
顔の筋肉を動かす顔面神経の経路は、顔の上半分と顔の下半分で異なっています。例えば左側の顔面の下半分にある、唇の周囲の筋肉を動かすときには、大脳の右側の運動皮質から筋肉を動かす指令が出て、反対側の左の顔面神経核に指示が伝達されます。唇を右と左に交互に引き動かしたり、頬の右と左を交互に膨らませてみせるときには、それぞれ反対側の大脳皮質から指示が出てその筋肉を動かしていることになります。この動作は鏡を見て練習しなくても比較的簡単に誰にでもできます。ところが、顔の上半分にある眉毛を上げたり下げたりする筋肉は、上の図版に描いた黄色の経路のように、右脳にある運動皮質と左脳にある運動皮質との両方からの指令が同時に顔面神経核に指示を送ります。これは右側の顔面神経核でも左側の顔面神経核でも同じです。この神経経路のおかげで、人は意識しなくても左右同時にまばたきをする事ができるのです。その代わりにウインクしたり、左右の眉毛を別々に動かしたりするのは特別に意識したり、鏡を見ながら練習しておかないと、いきなり上手には出来ないのです。これは脳の左右を別々に使うことが人間にはとても難しいということに関連があります。
顔面神経核を出発した顔の筋肉を動かす指令は、第7番目の脳神経として内耳孔という細い穴から顔面神経管というトンネルに入って側頭骨を貫通します。顔面に出るとすぐに耳下腺の中を交叉しあいながら通過して、それぞれの筋肉に到達します。内耳孔から顔面神経管を通過する途中で顔面神経が障害を受けると、顔の片側の上下両方が動かなくなり、まばたきも出来なくなります。このような顔面神経の片麻痺がチャールズ・ベルが報告したベル麻痺なのです。彼の偉業は沢山ありますが、表情を作る神経についての医学的かつ芸術的な著作である、The Anatomy and Philosophy of Expression が医学書院から『チャールズ・ベル 表情を解剖する』(岡本保訳 2001年)として出版されています。表情と顔面神経の関係、さらには芸術作品に見られる表情について詳細な記述がありますので、ご興味のある方には一読をお勧めいたします。
この節では、まばたきとウインクとベル麻痺の例を挙げながら、顔面神経が顔の上半分と下半分で支配のシステムが違っていることを解説しました。チャールズ・ベルは呼吸系神経論"On the Nerves of Respiration"という論文の中で、ヒトの神経を脊髄神経と三叉神経からなる原始的で、移動、把握、咀嚼に関与する第1群と、呼吸器官と連絡して、発声、言語と表情に関与する第2群と、交感神経系の第3群に分けて考えています。この呼吸に関する神経群は無意識に動くと同時に、意図的に動かすことも出来る筋肉群で、日本の呼吸生理学の専門家である有田秀穂先生(東邦大学医学部統合生理学教授)はセロトニンと呼吸筋群との関係について、座禅が精神に作用する機序に言及する著作を展開しておられます。有田先生のご研究については後ほど詳しく触れることになりますので、この節ではサー・チャールズ・ベルと有田秀穂を結ぶ呼吸系神経論についてその名をあげるにとどめます。
今後も、なるべく分かり易く脳と神経の詳細な説明をしていきたいと思っておりますので、読者の皆さまどうぞお付き合いください。