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13. 永遠の十九歳

要旨:

精神科医オリバー・サックスは、「妻を帽子と間違えた男」から第2話の『ただよう船乗り』で、アルコールの取り過ぎが原因で起こったコルサコフ症候群と呼ばれる疾病で、ビタミンB1の不足等のために乳頭体変性が起こり、記憶が作れなくなってしまったジミーという男を紹介している。大笑いすると、その少し前にあった嫌な事件や、その前に何をしようと思っていたかを忘れたりした経験はないだろうか。激しく笑うと乳頭体のすぐ近くで脳の中を大きな電流が流れるので、笑うことには何かを忘れさせる効果があるようである。記憶の形成に重要な役割を担う、乳頭体付近が深く関係していると思われる。
前回は、視床下部過誤腫という病気を取り上げて、私が考えている脳内の笑いの中枢が視床下部後方の乳頭体付近に有るのではないかという見解を書きました。この節では、乳頭体の働きについて、以前も紹介しましたオリバー・サックスの「妻を帽子と間違えた男」(高見幸郎・金沢泰子訳 晶文社刊)から第2話の『ただよう船乗り』の例を取り上げて最近の知見を少し交えて、記憶と乳頭体の関連性を解説します。

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『ただよう船乗り』に著された主人公の患者ジミーは魅力的で頭がよくて整った顔立ちをした49才の男性でした。ジミーは自分の生まれた町のこと、両親の住んでいた家のこと、学校や学生時代のこと、数学と科学が得意で17才で海軍に入ったこと、潜水艦の副通信士として勤務したこと、そしてモールス信号の打ち方まで克明に話すことが出来ました。彼は海軍で乗り込んだ潜水艦の名前は全部覚えていたし、それぞれの任務や、配属された場所や、仲間の乗組員の名前も記憶していて、克明かつ詳細に話すのですが、どうしたわけか、そこで彼の回想はストップしていて、その続きは全てを現在形で話すのです。(英語では過去形と現在形が文法上はっきりと区別できます)突然、オリバー・サックスの脳裏にある疑問が起こり、こう尋ねました。

 『ところでジミー、君は何歳になるの?』ジミーはためらい、自信なげに勘定してこう答えました。『えーと、19歳じゃないかな。今度の誕生日で20歳になるところです』なんと!ジミーの記憶は19歳で止まったままだったのでした。しかも一旦席を外したオリバーが2分後に戻ってくると、彼はまるで初対面のようにこう言うのです。『やあ、先生。おはようございます。私に話があるんでしょう?ここの椅子に腰掛けても良いですか?』

知能テストをしてみると、ジミーは頭の回転が速く、観察力が優れ、論理的で、難関な問題もスラスラと解いてしまう。しかし長い時間のかかる問題だと途中でやっていることを忘れてしまう。三目並べやチェッカーという勝負の早いゲームではオリバーを負かすほど強いのだが、チェスだと駒の動きが遅すぎるので出来なくなる。彼は何を言っても見せられても、数分後にはもう忘れているのでした。ジミーの科学的知識は、優秀な理系の高校卒業生に十分匹敵するもので、算術的計算能力は抜群に優れていました。ただし瞬時にやってのける計算の場合はそうなのであって、多くの過程を必要としたり、多くの時間がかかるようなものになると、今どこをやっているのか分からなくなり、問題さえも忘れてしまうのでした。元素の周期律表も書くことが出来ましたが、ウラニウムから先は知らず、元素は全部で92個だと主張します。太陽系の惑星の名前も全部覚えていて、太陽からの距離や質量も全部言える彼が、宇宙から撮った地球の写真を見せられると理解できない。ジミーの記憶は1945年の辺りを境にプッツリと途絶えていたのです。

ジミーの病気はアルコールの取り過ぎが原因で起こったコルサコフ症候群と呼ばれる疾病で、ビタミンB1の不足等のために乳頭体変性が起こり、記憶が作れなくなってしまっていたのです。脳の中で記憶に関する重要な役割を担っているのは上の図版にもある海馬という場所です。私が大学生の頃は「(1) 成体の脳では神経細胞は新生しない、(2) 脳が損傷した場合、ニューロンが新生して機能を回復することはない、(3) 学習や記憶の成立過程では、ニューロンが新生することはなく、既存の神経細胞のシナプス結合が変化する。」と教えられたものでしたが、海馬にある歯状回の中では脳の神経細胞(ニューロン)が新しく生まれて、それが記憶の形成に重要であるとの知見が蓄積されつつあります。海馬の構造と機能については、子どもの学習のあり方にも関係することですので、後ほど詳しく触れますが、乳頭体から海馬への経路が脳内で記憶の形成に重要な役割を演じていることは、コルサコフ症候群や一酸化炭素中毒、あるいは夜間の無呼吸発作症候群で乳頭体の変性萎縮が起こると記憶に障害が起こることから分かっています。

さて、皆さんはお腹の皮がよじれるほど大笑いすると、その少し前にあった嫌な事件や、その前に何をしようと思っていたかを忘れたりした経験はありませんか?激しく笑うと乳頭体のすぐ近くで脳の中を大きな電流が流れるので、笑うことには何かを忘れさせる効果があるようです。毎日を笑って過ごせるのは本当に幸せなことですね。だからといって、人生の経験を全て忘れてジミーのように永遠の十九歳でいることには、幸せなような、幸せでないような、複雑な気持ちがいたします。オリバー・サックスはそんなジミーが礼拝堂でひざまずき、一心に祈る姿を見たときの感動を次のように記述しています。

 『彼の心は、ミサの精神とぴったり一体になっていた。緊張と静穏。まさに一心不乱といった態度で彼は入ってきて、聖体拝領にあずかったのだった。あるひとつの感情だけに彼は支えられて、それにすべてを傾注していた。そこにはもはや、記憶喪失もなければ、コルサコフ症候群もなかった。そんなものの存在を思いつくことすらできないくらいだった。もはや彼は、うまく動かないメカニズムの犠牲者などではなかった。健忘や記憶の不連続がいったいどうだというのか?いまや彼は、あるひとつの行為に全存在をかたむけ、それに没頭していた。ものに感情と意味を与えるところの有機的な統一がすき間ひとつ割れ目ひとつない連続が、そこに達成されていた』

人にとって笑うだけが人生の幸せではないようです。笑うことは記憶の形成に重要な役割を担う、乳頭体付近が深く関係していると思われます。笑いが何かを忘れさせる効果については、また後ほど詳しく取り上げることになります。

筆者プロフィール
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林 隆博 (西焼津こどもクリニック 院長)

1960年大阪に客家人の子で日本人として生まれ、幼少時は母方姓の今城を名乗る。父の帰化と共に林の姓を与えられ、林隆博となった。中国語圏では「リン・ロンポー」と呼ばれアルファベット語圏では「Leonpold Lin」と自己紹介している。仏教家の父に得道を与えられたが、母の意見でカトリックの中学校に入学し二重宗教を経験する。1978年大阪星光学院高校卒業。1984年国立鳥取大学医学部卒業、東京大学医学部付属病院小児科に入局し小林登教授の下で小児科学の研修を受ける。専門は子供のアレルギーと心理発達。1985年妻貴子と結婚。1990年西焼津こどもクリニック開設。男児2人女児2人の4児の父。著書『心のカルテ』1991年メディサイエンス社刊。2007年アトピー性皮膚炎の予防にビフィズス菌とアシドフィルス菌の菌体を用いる特許を取得。2008年より文芸活動を再開する。
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