめるヤギたち、傍観するヤギ、無関心なヤギと、むしろ四層構造理論が当てはまるように見えます。


タテマエとホンネ

このことは、いじめの場面を見たときに止めに入るか傍観するかという反応の文化差にも現れます。アメリカなどのような多民族・多文化社会の場合は、日本のようにホンネを全体で共有するのが難しく、タテマエのルールで動かないと成り立ちにくい社会でもあるため、「いじめはいけない」というタテマエが通りやすく、いじめを見たときに、止めに入るといじめが止むことも多くあります。それは、いじめはいけないことであるというタテマエが、そのまま共有されているからです。

それに対して、相互協調的な性質をもつ日本社会では、いじめを見たときに、空気を読み、また報復を恐れて、止めに入る子どもが少ない傾向があります。空気とは、必ずしも言葉では明言されないけれども、その場の集団に共有されたホンネだと言えます。いじめを行うことを是とする「空気」がその場にできあがり、いじめをやめさせようとする行為は、その空気を乱す行為として制裁を受けるというパターンを学習しているため、止めに入らない子どもの割合は、年齢に比例して増加します。

それでは、こうしたパターンは、いつ頃に学習されるのでしょうか。私は、次に述べるように、10歳くらいであると考えています。

発達曲線をたどると、思いやり行動(困っている人を助けるなど)は、小学4年生を過ぎたあたりから中学2年生くらいまでの時期に低下する傾向があります。この時期といじめの多発期が一致しているのは、偶然ではないと考えます。

小学校4年生くらいまでは、親や教師などの大人が提示するルールが絶対的ですが、小学校4年生を過ぎるあたりから、次第に仲間内のホンネを意識するようになり、タテマエ的には望ましい行動でも、「空気」として意識される仲間内のホンネに反すると、望ましい行動を自粛するようになるのです。

一方、アメリカのような多文化社会では、いじめが起きたときに誰が止めに入ってもいじめが止まりやすいといえます。実際に、「いじめを見たら止めに入りますか」という質問に対して、「はい」と答える子どもの割合は日本と異なり年齢に応じて直線的に増える傾向があります。


自己防衛の違い

自己防衛が集団主義的か個人主義的かの違いも、いじめへの反応にも表れていると解釈できます。

1995年ころに、当時の文部省が国際シンポジウムを開催し、1970年代からいじめの研究をしているノルウェーのダン・オルベウス教授らが招かれました。そこでは、もっとも種類が多いのが、悪口やからかいであること、悪口やからかいの内容も、例えば「バイキン(英語ではvirus)」という言葉が使われる場合があるなど、国際的にも共通点が多いことが確認されました。また、いじめを大人の目から隠したり、クラス内でいじめの合意作りをするためには、いじめる子に人気があったり社会的スキルが高かったりする必要もあります。日本でもカナダでもいじめる子の特徴として、クラスでも人気があり社会的スキルも高い、という傾向がいくつかの調査で共通してみられます。

一方で、相違点もあります。相違点が生じる原因には、社会構造の違いや、文化の違いなどが考えられます。それらの違いは、いじめられたときの反応の違いとしても現れると考えられます。この反応の違いの背景には、いじめられたときの受け止め方、つまり、いじめられたら自分が悪いと思うか、いじめた相手が悪いと思うかの文化差があります。後者の、自分をいじめる相手が悪いと考える文化では、いじめへの反応として復讐がテーマになるでしょうが、前者の、いじめられる自分が悪いと思う文化では、いじめで心理的に追い詰められたときに、うつや不登校、引きこもり、自殺などの自己否定的な反応を示しやすいと考えられます。

また、いずれの文化でも自尊心は大切ですが、自尊心の保ち方や性質には違いがあることが示唆されています。前述の例で言えば、後者の文化では、自尊心は自分で保つものであり、いじめのような外部からの攻撃は、自らブロックするものという考え方があります。

そのような文化的背景からすると、日本のようにふだん守り合うべき関係の仲間からの攻撃が、自己の内面深くまで傷つけることは想像に難くないでしょう。このように、仲間と相互に守り合うような、集団主義的な自己防衛のスタイルの文化では、いじめのダメージがより深刻化しやすいと考えられるのです。

次回は、学級での教師のリーダーシップといじめの関係について述べたいと思います。


参考文献

M. W. Watts (1998) Cross-Cultural Perspectives on Youth and Violence. Contemporary Studies in Sociology, Vol.18, JAI Press.

森田洋司・清永賢二 (1986年)『いじめ―教室の病い』、金子書房


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nippon.com: 「日本型」いじめの構造を考える

筆者プロフィール

report_sugimori_shinkichi.jpg杉森 伸吉 (東京学芸大学 准教授)

東京学芸大学准教授(社会心理学)。個人と集団の関係をめぐる文化社会心理学の観点から、集団心理学(チームワーク力の測定、裁判員制度の心理学、体験活動の効果)、リスク心理学などの研究を行っている。法と心理学会理事、野外文化教育学会常任理事、社団法人青少年交友協会理事、社団法人日本アウトワードバウンド協会評議員、NPO法人教育テスト研究センター研究員、NPO法人学芸大こども未来研究所理事、社団法人教育支援人材認証協会認証評価委員会委員長など。
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コメント

もう半世紀以上前のことですが、僕が小学校3年の時です。東京の小学校から北九州のある小学校に転校しました。
転校してすぐに、数人に囲まれて、ある一人の子と喧嘩をさせられました。その喧嘩に一方的に負けてしまって以来、クラスの中での僕に対するいじめがはじまり、僕は不登校になり、自殺も考えました。僕の小学校後半は本当にみじめなものでした。

その後、僕は高等小学校に入りました。そこは暴力の横行する荒れた世界でしたが、入ってすぐに喧嘩をした相手はクラスの中でも体格や腕力では一番の子だったので、僕のクラス内でのオーダーが高くなり、もういじめられることもなく幸福な生活を1年間送りました。そうして、翌春には中学に入りました。そこでも最初に(そして最後に)喧嘩をしたのがかなり暴力的な子でしたので、ケンカの強さが認められ皆から一目置かれて、以後はずっと幸福な学校生活を送りました。
その頃の、福岡県の小学校でのいじめはペッキングオーダー的ないじめだったと思います。
その後、僕は動物学の研究の道に入り、ウズラを使って鳥のペッキング・オーダーは何が決定するのかを調べる研究をしました。
現在報道されている日本の学校でのいじめは確かにアメリカなどのものとは異なっていて、おっしゃる通りの4層構造を持っているもののようですが、かつては日本にもペッキングオーダー的いじめは普通にあったと思います。

以上、素人の考えですので、不十分なものかもしれません。ご意見をお知らせくだされば幸いです。


Susumu様

 たいへん奥深い視点からのコメントを、ありがとうございました。実は昨日まで、学会等でケープタウンとイスタンブールに行っていて、すぐにお返事できずに失礼いたしました。
 とても考えさせられるコメントでしたので、少し考えをまとめさせていただいてから、お返事させていただきたく存じますので、2,3日ほどお時間をいただければ、ありがたく存じます。
 


Susumu様、含蓄深いコメントを、ありがとうございました。ご自身の深いご体験も開陳してくださり、当時の様子が生々しく目に浮かぶようですし、うずらのペッキングオーダーの研究をされているとのことも、大変興味深く存じます。より深くいじめについて考えるきっかけを与えていただき、感謝しております。
四層構造型のいじめと、ペッキングオーダー型のいじめと、文化を関連づけて述べましたが、より正確には、両者は独立で別個のものというより、比率の多少はあっても、併存可能なものと思います。
たとえば、ペッキングオーダー型のいじめであっても、いじめる側といじめられる側がいて、それをはやし立てる観衆や、無関心な傍観者がいれば、そこには四層構造も存在するからです。また逆に、四層構造型のいじめでも、いじめる側といじめられる側との間に、ペッキングオーダーを決める目的があれば、ペッキングオーダー型の要素も入ってくるわけです。
したがって、どんな文化でも、原理的にはどちらのタイプのいじめも、生じうるとも考えられます。
より本質的に考えるためには、『どんな条件がそろうと、四層構造型が優位になり、またどんな条件がそろうと、ペッキングオーダー型が優位になるのか?また、両タイプの本質的な違いは、突き詰めると何なのか?』という問いについて探究するのがよいのだろうと、思います。
基本的には、より良く生きるために必要となる資源・リソース(お金、仕事、学歴、他者からのサポート、知力などなど)が少ないほど、「体だけが資本」となり、力の強さの序列が、食料などを分配する基準になりやすくなります。つまり暴力が支配的な集団ができやすくなります。そういう状態にある国は、今でもたくさんあり、戦後の日本と共通するところもたくさんあると思います。たとえば、「いじめはこどもが健全なる社会化をするのに必要だ」という考えなども、食料などのリソースが十分に分配されない状態の社会で、よくみられます。
でも、リソースがないから、暴力が支配的になってよい、というのでは、あまりに社会が荒んだものになるため、宗教など、より心豊かな社会にするための考え方やルールを、人間は発明してきたのだろうと考えます。
そういう点で、うずらなどのペッキングオーダーの仕組みと、人間社会は、どこが共通で、どこが独自なのか、興味のあるところですね。Susumu様が、この点について、ウズラのご研究なども含めて、どう感じられるかにも、興味があります。
 もしも、生きるための資源(ウズラの場合だと、エサになるでしょうか)が争う必要がないくらい十分にあるときには、ウズラにも次第にペッキングオーダーがなくなり、エサが少なくなるほど、競争が激しくなって、ペッキングオーダーが顕著に出やすくなるなら、上述の推論(社会の中のリソースや個人が持つリソースが少なくなるほど、競争が激化するため、リソースの分配を決定するための、ペッキングオーダーが顕在化しやすくなる)も、ウズラのレベルで、ある程度の裏付けを得られたことになると思いました。


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