さて、前回まで意識についてお話ししてきましたが、私たちの脳が目覚めて活動するには脳幹部の活動が不可欠であることから話題を続けようと思います。私たちの脳が意識的な活動を行うためには目覚めている、つまり大脳皮質が覚醒状態にあることが必要条件であります。このことは哺乳動物では脳幹の機能が低下すると昏睡状態に陥り、脳幹の機能が完全に回復不可能な状態まで失われた場合には脳死(脳幹死)とみなされる事から容易に理解できると思います。私たち哺乳動物の脳は毎日(一部のイルカ等では数分ごとあるいは片方の大脳半球ごとに)覚醒状態と睡眠状態を繰り返して生きています。実験用のネズミを強制的に断眠させると十分に餌を与えても体重が減少して最後には敗血症で死亡することが報告されています。ヒトでは私が調べた限りでは11日間の断眠記録が残っていますが、それ以上眠らないと何が起こるかは不明です。おそらく実験動物同様に敗血症から死への機転をたどると想像されます。私たち哺乳動物の脳は覚醒状態と睡眠状態を上手に使い分けて長生きしているのです。そのどちらが障害されても脳の機能は維持できませんが、最初は脳を目覚めさせて意識のスイッチを活動状態オンに切り替える大脳賦活系について解説いたします。
ヒトを含む哺乳動物の大脳賦活系システムには大別するとモノアミン系神経伝達物質による大脳皮質から脊髄に至る覚醒系と、視床皮質ニューロンによる大脳皮質賦活系と、アセチルコリンによる大脳皮質賦活系の3経路が存在します。これらの経路はいずれも脳脊髄の興奮性神経伝達物質であるグルタミン酸のシナプス伝達を修飾する形で脳の活動レベルを変化させています。たとえて言うならばグルタミン酸という主動力(エンジン)に対して、自動車や自転車の変速機(ギア)のように、活動力伝達レベルの水準を上げたり下げたりして脳と脊髄の神経活動レベルを全般的に調節しているのです。ですから大脳賦活系システムの不具合はギアの壊れた自動車のようにコントロール不能な脳神経の暴走状態を作り出す危険性もあります。これらの脳神経賦活システムの概要をラットの脳で表したのが次の図です。この中でしばしば取り上げるモノアミン系(上図ではその代表のNA神経上行路が表示されています)については、ラットの脳に不慣れな読者のために私が作成したヒトの脳画像中に書き込んだ大脳賦活系路図を次に示します。
モノアミン系と呼ばれる脳神経伝達物質はノルアドレナリン、セロトニン、ドーパミン、の3種類の神経伝達物質が特定されていて、それぞれの役割と働き方の違いによるヒトの精神機能への影響もかなり詳しく解明されてきています。それぞれの神経伝達物質の生理作用については引き続いて連載中で詳細に解説するとして今回はその概要をまとめますと、上図のようにドーパミン系は主に前頭葉を中心とする大脳皮質に対して作用を及ぼしているのに対して、セロトニンとノルアドレナリンは小脳や脊髄にも作用を及ぼしています。理解の便宜をはかるために、この3種類を私はモノアミン3兄弟と勝手に名付けて、ノルアドレナリンを脳の警報係、ドーパミンを脳の激励係、セロトニンを脳のなだめ係と位置づけています。これらの3物質は俗っぽい表現を借りるならば、『飴とむち』のような役割を交互に表しながら、脳を叱咤激励して最大限に働かせているとも言えます。このモノアミン3兄弟の作用の特性として、叱咤激励は強ければ良いというのではなく、すなわち濃度依存性に効果が増大するのではなく、至適濃度(作用量)で最大の効果が現れるという特質があります。下図のイメージのように神経伝達物質の量が多すぎても少なすぎても効果が減退してしまうという作用効果特性があるのです。
最初の図から要点だけを抽出したのが次の図です。図の中で略記されているNA はノルアドレナリン、5-HTはセロトニン、DA はドーパミンを示します。ACh 神経系、コリン作動性神経系はアセチルコリン作動性神経系を示します。Glu は脳神経の伝達物質の中心であるグルタミン酸を示しています。
ノルアドレナリン系とセロトニン系は目覚めている覚醒時に盛んに活動して、深い睡眠である徐波睡眠時には活動が少なくなり、夢を見ているレム睡眠期には活動が完全に停止します。ドーパミン系は覚醒時と睡眠時の変化は微少です。アセチルコリン系には覚醒時と睡眠時に異なる作動を呈する2タイプの神経細胞が含まれ、後ほど詳しく解説する脳弓周囲核から分泌されるオレキシンと協調して睡眠と覚醒の切り替え(スイッチング)に関わっていることが推測されています。夢を見ているレム睡眠時にはノルアドレナリン系とセロトニン系の活動が停止して、ドーパミン系と脳幹と前脳基底核のアセチルコリン系の一部だけが活動しています。視床皮質ニューロンの伝達物質はグルタミン酸です。それぞれの神経伝達物質の生理作用と脳神経システムでの役割については順を追って解説することにして、今回はその全体像を簡単に説明いたしました。
本稿の作成には、有田秀穂著「脳内物質のシステム神経生理学」(中外医学社刊 2006年)より多くの図版と文章を引用させていただきました。転載に快諾をいただけた有田秀穂先生と中外医学社に感謝と敬意を表します。