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論文・レポート

Essay・Report

子どものしつけに罰を用いる

エンニオ・シパニ

2006年11月24日掲載

要旨:

子どもの悪い行動を改めさせる手段として罰を用いるのは、物議をかもし出す手段であることに間違いはない。しかし、親や専門家は罰の効果、効果のない罰の与え方を理解することで、もっとうまく子どもの行動を正せる方法を身につけることができる。罰を用いるか用いないかの決断は、子どもをしつけるにあたって、どちらがより効果があるかで厳正に判断されなくてはならない。その判断の中心は、子どもの問題行動を、一番効果的に、道理にかなった方法で改めさせるという目的に沿うものでなくてはならない。

罰としつけ

子どもの悪い行動を改めさせる手段として罰を用いるのは、物議をかもし出す手段であることに間違いはない。罰を用いる方法を擁護する人々も反対する人々も、しばしば科学的根拠が有るような無いような議論に終始する。さらに嘆かわしいことに、このような議論や理論が取り上げられ検討されることはほとんどない。「研究からこういう結果が得られた」、また「こういうことがわかった」と言い合っては、それぞれの立場を正当化するばかりで、その研究の妥当性を客観的に評価することはない。このような研究に立脚する主張が問題にされないのも納得できることである。

この問題のどこがそんなに問題なのだろうか。罰の使用を擁護するとしたら、職業的、個人的評判は疑問視され、専門家としての意見も軽んじられることになる。専門的、指導的な地位にある多くの人が、自分の専門家としての地位や政治的立場が傷つくのをおそれて罰の擁護者に対しずっと異議を唱えてきた。罰の使用を擁護する人々を裁こうと立ち上がった人々の怒りに比べれば、16世紀にガリレオが教皇庁に対峙した裁判も、現在の小額裁判所での裁判であるかのように思えるだろう。その上、親たちは、何かしらの悪い影響を恐れて罰の使用には慎重であるし、他方、専門家は証明もされていない理論的根拠から、そうした罰による影響は受け入れられないばかりか、子どもの発達にとって危険であると訴えている。このような状況から、アメリカの多くの親たちが、子どもの問題行動を変えたいと願っていても、罰による効果からは何も期待できないでいる。

熱狂的なのはどんな種類の罰も違法となるように要求している側だけだ、という印象を私が与えてしまったなら、その印象を正させて欲しい。体罰の支持者もまた頑固で譲ることはない。子どもを育てていて抱く悩みの多くが、学校や家で体罰を用いなくなったことからきているのではないかという考え方が、この国では大きなうねりとなってきている。

しかしながら、罰を効果的に用いる方法について書物や学会などで取り上げられることは極めて珍しい。両陣営からの報復を恐れて、核心に迫ることがない。ロジャー氏(TV Show; Mister Rogers' Neighborhood )よりも厳しい声で、「子どもがルールを破った・・・」などと言ったら、周囲の人に、幼児虐待の傾向があるとささやかれる。約束を破ったからと、罰としてその日の午後のアニメを見るのを禁止したら、一線を越えてしまうことになるのだ。この手の専門家によれば、こうした行為は行き過ぎで子どもの自尊心を破壊してしまい、子どもが大人になってからも残る長期的な精神的ダメージを与えてしまったことになる。彼らは罰を虐待的行為と同等に見なす。そして、罰や罰を使う人に向けた批判を正当化するために、根拠のない理論を拠り所にする。つまり、多くの専門家が児童虐待のケースをメディアで取り上げ、虐待と罰を同レベルで扱う。その結果、すべての罰は禁止されるべきだという結論を導き出す。導きたい命題とは、親が罰を子育てに取り入れ始めたら、彼らは「児童虐待に手を染め始めた」というものだ。

対極をなすのは、厳しい肉体的罰が必要であるというものである。厳しくなければ手ぬるくて、アメリカらしくないというものだ。体罰が盛んであれば学校での銃撃事件の頻発や10代の妊娠、その他の子どもに関連した社会病理はありえないだろうというのが、現代の社会では罰が欠けているという彼らの論拠となっている。育っていく過程で平手を浴びるのがアメリカであると結論付けている。現代社会がどんなにか悪くなってしまったか見てみればいいと言う。

この本を書くのは、自分のしつけの方針に筋をもたせようとあがいている親に基本的な事実を提供しようとする目的である。親や専門家は罰の効果、効果のない罰の与え方を理解することで、もっとうまく子どもの行動を正せる方法を身につけることができると思う。罰を用いるか用いないかの決断は、子どもをしつけるにあたって、どちらがより効果があるかで厳正に判断されなくてはならない。その判断の中心は、子どもの問題行動を、一番効果的に、道理にかなった方法で改めさせるという目的に沿うものでなくてはならない。あなたは子どもにどのように振舞って欲しいか、そのためにはどんな手段が最適であると考えているのか、もしあなたが罰に対して否定的であるならば、罰を全く用いなくても、子どもの態度は改められると考えているのか。私はここで罰を用いてしつける方法の効果を述べたいと思う。子どもの行動セラピーを施してきた20年の経験をもとに罰に対する私の判断についても述べたい。あなたがこうした成果、罰が機能して得られた効果を子どものしつけの戦略として取り込むかどうかは、もちろんあなたの選択しだいである。この記事で、読者が科学的な視点で罰について考えてくれるようになればと願っている。

最初に罰の構成要件について知ってもらうために、遊び場での子どもの乱暴な態度を改めようと用いられた罰の例をあげる。

乱暴な行動を控えるようになってきたプレスクールの男の子の例

ヘッドスタート・プログラム(訳注:経済的に大変な家庭の未就学児童に早期学習環境を用意するとして全米で実施されているプログラム)の午前、午後いずれかの半日クラスに出席している子どもの問題行動について、プログラムの関係者からコンサルタントを頼まれた。依頼がもっとも頻繁にある相談の基本型は、他の子どもに対し乱暴な態度をとる子ども、通常男の子というものだ。

最初に担当したケースもご多分に漏れず、頻繁に乱暴しては周りを困らせる男の子のケースであった。観察から、屋外の自由遊びのときにこの男の子の乱暴を触発していているのは3つの三輪車であることがわかった。外遊びをするように屋外に出されると、子ども達はきまって三輪車をめぐって言い争いや喧嘩をはじめていた。想像に難くないが、3つの三輪車に対し10人の子どもが同時に乗りたがった。そのため三輪車の周りで言い争ったり、他の子を押しのけたりし始めたのだった。それでいて、ひとたび三輪車を占領できると、その子に対抗して三輪車を奪おうとする者はおらず、ずっと乗り続ける。いわゆる「お山の大将」状態である。多分ご察知の通り、私の小さな依頼者は三輪車をとって乗り続けるのがきわめて得意だった。

私の目には、この三輪車をめぐる喧嘩の最中、先生は何も干渉していないように見えた。1人の子どもが先生に近づき、「ビリーは、誰にも三輪車を譲ってくれないの、ずっと乗り続けている。」と不満を伝えたが、先生は、「そうね、スージー、ビリーのところに戻って、自分で何とかできないかやってごらんなさい。」と答えただけだった。スージーはビリーのところに行って、それでどんな結果になったかは、以下の通りに明らかである。スージーがビリーを放っておいたら、ビリーがスージーを引っ叩いて押し倒すこともないだろう。彼から三輪車をとろうとしたら、スージーは横取りする悪い子と見なされ、注意されるだろう。

私は先生にこの喧嘩について何かアドバイスはしたのかと聞いてみた。彼女の答えは、「ここの方針は、子ども達に自分たちの力で問題を解決するように学んでもらうことです。私たちが友人関係の喧嘩や問題を解決してしまったら、子ども達は自制心を発達させることも、自分自身や仲間に対する責任感を学ぶ機会も逸してしまうと思います。」というものだった。遊び場での子ども達の相互関係が、決死の喧嘩となっていることの理由がわかった。建物の正面に掲げられている言葉を私は読み間違えたのだろう。「ヘッドスタート・プログラム」ではなく、ホッケー界の将来のスター・プレーヤーを育てる幼児のためのスパルタ式訓練キャンプに入ってしまったのに違いない。

最初に、先生方に、3台の三輪車が厳しい競争を子ども達に強いており、園庭での子ども達の攻撃的な態度につながっているとわかってもらわなくてはならなかった。次に二つの構成要素からなるプランを立てた。一つ、乱暴な態度をとった子は理由のいかんにかかわらず、罰として3分間決められた場所にとどまっていなくはならない。この間その子どもは園庭のどんな遊具、おもちゃもつかってはいけない。3分間じっと決められた椅子に座っていなければならない(訳注:この種の罰を英語でタイムアウトという)。時間が過ぎたら、遊びに戻って、他の子どもが使っていないおもちゃで遊ぶことができる。乱暴者からこの3分間の間、三輪車を占領してしまう機会を奪ってしまうのだ。

大人による介入の二つ目の要素では、子ども達に、交渉して解決の道をはかるのが皆のために一番いいということを教える。例えば、2人以上の子どもが1台の三輪車に乗りたがったら、1人で、あるいは一緒に先生のところに来て、その窮地を伝えること。三輪車に乗ってもいい時間が平等に分けられることになる。先生は子ども達に、よく言いに来てくれたわねと褒め、タイマーを2分間にセットする。最初の子どもが2分間乗り、タイマーが鳴ったら、降りるようにして、次の子が同じく2分間、乗ってもいいよと座らせる。つまり、乱暴な態度は、タイムアウトとなって、その分三輪車に乗る機会がなくなってしまうことをわかってもらう。問題を先生の判断にゆだね、暴力に訴えず、交渉による解決をはかることを教える。

想像できると思うが、この介入により乱暴な態度は飛躍的に減った。先生がおもちゃや三輪車が原因の争いについて子ども達がよく自分たちに相談に来るようになったと言ったことも重要である。タイムアウトで、子ども達の衝動的な行動を抑え、受け入れやすい方法を探させたことは興味深い。また、面白いことに、すぐに三輪車に乗りたがっていた多くの子どもが、待つこと、三輪車ほど皆がいっせいに乗りたがらない他の面白いことを見つけること、こうしたことを学んだのも大きな成果だ。人間の営みというのはなんとも面白いものだ。

このような方法で、子どもの乱暴な態度やいけない行動をあらためさせる方法を、一冊の本にまとめた。結果志向の罰を与えて子どもの問題行動を改善することを目的とする。また科学的な研究成果にもとづいた6つの基本原則を紹介している。効果的に罰を用いて子どもの行動を変えようとしている親にとって具体的なガイドラインとなるように構成されている。

こうしたプログラムを構築するにいたった経緯

私は大学で教師たちの訓練プログラムを指導するため1981年カリフォルニアに赴任した。その後、臨床業務に興味を持つに至り、発達障害の子どものいる家族にサービスを提供している業者と契約を結ぶ。それまでも州の施設で発達障害の子ども達を対象に多くの経験を積んできたが、子ども達の家を活動の場とするのは初めての経験であった。行動介入サービス(behavioral intervention service: BIS)という名のユニークなサービスモデルを用いた。私が今まで見てきた家族を支援する他のサービスのどのアプローチとも違っているモデルであり、家族の家、子どもの学校に出向き、その実際の生活の場で、子どもの問題行動を評価するものであった。言い換えれば、家庭内で親をトレーニングするプログラムである。現在でも、依頼者に対するサービスはほぼ例外なく専門家のオフィスで行われるものであることから、精神衛生のプログラムでも特異なものであるといえる。

親も子どもの問題行動に対処でき、改善に直接かかわれるように手法を変えてプランを立てた。続いて、親をトレーニングすることから着手した。このプランは子どもの家、保育園、学校で実施されることを再度認識して欲しい。臨床心理士が家のベルを鳴らすのである。

実際の「戦場」に身を置くことで、普通の精神衛生の専門家が経験できないことを学ぶことができた。身体的な治療では、問題を見極め解決の可能性をあたるのに医師が患者を家で診察する必要はおそらくないであろう。病気を特定するための症状は、子どもが家にいる状態と同様、診察室でも十分観察可能と思われる。しかし、人間の行動に関してはそうはいかない。オフィスから家に帰った家族が実際はどんな様子なのかどう判断できるというのか。自分の知識や想像の域を出ず、大げさであると両親の訴えを真に受けない専門家とは違って、家族が夕食のテーブルにつく時間にいったい何が起きているのか、そうしたことを私は自分の目で実際に見る。「百聞は一見にしかず」この諺、そのままである。そしてこれは文字通り、目を開かせてくれる経験である。困っている親を助けたいと思っている専門家の卵への私のアドバイスは、宿題の時間に自分の足で子どもの家に行き、どんな様子なのか実際に見る、これにつきる。自分で見て初めて、困り果てた親たちが、毎日毎日どんな思いをしているかを理解できるのだ。

家庭でのトレーニングのもう1つの利点は、親に対しその場ですぐに子どものしつけ方について指導できることである。オフィスでイスに座ってどうしたらいいかを説明するよりも、ずっと効果的な取り組みとなる。一つ例を挙げる。当時4歳の子どもがいて破壊的妨害的行為を日常的に繰り返していた。母親に連れられて初めてその家に行き、彼と妹に会ったのだが、その後の1、2時間の様子を見て大変驚かされた。母親から、彼についての基本的なことを聞きながら、ずっと観察していたが、その間、彼が破壊的妨害的な行動をやめたときが一時たりともなかったのだ。妹を叩く、物を床にぶちまける、バタンとドアを思い切り鳴らして外に出る、家から物を投げるなど、乱暴をし続けた。湿った大気をかき集めながらエネルギーを蓄えるハリケーンのように、家の中を走り回っていた。私は見ているだけで疲れてしまって、当時は今よりずっと若かったのだが、その場に座り込んでしまったのだった。

まずは一つの問題に取り組み、その後徐々に他にも手をつけるというのが一番いい方法ではないかと判断した。母親は、彼の「多動」の問題についてそれほど気にしてはいない様子だったので、妹への攻撃が、最優先の介入対象であると考えた。妹を叩いたときは、部屋の隅に行って、タイムアウトをしなければならないという決まりを勧めた。母親は同意したので、タイムアウトの方法を説明して、次の訪問の約束をしてから家を後にした。次の訪問時には、妹を攻撃したら、罰としてタイムアウトを課すことになる。

その作戦実行日、母親が監視をし、妹を攻撃したときのタイムアウトを課すことでどんな効果が期待できるのかを母親に再度説明。彼が妹を叩いたらタイムアウトをとらせるように母親を指導し、見守ったのだが、もし私がその場にいなかったら、タイムアウト・プログラムは何にも始まらなかったと断言できる。もうちょっと彼に近づいて、見張っている必要があると母親が気が付くまで、彼の乱暴を見つけて、走って行っては彼にタイムアウトを課したのは私だった。「タイムアウト・プランは思ったよりずっときついわ。」と母親のぼやきが聞こえてきそうだった。

しかし、彼女は腕を上げ、トレーニングの第一段階が終わる頃には、まだ十分ではなかったとは言え、私が教えなくても彼の暴力行為の半分をとらえることができるようになってきた。私がただオフィスで母親に会うだけだったら、母親は多分、タイムアウトに疲れ果て、少しも効果がなかったと報告したにとどまっていただろう。そして私もまた、母親が失敗したという事実に対し、自分のこととしてとらえることはなかったように思う。ここに肝心な点がある。つまり、タイムアウトは一貫して続けてこそ効果がある。ただ単に「これからタイムアウトをつかってあなたを訓練するわよ。」と子どもに宣言しても、親がやりとげなくては、子どもの何も変えられない。

罰の効果に対する私の意見は、多くの親たちが罰について語ったいくつかの研究だけに依拠しているわけではない。また、私の臨床経験は、困っている親に対して話をし、その苦しみに対して同情し、理論的な観点から子どもの行動を説明するにとどまる、単にそのような行為によって成り立っているのでもない。比較的軽いものからかなり深刻なものまで含めて、一人あるいは二人以上の子どもに突きつけられている問題行動に苦しめられている親を助け、実際に問題の解決を図るのが私に課せられた任務である。すべてが台無しになるような、子どもの困った態度を改善、またはなくさせ、こうした家族があたたかな調和の中で小さな一つの集団として皆が成長できるようにすること、そう願って仕事をしている。

私や私と目的をともにしている行動スペシャリストは、子どもの問題行動を一つ解決する度に、問題を抱えて次にやってくる家族たちをどう助けていくか、理解力を深めていく。子どもが問題行動を起しているその場に立つと、効果的な方法と、良さそうに見えながら、実際は家族のもとに届かない方法の区別がついてくる。困り果てている家族の家に行って、子どもの問題行動を直してきた私の方法が、より多くの家族に取り入れられ、救いとなることを願っている。

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