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論文・レポート

Essay・Report

第二言語の習得における文化の影響

ユディット・ヒダシ (ブダペスト商科大学国際経営学部 教授(学部長))

2007年3月 2日掲載

要旨:

言語教育と言語習得の問題は (特に英語に関して) 日本の公教育や職業訓練プログラムで長きにわたり取り上げられてきた。ELT (English Language Teaching) と ELL (English Language Learning) は、日本では教師と生徒どちらにとっても依然として大きな壁である。英語が母語の英語教師が、自分の(デジタル)コミュニケーション戦略を適用して教室で務めを果たそうとし、結果的に、学習者に今まで馴染んできたものとは異なる学習戦略を適用するよう求める限り、(アナログ)学習者の力の大幅な向上は期待できない。日本人学習者を対象とする外国語を母語とする教師には、日本のコミュニケーションと指導法・学習戦略についてもっと深く学ぶことを強く勧める。

1.序


言語教育と言語習得の問題は (特に英語に関して) 日本の公教育や職業訓練プログラムで長きにわたり取り上げられてきた。英語が話せる人間の数はある程度増えたものの、ELT (English Language Teaching) と ELL (English Language Learning) は、日本では教師と生徒どちらにとっても依然として大きな壁であり、産業界や国際機関にも深刻な懸念を生んでいる。

 

一方、日本語の習得は、英語を母語とする者にとってインド・ヨーロッパ語 (スペイン語、フランス語、ドイツ語等) 程度の難しさの外国語を学ぶ場合に比べて極めて難しい。したがって、日本語を母語とする人は英語の習得に格闘する一方で、英語が母語の人は日本語習得に苦しむという構造があり、両者にとって、2つの言語の類型的な差異を原因とする実際の苦労は、想像の範囲をはるかに超えている。

この理由は多岐に渡っているが、様々な問題点の中でしばしば無視されてきたのは、コミュニケーション戦略における教える側と習う側との文化の違いにあると言えそうだ。コミュニケーション戦略と指導・学習戦略は、いずれも生まれ育った文化の一部として子ども時代に身に着いたものであるが、両者間には強い相互依存性があると考えられる。

英語を母語とする教師が、教室で自分の (デジタル) コミュニケーション戦略を適用したり、学習者に今まで慣れ親しんできたものと異なる学習戦略に従うことを要求したりして教える限り、(アナログ)学習者のパフォーマンスの大幅な向上は期待できない。なぜなら、学習者のエネルギーは、新しい戦略の理解と習得に費やされるので、言語学習のみに取り組む場合よりもたくさん使われてしまうからだ。逆に、日本人教師が、日本語を教える授業で自分の(アナログ)戦略を適用し、学習者が慣れ親しんでいる戦略(デジタル)と異なる戦略に沿うように要求する場合、(デジタル) 学習者のパフォーマンスの大きな進歩は望めない。学習者のエネルギーはアナログなアプローチ法自体に対処し、その方法を理解する事に使い果たされているからだ。

したがって、指導戦略と学習戦略とのより良い整合を図るためには、日本人教師が日本人学習者に英語を教え、英語を母語とする教師が同じく英語を母語とする学習者に日本語を教えるべきである。これは全て、学習者と文化的背景を異にする教師の「コミュニケーションの方法」(同時に「指導の方法」)に文化的な適応を果たすために学習者が時間を費やす過程を避けるためである。しかしながら、ヨーロッパ語(英語も含む)の多くは本来デジタルだと見なされる一方、日本語はアナログな言語と見なされているという事実によって、指導・学習問題はさらに複雑化している(Hayashi and Jolly, 2002)。したがって、指導・学習の観点から、日本語のように特にアナログな言語は、デジタルな方法よりアナログな方法で取り組んだ方がより効果的に習得できるのか?という問いが生まれる。逆もまた同様に、効果を鑑みると、英語 - とびぬけてデジタルな言語 - はデジタルな方法で教えられるべきであろうか。英語がアナログな方法で教えられるならどうなるだろうか。第3の問題は言語使用に関するものだ。日本語の使用は、圧倒的に文脈重視の使い方がなされ、実際、類推的な使用がなされる場合に最大の強みを発揮する。これはデジタルな方法で使用される可能性を排除するというものではないが、もしそのように使われると、無神経で無作法、配慮のない言語になってしまう。英語は (この点では多くのヨーロッパ言語は) たいていデジタルな使い方がなされる。つまり、配慮より効率性に、間接性より直接性に、遠まわしな言い方より率直な言い方に重きが置かれている。英語がアナログな方法で使われないというわけではない。しかし、そのように使われると、奇妙に聞こえてしまうのだ。

これらの問題点は、共通分母であるいわゆる「文化心性プログラミング」を通してある程度関連し合い絡み合っており、本論文における考察の対象とする。本論文はあらかじめ用意した解決策を提示するのではなく、今後の議論のきっかけとなることを目的とする。

2.日本における英語教育

外国で英語コースに参加する日本人は、自己紹介の場で他の国から来た生徒とわが身を引き比べて残酷な現実し、いたたまれない思いをする。

- 24歳です。タイピストです。イタリアから来ました。英語は2年間勉強しています。
- ギリシャから来ました。税関の係官をしています。英語を3年勉強しています。
- 日本のX大学の卒業生です。英語を勉強し始めて12年になります。

制度面での英語教育の効率の低さは、日本がこの問題に何十年も向き合い、果てしない労力をその解決に注いでいる事実からもわかる。結果は満足のいくものからほど遠く、国際比較において外国語以外の全ての科目で日本人生徒の示す総合的な点の高さから見ると、説明しがたいものだ。国際比較データを調べるうちに途方にくれる人もいる。そのデータとは、過去数十年間日本は4つの言語スキル (リスニング、文法、語彙、リーディング) のいずれも最後尾あるいは最後から二番目につけているというものだ(NKSh 1990/1/14)。JETプログラムの導入が分岐点となることが期待されていたが、10年後の調査で、諸外国との比較においてやはり失敗に終わっている。北朝鮮と共に、平均点で24ヶ国中またしても最下位だったのだ(NKSh, 1999/12/3)。これにはどのような説明がつくだろうか。

役所関係もビジネス界も、労働力のエンド・ユーザーとして、教育システムを非難し、迅速な変化を要求している。日本で「英語教育産業」に携わる関係者は皆、変化が必要だと口をそろえて主張する。学校は文部科学省に期待し、文部科学省は教師に求める。それに応じて、英語教育を向上させるために、6万人ほどの公立中学および公立高校教師の再研修が計画されている (JT, 2002/5/25/1)。不幸なのは、子どもが大学の入学試験の基準に達するように重い経済的負担を課せられる親だ。日本国籍を持つ英語教師は母語が英語の教師が増えていることによる改善に期待を寄せる。代わって、英語を母語とする教師は、日本人教師の姿勢、教授法、さらに、システム全体が変わることによって、生徒が授業にもっと参加するようになればと期待する。生徒は英語の授業が今よりイライラしなくなり、もっと刺激的なものになればと願っている。実際は何が起きているのだろうか。

間違いなく、程度の差はあれ、効率の悪さに影響している要素がいくつもある。以下に列挙するが、個別に事例をあげればさらに増えるだろう。
1.多人数授業
2.講義形式の授業展開
3.日本人教師の不十分な英語力
4.教師人口の全体的な高齢化
5.日本語と英語の言語類型的な違い
6.英語を母語とする英語教師の頻繁な異動
7.英語を母語とする教師の不足
8.カリキュラムの硬直性
9.面白みのない教科書
10.読み書きを重視した指導方針
11.試験で成果を判断する指導内容
12.生徒の動機の欠如
13.日常生活における異文化間コミュニケーションの機会の欠如
14.日本国内では外国語がわかる実質的な必要性がないこと
15.最初に外国語にふれる時の年齢が高いこと

このリストは重要度順でも実行性難易度順でもない。また、これで全てを網羅しているわけでもない。問題が山積みなのは明白だが、ある要素は組織的な性格があり、また別の要素は教師に罪を着せ、はたまた別の要素はシステムのせいにし、生徒が悪いというものまである。しかし、締めとして一つの要素をあげたい。最も重要かもしれないのに普段議論の中で見過ごされ言及されなかった要素である。つまり、
16.コミュニケーションの行動に現れる心理的プログラミングの違い
上に挙げた要因も重要ではあるが、本論文では紙面の制約のため、全部取り上げることはしない。(Hidasiの以前の論文、1997a、1998、2003aを参考にされたい。)本論文では、英語が母語の教師と英語を外国語として学ぶ日本人学習者(EFL)との間のやり取りにおいて関連がある要素に絞りたい。

3.欧米人にとって外国語としての日本語とは

1.  「言語をわが国の外交官に教えているFIS(アメリカ国務省付属の外交官養成機関)によると、職務上最低限必要な力を身につけるには、0~5の段階で測ると2+の水準までは達する必要がある。(0は全くあるいはほとんど知識がないレベル、5は教養のあるネイティブスピーカーのレベルを指す)。フランス語、スペイン語、ポルトガル語、ドイツ語のような、アメリカ人にとって学ぶのが"簡単な"言語でレベル2+に達するには、500~600時間の指導が必要だ。大学で数学期勉強するのにほぼ等しい。 中国語、日本語、アラビア語等の"難しい"言語でレベル2+に達するには、おそらく800~1000時間を要するだろう。アメリカ政府が、国内の大学に通う学生の中から政府の求める言語レベルに達した者はあまり見つけられないのは明らかだ。」(Domenico Marceri: More Americans ditch the lingual desert, The Japan Times, 2003/11/27/20)

2. 「アメリカ政府も、日本語がいかに難しいかわかっている。フランス語、スペイン語のような分類1の(すなわち簡単な)言語を政府が役人に教えるときは、週30時間25週間、のべ750時間に及ぶ集中学習を課し、課程の終わりには、リーディングとスピーキングで、"Limited Working Proficiency" とされるレベルまで達するよう指導する。アラビア語、中国語、日本語、韓国語等分類4(すなわち極めて習得が困難な言語)に入れられる言語の場合、生徒は週30時間47週間、のべ1410時間の勉強が必要となる。」とJay Rubinは述べる。(Rubin 2001: 17)。Rubinはハーバード大学日本文学の教授で、夏目漱石と村上春樹の翻訳家としても知られている。さらに、「週5時間年間30週、大学のごく標準的な学習速度で学んだ場合、フランス語の場合 "Limited Working Proficiency" に達するだけで大学に5年いなければならないだろう。日本語だと9年4ヶ月必要だ。」(Rubin 2002: 17-8)

3. 1993年に国務省が実施した比較的新しい調査での予測は、アメリカの平均的な言語学習者が直面する非常に厳しい困難の原因を示している。アメリカの言語学習者が外国語として日本語を習得するには、スペイン語の3.5倍の時間と労力がかかる。(Miyagawa: 2003)。すなわち、言語学習者がスペイン語を覚えるのに3年かかるとすれば、同じ人間が外国語として日本語で同じレベルに達するには、優に10年以上かかる可能性があるということだ。1

これらの推定は全て - 最も穏健なものでさえ、問題なのはソシュール派のいう意味での「言語」の相違かつ(または)難しさにだけでなく、習得の過程にもあることを示している。さらに、言語使用 (パロール) の相違も学習者が途方もない努力を強いられる原因となっている(Hidasi, 2003)。問題点の大半は言語の違いによるものより、むしろ、言語による、言語を通じた相互的なやり取りによるものが大きい。

4.教授法の相違

教授法と学習方法はどちらも文化の影響を受ける。1970年代、Jules Henry は55の教授法を挙げたが (1976)、以降その数は明らかに大幅に増えている。一方では、観察、模倣、繰り返し、暗記その他受動的な方法が、日本語の指導・学習の代表的な強みとしてあげられる。他方、行動、問題解決、比較、議論等は能動的な欧米の指導・学習の範疇の考え方により近い。前者が理解以前に全体的な内容の認識と考察に主眼を置くのに対し (高コンテキスト文化)、後者は表面に現れた(ほとんどの場合口頭での)メッセージの集積を重視し (低コンテキスト文化)、すぐに反応が返ってくることを期待する。コミュニケーション行動の種類でいうと、前者は防御型に、後者は攻撃型に近い。


DeKeyser (DeKeyser, 2003) は、指導・学習について「明示的 vs 暗示的」および「帰納的 vs 演繹的」定義の付与を試みている。この考え方は図表化するとわかりやすい。

言語教育・言語学習 演繹的=規則(構造)から具体的な現われへ 帰納的=具体的な現われから全体(としての構造)へ
明示的
指導・学習の意識的な過程
伝統的な文法に基礎を置く教授法 生徒自身に規則を「発見」させる
暗示的
指導・学習の無意識的な過程
(固有の)パラメータを使用 自然な過程の結果としてのインプットから習得

「規則を教える伝統的な指導方法では、学習は演繹的かつ明示的である。生徒が教科書で事例を学んで自分で規則を見つけるよう奨励される場合、学習は帰納的かつ明示的である。子どもが母語の言語能力を獲得する際、言語学習の方法は帰納的かつ暗示的である。これにくらべると、演繹的と暗示的の組み合わせはあいまいだ。しかし、普遍文法におけるパラメータ設定の概念は一つの例として見ることができる。おそらく学習者は、パラメータの設定から、学習している言語がもつ多くの特徴を引き出す。そして、これは無意識のうちに必ず起こる。」(DeKeyser 2003:314-315)


今日、ヨーロッパ諸国のFLTは帰納的かつ明示的な方法が席巻しているが、日本で行われている指導・学習の多くは、帰納的かつ暗示的な方法をとっている。この方法は、言語習得に当てられる時間が無限に与えられていれば、すなわち時間に制約がなければとても良い結果をもたらす。(実際、これは母語の習得と同じだ。通常は、時間に押されることはない。すぐに覚える子どももいれば、時間がかかる子どももいる。しかし、制限時間というものはない。)


しかし、外国語の場合、求められる成績や締切などの制限を受けるのが普通だ。習得にかかる時間を短くする一つの方法は学習過程を「意識した」ものにすることである。注意を喚起することで、余分 - 無駄な時間 - を無くすことができる。その過程がより意識的、系統的、かつ合理的になる。少なくともこれは欧米流の考え方だ。しかし、日本では伝統的に、暗記による情報の保存のような脳の他の能力を使う方法が、外国語学習の中で大きな部分を占めている。他のどんな技能の習得にも言えることだが。これらの記憶の跡が必要とされる瞬間に結集し、作動することが望まれる。しかし、記憶の中に需要にぴたりと合致するものはない場合には、何も作動しない。その場合、コミュニケーションは遅速になるか崩壊し、外国語を学ぶ日本人の側からのコミュニケーション行動は長い沈黙という形で現われる。

5.母語が英語の教師と日本人EFL学習者との教室での交流

「全ての指導・学習状況の土台はコミュニケーションがうまくいっていることである。なぜなら、知識の習得は指導者・生徒間の情報の正確な交換を前提としているからである。」Condonのこの論及 (1982:340) は現在も有効で、おそらく将来もずっと生き続ける不変の真理であろう。しかし、「よいコミュニケーション」とは何を意味するか、また誰によってなされるかという問題が残る。スムーズな、言葉数の多いやり取り、考えの交換、疑念の交換や問題解決法の提供、話し合いや討論のことだろうか。もしそうなら、欧米的な考え方での「よいコミュニケーション」である。しかし、状況が日本に置き換わると話は違ってくる。

日本の指導・学習の相互作用を説明するために、理論構成の枠組みとしてHofstedeの (et als.2002) 文化的側面理論に目を向けたい。5つの次元 (アイデンティティー、ヒエラルキー、真実、ジェンダー、徳) の中で、ジェンダーは、本論文の内容とは何の関係もないため、ここでは4つの次元だけをとりあげる。Hofstedeの分析は、多くの次元において日本はアジア諸国 (東アジアの近隣諸国ですら) と著しく異なると推測する。この推測は、外国語の習得において、日本の成績はこれらの国々と対照的であることの理由をある程度示している。

アイデンティティー  比較文化調査に基づいた最近の研究は、日本人の価値観が、伝統的に西欧文化に根差していた価値観へ明らかに移行していることに気づいている(Matsumoto, 2002を参照)。しかし、経験が示すように、これらの変化は意識のレベルでたどることができる。もっとも、行動のレベルに現われる変化はほとんどない。たとえば、集団主義より個人主義を好む生徒は (Hidasi, 2002a)、実際の状況では集団主義的な行動パターンと関連する特性に従って行動する場合がしばしばある。これは教室の中でよく見られる状況である。生徒は、たとえそうするように促されても、教師の質問に自発的に答えて授業の活性化に貢献しようとはしない。教師から授業で投げかけられた質問は、誰からも答が返ってこないのが普通だ。わからないというより、集団の中で指名されて答えるという嫌な役目を引き受ける生徒がいないのだ。教師と目が合わないようにして、自分一人で協力するのはいやだという信号を発している。仲間から目立つことを意味するからだ。日本文化では、個人の業績より、協力、ひいては集団での成果に重きがおかれているため、社会学・心理学的調査で示されるように、試験の点数と比べると、日本人は自分の行動や態度において競争意識に欠け、コミュニケーションでの主張も控えめだ。

コミュニケーションの形式だけでなく、その機能や抱かれる期待も異なっている。欧米のコミュニケーション場面では、コミュニケーションの主な役割は情報の提示および情報の交換であるのに対し、日本のコミュニケーションでは、この機能は二次的なものにすぎない。コミュニケーションの最も重要な役割は、好ましい人間関係を維持することである。(Hidasi, 1997b) これは「最高の価値は円滑な人間関係とそれを支えるコミュニケーションである。このため、集団に最も溶け込みやすいように、日本人は個人的な好みや都合を犠牲にし、意見を出さず、コミュニケーションの行動を抑制することを厭わない。」という文化的な要請である。

真実  上記の側面は、日本人が不安を避けることに高い価値を置くことと一致する。日本人学生は危険を避け、個人的な好みや自由に考えることにあまり価値を払わない。アメリカ人の学生がこう述べている。「日本人は、集団から外れた考えを持つ危険をおかすくらいなら黙っていることを望む。どのようにすればよいか自信がないときは、行動自体をやめてしまうか、細心の注意を払って集団に迎合しようとする。日本は集団社会であるため、日本人は個人的な行動をするのを恐れる。したがって、正しい答がわからなければ、質問に答えないようにする。自分が参加した授業では、教師が日本人生徒を指名して「どう思いますか」と問いかけるのをよく目にする。たいてい、日本人生徒は恥ずかしそうに下を向き目を合わせないようにしながらノートを繰って「正しい答」を探そうとする。教師はありとあらゆる方法で質問をしなければならず、最後には間違った答はないと伝えざるをえなくなる。生徒はようやく答えることになったとしても、あいまいな答を言うのみだ。」(E.C. 2年生の学期レポート)。生徒は、討論のような場面であらかじめきまった答のない問題に直面すると、意見を述べたがらない。「失業についてどう思いますか。」「外国で勉強することの利点は何ですか。」危険を避けるため、答は独自の答えを出すのではなく、たいてい一般的 (しばしば義務的に暗記した『既成服』的な文)にとどまる。したがって多くの自国語の教師が最終的に、「Xは意見がない。」や「スピーキング力は極めて低い」「自分の要求を表現することができない」等といった評価を下す。

ヒエラルキー  権威者、すなわち教師の言葉や発言は疑問を投げかけられることも批判されることもない。彼らの真理値は当然のものと受け取られ、そのように扱われる。生徒より高い位置にいることで教師の語調が決まり、生徒は質問しようとはせず、理解できないことがあっても詳しい説明を求めようともしない。教師と生徒は言葉の真の意味では交流することはない。つまり、コミュニケーションはあまり相互的ではなく、むしろ教師から生徒に向けて発信され一方通行である。生徒は、活発にかつ自発的にコミュニケーションをとる努力を払わない。もし何らかの反応をするとしても、促されて初めてそうするのだ。同じだけ関与してコミュニケーションの流れに入ることはない。そうする権利があるとは思っていないからだ。やりとりの中での受身的な態度は別の視点からとらえることができる。日本的な枠組みの中では尊敬の表れが、欧米的な枠組みでは無関心の表れとなる。実際、このことはしばしば英語を母語とする教師による感想として述べられている(Komisarov 2002 を参照)。

美徳  欧米文化出身の人々の短期志向の考え方に対し、たいていの日本人は長期志向を特色とする。コミュニケーションでも、コミュニケーションの流れの方向、扱う時間、その効力に関し、その全てはからみ合いながら表面に現われる。たいていの欧米文化に特徴的な話し手志向のコミュニケーションパターン (SOCP) とは対照的に、日本人はいつも聞き手志向のコミュニケーションパターン (HOCP) をとる。SOCPは攻撃的なコミュニケーション様式を使い、メッセージははっきりと述べられ、メッセージ伝達の責任は主に話し手が責任を負う。英語が母語の教師は、責任を感じてしばしば生徒に向かって質問する。「わかりましたか」「質問や意見、コメントはありますか。」日本人の教室では概して、誰も手をあげない。理由として、まず、「ヒエラルキー」次元が機能していることがあげられる。別の理由、すなわち戦略の違いもある。聞く側、教師と学習者という設定の場合生徒は、理解するまで聞く。そして、押し付けられるのを嫌う。実際、日本人の生徒は英語の教室で常に促されることにいらいらする。防衛型の日本のコミュニケーションでは、理解は主に聞き手の意味特定能力に委ねられる。聞き手は相手を促したり、はっきりさせるために質問責めにしたりする必要性も権利も感じない。そうすることは失礼になると思われている。遅かれ早かれ、文脈全体に耳を傾けて言わんとするところを掴もうと全力を尽くす。日本人のコミュニケーションの伝統は相手への配慮と礼儀に重きを置くため、Griceの協力原理 (1975) は、実際のところ(「不明瞭な表現を避けなさい」、「あいまいさを避けなさい」「簡潔に」「関連づけて」等に対する)違反が日常的に見られる。正確に言うと、これらとは異なるコミュニケーションパターンに基づいている!要求、依頼、願望、拒否、主張、批判などの直接的で率直な表現が日本語のコミュニケーション行動では失礼だと見られ、あいまい、沈黙、自分自身をぼんやりと不明確に表現することは、コミュニケーションを成功させるための障害とは見られていない。したがって、日本人の観点から見ると、協力原理の違反には全くあたらない。なぜなら、遠まわしの表現やあいまいさはコミュニケーション行動の要件に反しないからである(Hidasi 1997b)。 この目的で使われるコミュニケーション手段 (回避、省略、沈黙、躊躇、話題提供しないこと、無関係な話題、等)の多くは相手の顔を立てるための戦略として機能する。すなわち、コミュニケーションにおける直接的な衝突や争いを避けることで話し手も聞き手も逃げ場のない袋小路に追い込まれてしまうことがなくなる。面子を保ちたいという願望が、入念ではぐらかすようなコミュニケーション戦術を構築する一番の理由である。「私の日本人生徒は、英語の授業でコミュニケーションをとるのではなくある種の行動をとっている」

無理解の別の面は、決断にかける時間が英語を話す文化圏より日本ではずっと長いという事実に起因する。教師は、しかるべきためらいの後、答が返ってくるまで長い間待たなくてはならないことがしばしばある。これはコミュニケーションの流れや指導の動きを遅らせる。迅速な反応をすることの遅れはコミュニケーションの効率性に影響を与える。コミュニケーションの効率性は欧米的な (短期間の) 考え方で2つのことを意味する。メッセージ伝達の正確さの面と、時間の効率化の面である。このようなコミュニケーションの効率性の解釈は、日本人生徒にとって大きな不利となる。なぜなら、このどちらも自国のコミュニケーションでは必要とされていないからである。つまり、生徒は欧米のコミュニケーション行動の要請にしたがって行動するように英語が母語の教師に期待されている。その場合、実際、幼い子ども時代から習得し練習してきたものが異なるパターンをたどることになる。

日本人のコミュニケーションパターンの特徴は日本人同士の内輪の世界ではうまく機能する。問題が生じるのは、同じコミュニケーション戦略が、外国人との、および/あるいは外国語を使ったコミュニケーションに転用される場合だ。これはしばしば誤解やとまどい、欲求不満を招く。

6.精神的なプログラミングの差異

コミュニケーション行動、コミュニケーションの型、コミュニケーションスタイルそれぞれにおける違いは、アナログ対デジタル視点というパラダイムにおける違いに起因する可能性がある。パラダイムにおける差異は、実際、知覚、情報処理、情報保存、記憶の管理・再生・生産といったあらゆるレベルの人間の行動に現われる。「人のアナログな性質は、観察者と被観察者の間と同様、図と地の間に境目のない、連続した全体的な現実認識からなる。また、高コンテキストで主観的、あいまいな非言語的コミュニケーションからなる。さらに、暗黙の社会システムからなる。」(Hayashi-Jolley, 2002:180) 大部分の日本人はこのカテゴリーに入る。「対照的に、人のデジタルな性質は、観察者と被観察者との間と同様、図と地の間の定義づけられた境目のある、分析的な現実認識からなる。また、低コンテキスト的な、客観的で言葉によるコミュニケーションからなる。さらに、明示的な明文化された社会システムからなる。」(Hayashi-Jolley 2002:180) 欧米文化を背景に持つ人々の大部分、ひいては英語を母語とする英語教師の大部分がこのカテゴリーに入る。

コミュニケーションも、アナログ、デジタル的態度によって支配される。結果、コミュニケーション行動に違いが生まれる。アナログ思考、デジタル思考の違いは、指示の出し方、ある現象の描写・説明・詳細説明、情報の提示、議論や論争の展開、意味の調整 - すなわちコミュニケーションそのもの - の際にもっとも顕著に現われる。この理論を日本中の英語の授業で見られるような指導・学習過程や練習に適用してみると、問題の核心は、日本人生徒と英語を母語とする教師の精神的プログラミングの違いに起因する可能性があるとの結論を下す人もいるかもしれない。日本人生徒がアナログ的な世界観を持っているのに対し(なぜなら、そのようにして人とつきあってきたため)、母語が英語の教師はデジタル的世界観を持っている。というのも、その世界観で世界を見たり理解したりするようになったからだ。欧米の精神的プログラミングは、プラトン、アリストテレス、ソクラテスといった古代ギリシャの思想家によって最初に開発された知覚のソフトウェアに続くものだ。対話はソクラテスの教授法の真髄である。すなわち、問われていることの意味を理解し、適切な時間内に可能な限り効果的な方法で答える必要があるというものだ。この場面はしばしば質問・回答というやり取りでなされる。人々は、対話の技術には日常生活で慣れ、修辞術 (聴衆を説得する技術) は公共の場で鍛えられる。一方、日本では、儒教的なモデルが機能している。教師、すなわち外からの権威は、助言を与える際、しばしば修辞的な質問を使う。生徒は、教師が自分で出した質問に答えてくれることを期待する。教師は英知で答える。自分の専門の英知を生徒に伝える。教師は新しいことを生み出すより、知識を「喚起する」ロールモデル的な役割を果たす(Scolon 1999参照)。結果、教師、生徒間の相互関係の型は、本質的に欧米型と異なる。相互的な対話を通じて理解を深めるより、伝達された知識を忠実に観察し、模倣することによる刺激により内部で理解が深められるよう期待されている。

「言語を理解することは本質的に社会と密接に関わりあったプロセスである。・・・より広い文化的・認知的プロセスとも結びついている」(Foley & Thompson 2003:62)。英語や欧米語の学習そのものはデジタル的に処理され使用される、とHayashiとJolleyは指摘する。(2002:185-188)。しかし、日本人はアナログ的な要素が優勢な言語習得に馴染んでいる。英語が母語の英語教師は、当然のことながら、生徒に自分のデジタル型の言語処理および言語指導に従うことを要求する。しかし、ほとんどがアナログ型の日本人が学習者の場合、生徒は、外国(デジタル)語としての英語だけではなく、違った教授法、すなわちデジタル的な教師の方法を理解し、従うことに取り組まなければならない(Hidasi: 2003)。方針が違っていて、そのために異なるコミュニケーションスタイルをとる人々が出会うと、問題が発生しやすくなる。実際そうなっている。

7.「文化プログラミングギャップ」をどのように克服するか

英語が母語の英語教師が、自分の(デジタル)コミュニケーション戦略を適用して教室で務めを果たそうとし、結果的に、学習者に今まで馴染んできたものとは異なる学習戦略を適用するよう求める限り、(アナログ)学習者の力の大幅な向上は期待できない。言語学習そのものより、新しい戦略の理解と習得に対処することに、エネルギーが費やされるためである。学習者は、実際、自分たちの知らない「精神のソフトウェア」に従うことが求められる。したがって、生徒の成績は期待値を大幅に下回る。この問題は日本の何千万もの学習者に影響を与えている。学習者個人の出費そして教育行政の予算の両方における実質的な影響は言うまでもない。

PowellとAnderson (1994: 322) が述べるように、「それぞれの文化で教育環境が継承され、教育環境に関する価値観も形成される。」教育環境だけでなく、教育課程全体に関わる価値観が満たされなければ、関係する人々は失望し、不満を抱く。喪失感から混乱が生じる。なぜ、いつものやり方ではいけないのか?しかし、ある特定の場面でうまくいっても異なる場面ではあまり有効ではない場合がありうる。人々の世界観がその学習、理解、生産、交流に及ぼす点について意識が喚起されるべきである。精神プログラミングの違い、またそのために生じるコミュニケーションの違いを無視すれば、有効性が損ねられることにつながりかねない。違いをもっと理解することは誤解から生じる失望感をなくすことに役立つ。したがって、日本人学習者を対象とする外国語を母語とする教師には、日本のコミュニケーションと指導法・学習戦略についてもっと深く学ぶことを強く勧める。

もちろん、逆に、同じことが日本語を母語とする日本語教師にも適用される。欧米の学習者のコミュニケーションとやり取り練習はしばしば日本人教師をいらつかせる。やり取りや言語の使用で見られる生徒の過度な率直さやあまりにあからさまな積極性は、尊敬の念が欠けている、思慮が足りない、洗練されていない、などの印象を教師に与える。また、教師は学習者があまりに要求が多く、攻撃的にすぎると思うことがしばしばある。学習者が「なぜ」を言い続けると、不寛容で、我慢が足りないことの表れとしばしば判断される。コミュニケーションスタイルと言語行動の間の違いについて教師の認識を喚起すれば誤解とステレオタイプ形成を避けることに役立つかもしれない。

外国語の習得とコミュニケーションに関連する問題は国際化およびグローバル化の過程で重要さを増しつつある。さらに、精神プログラミングとリプログラミングの方法と手段を発見するという課題がある。神経学、心理学、社会学、等等、ほかの多くの専門領域の業績を結集し、言語習得における精神的プロセスをよりよく理解することにより、言語教育全体、特に日本の言語教育の効率性が向上することが期待される。


※ 本論文は2004年4月3日東京で開かれた第2回対照言語行動学研究会で発表し、International Business School紀要に掲載された論文の改訂版である。

1 'Limited Working Proficiency'には明確な定義付けがなされている。たとえば、リーディングでは、次のような主旨を持つ。「簡単で、親しめる内容を扱った原典の印刷またはタイプ教材を読んで充分理解できる力。少しの読み間違いはあるものの、複雑でない、親しみやすい、実際の出来事を扱った教材を読むことができるが、テキストの言語的な面から直接推論を引き出すには言語経験が一般に不足している。」(Rubin: 17)

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筆者プロフィール
ユディット・ヒダシ Judit HIDASHI (ブダペスト商科大学国際経営学部 教授(学部長))

2001~2006年、神田外語大学国際コミュニケーション学科の教授を務める。
2006年4月より、ブダペスト商科大学国際経営学部学部長。
専門分野はコミュニケーション、応用言語学、異文化研究。
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