フロイト、ピアジェ等の偉大な先駆者が子どもの発達段階について提唱して以来、多くの研究者が子どもの心(精神機能)は段階的に発達するというモデルを発表してきました。私自身も『心のカルテ』ではこのような発達段階の存在を前提に子どもの心について考察と記述を行い、実際の治療現場においても発達段階の退行現象とか再発達などという考え方を基に子どもの心を開かせる努力をしていました。発達心理学の理論には確かに納得できる点が多くあり、治療現場でも応用できる理論が存在することも認めますが、最近になって私は「本当は子どもの心には発達段階なんて存在しないんじゃないか?」と懐疑的な目で「発達心理学」を眺めるようになりました。子どもの心が階段を一段一段登るように発達していき、その途中で発達が障害されると、心の発育が止まったり、遅れたりする。このような障害を発見した場合には、治療者は子どもがつまずきを経験した発達段階まで一旦退行現象で戻り、そこからつまずきを克服して再発達させることで治療が進むと、私も信じていましたので、『心のカルテ』ではそのような理論を基本に論説を展開していました。でも子どもの発達段階という考え方は、大人の研究者の視点で見るとそのようにも見えると言うだけで、本当は子どもの脳や心の中に「階段」が存在するわけではなく、毎日の連続的でゆっくりとした漸進的な発育が、ある日突然何らかの発達という結果を生むように見えるだけなのではないか言うのが、この節でこれから私が述べようとする意見の主旨であります。
多くの子どもの発達モデルを述べた著述では、例えば発達心理学の始祖とも呼べるピアジェの観察では①生得的な反射のみの段階②自発運動を繰り返す段階(第1次循環反応)③他物への働きかけを繰り返す段階(第2次循環反応)④循環反応を組み合わせて隠れたものを見つけるなどより高等な行為の見られる段階⑤試行錯誤から因果関係を見つける段階(第3次循環反応)⑥象徴的表象の発生する感覚運動の完成段階(2歳頃)と乳幼児期を分類するように、ある段階を基礎として次の段階が生まれ育っていくと言う考え方が主流のようです。ピアジェの理論を理解するために私が最も良い教科書の一つだとお勧めするのは、中垣啓先生の『ピアジェに学ぶ認知発達の科学』です。この著作から出版社と中垣先生のご厚意でピアジェの提唱した子どもの発達段階を表す図表を転載させていただきましたので、下記に表示いたします。
図表に提示したピアジェの発達段階は、数量的な概念発達を基に子どもの心がどのように成長するかを実に良く説明したモデルだと思います。しかし、私は先ほども書きましたように、子どもの心の中には実際には階段のような発達が生得的にセットされているのではなく、(ピアジェは生得的という考え方を肯定的には考えていないので、この時点から私の考え方はピアジェの理論を離れることになるのですが)ヒトの子どもの心の発達の源流は実は哺乳類としての成長、すなわち巣の中での育てられる存在から成長して自立し、やがては巣立ってゆく成長全体の中に見つけることが出来るのではないかと考えているのです。私たちはヒトである前に哺乳類であります。哺乳類の新生児は巣の中で生まれて、泣き声を上げて母親を呼び、母親の乳を飲んで育ちます。そして少し動けるようになると巣の外の世界をうかがい見始めます。しかし外の世界は敵だらけで危険がいっぱいです。母親も簡単には幼児が外に出ることを許さずに、直ぐに巣の中に連れ戻します。そして子どもがある程度成長して危険を学習して自分の力で危険を乗り越えて生きられるようになるまで、巣の中と外の世界との行ったり来たりを繰り返しています。それは巣から10センチ離れてはまた戻り、今度は15センチ離れてはまた戻り......そんな毎日の繰り返しの中から、あるとき急に巣が見えない場所まで離れたりするのです。この場合も1回成功したから次回から大丈夫とは言えず、同じ場所への行ったり来たりを何度も繰り返すのです。私はこのような哺乳類の行動範囲の拡大の歴史が心の発達と同じであると考えるようになりました。ヒトの高等な精神発達をネズミなどの哺乳動物の行動と結びつけることには異論があるかも知れませんが、私はヒトが心を持つようになったのは長い進化の歴史の賜物だと考える立場をとっています。そしてこの考え方は実は全く私の我流ではなく、精神の発達を感覚運動発達の内化現象として捉えるピアジェの理論に再び戻る結果にもなるのです。
私の理論での子どもの発達の進み方は、ある段階を基礎として次の段階が生まれるのではなく、子どもは気まぐれ(恣意的)かつ連続的に同じ場所を行ったり来たりしているうちに、あるとき急に、今までと違った行為を行なう羽目になり、成功すれば成功を学習するが失敗すれば恐れを学習するという、遠くに行きたいという本能的な欲求と自分を見失う恐怖の間で常に迷っているのではないかと考えています。子どもの発達というものは、遺伝子に組み込まれた上昇への運動エネルギーが、子どもに対して目標に向かって何度も跳躍するように命ずるために起こるように私には思えます。それは生命の基本である遺伝子というものが自己複製をするという命題を持つ限り、生命は常に進歩する運命に置かれているという唯物論的進化論が基礎になっています。子どもの発達は階段を一段一段登るように真っ直ぐに成長するのではなく、喩えれば気まぐれなカエルが柳の枝に飛びつくように、何度も掴まえては振り落とされながら、恣意的な努力の結果として最終的により上の段階に登って行くのだと私はイメージしています。つまり発達段階のモデルは大人が考えた理論上のモデルであり、そのような見方も出来ると言うことで、子どもの発達を理解する上での一つの視点にすぎないと私には思えるのです。
私が長年にわたり疑問に思い不満を覚えていたことは、発達心理学という学問の中には、「心」がどこでどのように生まれ、脳という臓器の中でどのように働いているかという根本的なことは哲学者にでも考えさせておこうとひとまず棚上げして、現象面の実験的観察のみに注意を向ける傾向があった、あるいは心は既に存在するものとして心の本質には議論を進めずに、心を扱った実験を繰り返してデータで実証したと結論していることにあります。そのことの背景には、科学的理論には実験等で検証する事が可能でなければ誰にも相手にされず、神話かお伽噺のようなものだと見なされる、『実証のドグマ』が存在するからだと思います。しかし心理という現象がどのように生まれて機能しているかを棚上げしたまま、心理の動物実験データを積み重ねたり、発達を外面的にだけ観察してモデル化しても、心の機能の真理には到達できないと私には思えるのです。心の発達を哺乳類が巣から外へと出てゆく「身体としての行動を精神的に体験すること」として位置づけることは、「心=精神」を脳神経回路の機能の結果として観察すること(脳科学)に大きく引き寄せます。
図表に示したピアジェの理論は実験に基づいて体系化された理論ですが、実験結果の解釈に関してはピアジェの独創的な考え方が多大に反映されています。無意識の葛藤を提唱したフロイトの理論は実験では確かめることが出来ませんが、精神医学に多大な足跡を残しました。子どもの発達という多層構造で複雑な問題を考えるときに、実験可能なモデルだけを追い続けても小さな心の動きを捉えることに終始して、子どもの心の全体像を俯瞰出来ないように私には危惧されます。逆に実験に基づいた理論でも、解釈の段階で神話の生まれる余地をなくすことも難しいと感じます。私の提唱が、今後の発達心理学の中でヒトの心を観察する新しい方法を生むために役立つことを願い、今回は心理科学の現状に批判的な意見を敢えて提唱いたしました。
図表のご提供を頂けた北大路書房と中垣啓先生に感謝いたします。ピアジェの発達段階の図表をご提供いただいた中垣啓先生の研究室はこちらです。