今回は会場で出会った18歳の青年、山口和也さんとの交流を通してリハビリテーションのありかたを考えてみたいと思います。彼は私が講演のなかで話した「集団偏向現象」1)について考えさせられることがあったそうです。以下、彼のメールを紹介します。
「一昨日は貴重なお話をありがとうございました。僕は病院に長くいた人間なので、外からの刺激がない分、視野が狭くなって、色々な面で保守というか受け身になってしまい、なかなか周りの意見に異を唱えることが難しくなり、『しょうがない』の名のもとに本来最低限守られなければならない権利までもが消失してしまうような現状が往々にしてありました。だからこそ、普通の子どもたちが挑戦することを怖がらないで成功体験を積み上げ成長していけるように、高塩先生には周りに大きな受け皿となってくれる人たちをたくさん作っていただきたいと思いました。」

山口和也さん
和也さんは、脳性まひによる機能障害のため歩くことはできません。そのため移動方法は、リクライニング可能な電動車椅子を使用しています。彼は今年の4月に与謝の海養護学校の高等部を卒業し、現在は神戸市西区にある更生施設で生活しています。彼が生まれ育ったのは京都府の北に位置する久美浜町という所で、1歳半から月1回の頻度で京都市内の小児施設に通っていました。その後、地元の普通小学校に入学しましたが、しだいに通学できなくなり養護学校へ行くことを勧められ小学校二年生から京都市内の施設に入園しました。入園は「歩けるようになるのであれば」という母親の一言ですんなりと決まりました。彼は「絶対歩いて家に帰る」と、週5日の理学療法と作業療法に懸命に励みました。入園当時は早期発見・早期療育の名の下に、彼も親もセラピストも血眼になって、文字通り訓練漬けの毎日であったそうです。そこには訓練の是非を問う余地もなければ、ほかの選択肢を選ぶ余地も全くありませんでした。それでも小学校高学年ぐらいになると訓練に対する漠然とした疑問が湧いてき、苦手な巧緻動作を意識させられる作業療法はよくボイコットしたそうです。
彼は、いま障害児が「なぜ苦手なところをわざわざ意識させてまで訓練しなければいけないのか、生まれた時から『have to』ばかりで、もう少し『want to』が多くてもいいのでは」と考えています。
また11年にもおよぶ訓練を中心とした生活が、家族の絆にも暗い影を落しました。特に親との距離の取り方は今でも苦労しています。彼は思春期の自己を、多少理不尽なことでも家の構造や親の負担を考えてしかたないと我慢する自分、もっと環境が整っていればと思う自分、決してだれも責められずに障害を悲観する自分、そのなかで揺れ動いていたと分析しています。それでも多く人との出会いが「あきらめなくてもいいじゃない?」という思いにつながりました。
現在、彼は臨床心理士になってピアカウンセラーとして働きたいという夢を持っています。しかし自分がどの程度その目標に向かって進んでいるのかは正直自信がなく、周囲からの「妥協して療護施設に入ったら?」という言葉に心が揺れることもあります。
成年期はその人の就労生活と深く結びつき、人生の他の時期よりも選択をおこなう大きな自由がある。また本当に自分の生活を始めるときでもあり、人生の物語の展開を経験し、熟慮するにつれて、自分の動機や選択を評価し、再評価する時期である。人はどのような生活の家庭を選択したとしても、自分を知り、自分の生活価値の意味を探り、自分の生活状況の方向を統制することを求めるという叙述的過程を続けていく2)。障害を持つということは人生の選択肢が少なくなる場合が多く、人は自分の『選べる選択肢』のなかに『選びたい選択肢』がないとき、無力感や無能感をかんじる3)。
従来の「機能障害に焦点をあてた治療をおこなえば当事者が自立する」という幻想から早く目覚め、リハビリテーションが子どもたちと家族の人生にどの様な影響を与えているのか、再考する時期に来ているように思われます。
1) 集団偏向現象(Group Polarization):もともと同じような考え方を持っている人をある一所に集めて、他の情報から遮断してしまい、同じような考え方の人の間だけでどんどん話をすると、当初もっていた傾向がより過激化していく現象。
2) Gary Kielhofner 編著(山田孝監訳):人間作業モデル-理論と応用.改定第2版,協同医書出版,1999.
3) 高塩純一:成年期を迎えた脳性まひ者に対するアプローチ.ボバースジャーナル,24(2):135‐139,2001.