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テーマ2 働く母親の子育て支援:公開座談会 「学校」と「家庭」を結ぶもの-子どもはどこで社会性やルールを身につけるのか?-

要旨:

2000年1月17日(月)、テーマ論考「働く母親の子育て支援」の関連企画として、「学校」と「家庭」を結ぶもの-子どもはどこで社会性やルールを身につけるのか?-をタイトルに公開座談会が開かれた。藤田氏、牧野氏、渡辺氏をお招きし、活発な議論が繰り広げられた。そのときの様子を紹介する。

チャイルド・リサーチ・ネット公開座談会

 

 「学校」と「家庭」を結ぶもの-子どもはどこで社会性やルールを身につけるのか?-

 

テーマ論考「働く母親の子育て支援」の関連企画として、公開座談会を行ないました。藤田氏、牧野氏、渡辺氏をお招きし、活発に議論をしていただきました。

 

日 時 2000年1月17日(月)
場 所 (株)ベネッセコーポレーション東京ビル 大ホール
パネリスト 藤田 英典氏(東京大学教授/教育社会学)
牧野 カツコ氏(お茶の水女子大学教授/家族関係学)
渡辺 秀樹氏(慶應義塾大学教授/家族社会学・教育社会学)
司 会 木下 真氏(フリー編集者)

学校・家庭・地域の連携
「学校・家庭・地域」の枠組みを問い直す
関係をつくる「媒介物」の必要性
「学校」の役割を再構築する
メディアの存在と「学校・家庭・地域」の連携



テーマ論考「働く母親の子育て支援」

 

 ●学校・家庭・地域の連携

report_02_53_1.jpg――現在、学級崩壊という現象やさまざまな事件などから、「子どもの社会性が失われてきているのではないか?」という指摘がなされています。これまで子どもの社会化の訓練は学校が担当するものだと言われてきたわけですが、最近では家庭や地域の教育力へ期待や責任が求められています。文部省の第15期中教審答申報告書でも、「学校だけでは限界があって、むしろ家庭などでしつけに関する責任を負ってほしい」ということを改めて提言しています。もちろん、子どもの社会性やルールは「学校・家庭・地域」のそれぞれで培われるわけですが、まずはそのどこに重点が置かれ、どういう形で三者の連携がなされるべきなのかについて、各先生方にお話しいただきたいと思います。 藤田 まず第1に、子どもの発達段階によって「家庭・地域・学校」の役割のウエイトがシフトしていくと考えています。幼児期においては圧倒的に家庭が重要ですし、学齢期になれば学校や仲間の重要性が高まります。第2に、大きな社会変化で言うと、この30年ほどの間に地域のウエイトが非常に低下していることが指摘できます。第3には、地域の枠組みではとらえきれない「情報消費社会」の影響も無視できないと思います。

 

その中で特に学校という側面について言いますと、学校は子どもが幼稚園についで経験する集団生活の場であって、当然ながらそこには「集団の規律」が埋め込まれています。その規律とは、ネガティブな意味ではなく、人々が日常的に行動していく上で身につけなければならない行動の仕方ですが、その規律を最初に身体化する重要な空間が学校です。その意味では学校は非常に重要だと考えています。 牧野 人間の発達初期の最も成長の著しい重要な時期を、主として家庭で過ごすという意味では、家庭の役割は非常に重要です。ただ、「家庭」というと誰もが「母親一人」を思い描くんですね。本当は「家庭の役割が大きい」イコール「母親の役割が大きい」ということではないのですが、現状では母親一人が大きな役割を果たし過ぎているわけです。このことが大きな問題だと思っています。

 

渡辺 私は、「学校・家庭・地域」という枠組み自体を問い直さなければならないと思います。今はかつての「家族」や「地域」ではないし、そうなると「学校」も変わらざるを得ないということになります。非常に大雑把に言いますと、近代以前は社会学でいう「ゲマインシャフト(=共同社会)・ゲゼルシャフト(=利益社会)」が混在していたわけですが、近代では子どもがゲマインシャフトの中で「共同性」や「共同感覚」を踏まえた上で、ゲゼルシャフトへ飛び出していくと考えられてきました。それが今もう一度変わりつつあって、「学校・家庭・地域」の枠組みの中に、両者の考え方をどう渾融していくのかということが問題となっています。

 

●「学校・家庭・地域」の枠組みを問い直す

 

 牧野 カツコ氏

 

report_02_53_2.jpg牧野 実は今、大学で『家族という神話』(ステファニー・クーンツ著)という翻訳を学生と読んでいるんですね。そこでは、「家庭が本当に基本的な役割を果たすべきだ」とか「家庭でよい子どもを育て上げられる」ということ自体が神話であって、家庭での教育がおそろしいほどに人生の中心を占める、私的で排他的なものになってしまったのだと問題提起しています。

 

日本の家庭も、非常に小さな単位になっていますから、人と人との関係という面では非常に貧しい場所であって、基本的な社会性が身につきにくい。つまり、子どもがこのような「閉じた狭い環境の中で育つ」こと自体が問題なわけで、それを自覚しないまま「子どもに社会性を身につけさせる訓練をするように」とか「子どもをもっときちんと教育するように」ということを言っても、かえって逆効果です。家庭をもっと開いて、地域との関係や学校の前段階としての保育園や幼稚園などの場所に広がっていかないと、子どもの発達初期の社会性の学習は非常に難しいと思います。

 

渡辺 『鉄道員(ぽっぽや)』という小説がありますよね。この物語では「地域の父親の喪失」を訴えたかったのだと思います。主人公は、自分の家庭では「父親」をしていなかったんですが、社会や地域の「父親」は十分に果たしていて、都会に出ていった村の子どもたちの成長をかわいく思えるわけです。子どもたちも、主人公のことを絶対に忘れない。つまり、先ほどのゲマインシャフトをしっかりと共同体の記憶として持ち、ゲゼルシャフトに飛び出していくという構図ですね。それから、『君たちはどう生きるか』の「コペルくん」は母子家庭なんですが、彼と叔父とのやり取りは、「ななめの関係」なんですね。「親―子」という縦の関係だけではなかったわけです。

 

藤田 私たちが「地域のおっちゃん」的なものを失ってきたことは、否定のしようがないことですよね。ミュージカルの『ウエスト・サイド・ストーリー』や、樋口一葉の『たけくらべ』などには、地域社会に組み込まれたさまざまな人間関係や構造的な矛盾を通じて、子どもたちがいろいろなことを学ぶ姿が描かれています。そういう地域社会が1970年代までにほとんど崩れてきたというのが大方の理解でしょう。

 

渡辺 そのときに、失われたものをそのまま復活させることはできないわけですからね。ですから、「学校・家庭・地域」の枠組みを問い直そうとしたときに、従来の「学校・家庭・地域」を前提としては無理であって、本来持っていた機能をどのように意図的に組み分けていくかという、根本的な仕組みからつくり直さなければならないと思います。

 

藤田 英典氏

report_02_53_3.jpg藤田 構造化する家族の壁を取り除いて、開かれた空間をどのように再構築していくのかということですね。そこで言えるのは、失われたものを組み直すときには意図的な努力が必要になるということです。昔なら挨拶や近所の人に会ったときの応対などの生活習慣や身の処し方は自然に身についていったわけですが、今は「きちんとしなさい」と言わないと身につかない。幼稚園や保育園だけでなく、学校でもその傾向が広がっていますから、その問題性を取りあげる必要があると思います。もう一つは、学校では「知的にものを考える習慣を身につける学習」をするわけですから、学校のさまざまな場面の中に、先ほどの「失われた関係」の重要性を課題として組み込んでいくことが大切だと思います。3点目に、「おっちゃん」という言葉に象徴されるような、感情的なコミットメントのある、言わば「エモーショナルな関係」が希薄になっているわけですから、それをつくっていける経験の場を我々がどれだけ提供していけるかが問題だと思います。 

 

牧野 「意図的に努力すれば、規律は身につくだろう」というお話がありましたが、高度経済成長期以降、母親は子どもをしっかり育てれば理想的に育つだろうという希望を持って、規律を身につけさせようと努力してきたわけですね。ですが、本当の意味での規律というのは、相手の立場や相手との関係、周りの状況を考えた上での主体的な判断によって身につくものであって、母と子の生活の中だけではなかなか身につかない。例えば生活の基本的なルールに「順番」があります。一昔前はお風呂に入る順番とか、食事の盛り付けの順番などについて、他の人との関係の中で自然に「待つ」ということができていたわけです。ところが今、親はまったく恣意的な理由から「待ちなさい」と子どもに言うんです。子どもは親の気分に左右されるわけですから、いつも親の意向に則するように生活していけばいい。あるいは、例えば幼稚園の先生が子どもに「おはよう。元気?」と聞いても、母親が「はい」と答えたりする。要するに親が子どもを支配してしまっているから、幼稚園に行っても規律を守ることができないんです。そのことが「とても困るよ」と言われると、母親はますます子どもをコントロールするようになってしまいます。ですから、やはり複数の人がいないと本当に難しいということを客観的に認めていかなければならないと思います。

 

藤田 牧野先生のお話はその通りだと思いますが、それならば、子どもの数が減って家の中に子どもが1人とか2人しかいない状況になると「救いようがない」ということになるわけですよね。私としてはやはり、そう決めつけるべきではないと思います。確かにルールや規律は、人と人との関わりの中で身につくわけですが、もう一方では日常生活の中に組み込まれた「当たり前のこと」もたくさんあるわけですよね。そういうものをもっと大事にしていかないと、子どもに一貫性のある経験を与えられないのではないでしょうか。親の都合で恣意的に「ああしなさい」「こうしなさい」では困りますが、日常生活の中に儀礼的・習慣的に繰り返し行われるものを組み込む努力をしていく必要があると思います。

 

牧野 ルールをつくることは大事ですが、その前に「救いようがない」と思った方が私はいいと思うんですね。今は生活のリズムや規則をつくる上でも、家庭の中での仕事が非常に少なくなっていて、親自身が時間やルールを気にせずにズルズルと過ごすことができますよね。以前私は、田舎のかなり大きな家に住んでいたんですが、布団をあげたり敷いたり、家中の雨戸を閉めたりと、やるべきことがたくさんあったんです。ところが横浜のマンションに引越すと、雨戸もないし家の前を掃き掃除する必要もない。ですから、「何もしなくても生きていける、母と子だけの狭い生活空間というのは、子どもの環境としては『救いようがない場所』ですよ」ということを自覚することが大事だと思うんですよ。

 

藤田 何かあると全部家庭が責められて責任を負わされたり、逆に母親が「パーフェクト・チルドレンをつくらなければいけない」と引き受けてしまうよりは、一度「救いようがない」とあきらめた方がいいという意味ではそうですね。

 

渡辺 私も基本的にはペシミスティックでして、一度失われたものをつくり上げるのには時間もかかりますし、なかなか戻らないだろうと思います。しかし、できるところからやっていかなければと思いますし、「失われた」と言っているものも、実は近代の我々の感覚から見て「失われた」と思えるだけなのかもしれないですからね。

 

●関係をつくる「媒介物」の必要性

 

――先ほど藤田先生から、「エモーショナルな関係」が希薄になっているというお話がありましたが、家庭においてもそうした人間関係をつくることが難しくなってきているのでしょうか? 牧野 90年代に入り、小さい頃からからモノに囲まれて、ビデオやテレビなどの応答的な関係がないような環境で育ったり、あるいは早期教育で数字を読めるようになったりしたけれども、家庭での人間関係の土台となる情緒的な関係自体が危うくなっている気がします。その土台なしに厳しいルールや規則を決めたり、親がコントロールするようになると、子どもの成長にいろいろな問題が起こる可能性があると思います。

 

藤田 本当に「エモーショナルな関係」というのは「おっちゃん」「おとうちゃん」というような呼称関係が自然に成り立つような中で育まれるものであって、エモーショナルなものをとにかく取り出して、重要な人間関係をつくろうとしてもできるものではありません。ですから、それを自然につくり上げてくれるような「媒介物」が必要だと思います。今の社会は、人間関係にしても何にしても、とにかく「剥き出しの個性をぶつけあって、そこに適切な関係をつくらなければいけない」という発想に立っています。事実、パーソナルになっているいろいろな人間関係を、「さらにパーソナルにしなければいけない」と言われたら、本当にどこにも救いようがなくなってしまう。ですから、関係を媒介してくれて、しかも他の活動にも開かれたものを工夫していかないとまずいと思います。

 

――その「媒介物」とはどのようなものなのでしょうか?

 

藤田 阪神淡路大震災が起こったとき、カウンセリングの専門家が被災者に「大丈夫ですか?」と聞いている光景が報道されました。私は「彼らは勘違いしている」と思ったわけです。つまり、「心のケア」という目的で心のケアの専門家が被災者にストレートに声をかけることで、本当に心のケアができるのか? ということなんです。むしろボランティアの人々や怪我の手当てをしている医者の方が、はるかに心のケアをしていると思うんですね。医者であれば「治療」という活動の中に「心のケア」という要素が含まれているし、教師であれば学習活動だけでなく、さまざまな活動の中に「心のケア」がつくり上げられていくわけです。家庭の中でも、「心の関係をつくろう」といって何かをするのではなくて、食事をしたり、「思いを込める」とか「怒る」などの場面も含めて、日常の活動すべてが「媒介物」になると思います。

 

渡辺 秀樹氏

 

report_02_53_4.jpg渡辺 社会の複数の関係やシステムの中で出てくるエモーショナルな感情が、さまざまな形で重なっていく中で、子どもたちが育てられるべきだということですよね。ルールや規律も、複雑な人間関係の中でいろいろなことを確認して身につけていくということが重要だと思います。それに関連して言うと、今は社会にも家庭や子どもの中にも、「社会の構造を問う」というか、メタレベルで自己の行為を問う仕組みがないと思います。つまり、親が自分の子どものためだけにやっている、そのことにどんな意味があるのか? ということです。そのときに、例えば叔父さんとの「ななめの関係」のようなものがあれば、自分と母親の関係の意味を見出して相対化することができる。そういう「第3者の目」「メタレベルの目」を子どもたちに用意することが重要だと思います。

 

牧野 子どもを育てる環境としての構造自体が貧しくなってしまった家庭の状況を広げていくための「人」や「空間」もまた媒介ですよね。例えば東京の吉祥寺に、古くなった幼稚園を改造して、地域の親や子どもたちが集まれるような場の取り組みがあるんです。そこでは好きなことをして遊べるし、誰ともなく片づけをしたり、年齢の違う子どもがいたわり合ったりしています。また専門家もいて母親の相談にも乗っています。このような、固定的な人間関係にならない新しい形でのネットワークづくりも必要になってくるし、それをサポートしたりコーディネートする専門家も必要になるだろうと思います。厚生省や文部省も、保育園や幼稚園を「地域の子育てセンターにしよう」というような取り組みをしていますよね。そういう場はできるだけ子どもが小さいうちからあった方がいい。ですから、決して「救いようがない」わけではなくて、外へ出ていく中で、家族もまた救われていくと思います。

 

●「学校」の役割を再構築する

 

藤田 母親が中心になっていることが問題でありながら、もう一方では、やはり母親や父親ががんばらなくてはいけないという印象を受けました。例えばアメリカで10年以上も前からホームスクーリングを選択している親の間で大きな課題となっているのは、「子どもに社会性やルールや人間関係をどうやって身につけさせるか?」ということなんです。みんなせっせといろいろな活動に連れて行って、経験を積ませることでそれをカバーしているわけですが、やはりそれができる親御さんでなければだめなんですね。近代社会以降、学校は本来はそういうことができていた空間だと思うんです。そのことを含めて学校をもう一度きちんと評価する必要があると思います。

 

それから今の例もそうですが、ボランタリーにつくられる空間は、とかく「きれいすぎる」と思うんです。そこでいろいろな経験をするにしても、矛盾や葛藤や困難がない空間を想定するからなのではないでしょうか。私は社会性やルールや人間関係とは、葛藤や矛盾、困難を伴ってこそ意味があると思います。克服することのできない困難や葛藤は困りますが、大多数の子どもにとって克服可能な葛藤を含んだ経験の場は、現代社会でもこれからの社会でも、学校しかないのではないかと。ですから、開かれた空間での人間関係も大事ですが、学校のような場で育まれるものについても考える必要があると思います。

 

牧野 葛藤や困難がある場が必要だという意味ではわかりますが、現在、学校がものすごく困難な場所になっているからこそ、不登校やいじめなどが起こる状況もあると思います。ですから、学校ももう少し楽しく生き生きできて、その中で人間関係が学べる場にシフトさせてもいいと思うんです。新しい教育改革でも、知識を注入する形ではなく、子どもたちが自ら学んでいく方向にシフトしていくことが大事だと思います。

 

渡辺 今、学校が空洞化しているわけですよね。その中で「生きる力」が言われ始め、それに対して「総合的な学習」ということが出てきています。カリキュラムはスリム化され、それぞれの学校に預けられるわけですが、個々の学校の組織としての力が弱体化しているわけです。文部省は「自由にどうぞ」と言っていて、学校も「地域の教育力を導入したり、保護者やPTAを活性化して、総合的な学習を運営する」と言っていますが、現実的には非常に深刻な状態ですよね。

 

牧野 「学校の中に『ゆとり』を持ってくることによって学力が低下する」という議論がありますよね。これについて藤田先生のご意見をうかがえますか?

 

藤田 学力は低下するとは思いますが、「低下してよい」と考えるべきではないと思います。例えば「勉強の時間がおもしろくない」と考えること自体が間違っていると思います。学習がおもしろくないのは、「わからない」「伸びない」からであって、「わかる」「伸びる」ように工夫していけばいいのです。それから、総務庁青少年対策本部の調査では「先生や親の言うことに従わなくていい」と考える子どもが1980年には50%、89年の日本青少年研究所の調査では80%もいるわけです。私は「従わなくてもいい」「もっと自由にやってよい」と思いこんでいること自体が間違いだと思っています。確かに学校を自由でのびのびした空間にしていくことは重要ですが、もう一方で当の生徒や親たちも、自律的で積極的な構えを持っていなければできるわけがありません。

 

――学級崩壊などの現象について、子どもたちがルールや社会性を守らなくなったという逸脱行為の範囲で収まる問題ではなくて、非常に根源的な公共性の部分が崩れているのではないかということも言われています。その点に関してはどうでしょうか?

 

report_02_53_5.jpg藤田 公共性が基本的なところで崩れているのかどうかという問題については、やはり何か変わっているのかなという印象を持っています。1980年代以降の豊かな刺激に満ちた情報消費社会の中で、どの国でも程度の差はあれ問題になり始めているのではないかと思います。身体レベルで習得する日常的な生活経験そのものが安易な方向へ流れていますし、そのことの問題性を子どもたちが考え自覚する契機を奪っていると思うんですね。その一方で、「個性至上主義」ともいうべき傾向がある。なんでもかんでも「個性」とか「自分を磨く」「自分をどう育てていくか」という、非常にパーソナルな関係や営みの中に、社会のいろいろな営みを移していく傾向が強まりすぎていると思うんです。刺激が充満していて、身体的にも何か変わってきて、もう一方で個性主義的な傾向が強まっている。それが何らかの違いをもたらしているのかもしれません。

 

牧野 基本的には、昔のような40~50人の教室で生徒が座って教師の話をきちんと聞くということが、本当にできなくなりましたね。確かに先生方のご苦労は本当によくわかりますけれど、私は教育のスタイルの問題であって「授業とは何か」という問題だと思います。本当の意味での「学ぶ力」は、人と人とどうつきあっていくのか、誰に情報を求めるのか、どうやってゴールに向かって手順を踏んでいけるのかという問題解決能力なんですよね。ここ10年間で、情報化の進展と共に地球全体の人と瞬時に関われるような環境に変わってきています。そういう中で子どもはそれぞれの状況に応じて自分で判断して学んでいかなくてはならない。そこで今までの「記憶力」のような意味での「学力」を求めたとしたら、子どもたちはおもしろくないと感じると思います。ですから、今崩壊していると言われている「学級」も一つの神話であって、「崩壊」ではなく新しい学びのスタイルが始まっているのだと思います。

 

渡辺 その新たな学びのスタイルが生まれる中で、公共性も新たに出てくると考えていいんでしょうか?

 

牧野 そうですね。社会性や能力もその中に入っていくと思います。子どもたちが「学びたい」と思うような仕掛けや場が学校であり教室だと思うんです。そこで「学びたい」という意欲をつくるのは、みんなが同じ方向を見て机に座っているようなスタイルではない。現在はクラスの人数を少なくしたり、フリースペース的な空間で勉強できるような試みもありますよね。それが能率的なものかどうかはわかりませんが、学ばせる筋道をいかに教師がつくっていくのかということだと思います。

 

藤田 そのあたりは私はやや違う見方をしています。オープンスペーススクールは、欧米でも決して普及しているスタイルではありません。実態としては、欧米の学校も子どもの数が減っていますから、従来通りの教室の後ろの方が空いているわけです。そこに仕切りをしたり、キャンプ施設のようなものをつくって、授業中にも行けるようにしています。また、グループ学習や個別学習も確かに多いと言えます。ただ、子どものリズムだけに任せると個人差が出て、教室全体の学習のリズムがだらけたものになることが多い。ですから、すぐれた学級と思われるところの先生は、たとえ個別学習を中心にしていても、時間の枠の中でさまざまな工夫をして、全体のリズムを重視しています。この点に関しては、きちんと確認しておく必要があると思います。

 

渡辺 私自身は、やはり学校の中にゆとりのある、情緒的で評価のない空間をどのようにして育てていくのかということが一番の問題だと思います。私は私立の中学と高校を預かっていますが、私立は塾を前提にしないで子どもを大学に送らなければいけない。すると学校そのものを立ち直す方向で考えなくてはいけないんです。その中で私が思うのは、学校としての「文化」をどう育てていくのかという問題です。今、地域の文化資本が失われていることも含めて、構造的なところまで学校は弱体化しています。ですから、一気に解決する問題としてではなく、文化を育むような形でやっていかないと、日本の教育は危ないのではないかと思います。

 

●「メディアの存在と「学校・家庭・地域」の連携

 

――先ほど「媒介物」という話が出ましたが、従来の「学校・家庭・地域」という枠組みから外れた新しいメディアの果たす役割についてはいかがでしょうか。

 

渡辺 厚くなった家族の壁を崩す方法はいろいろあると思います。1つは、インターネットなども含めて外との関わりは、子どもに深く関わる「複数」のうちの1つになると思います。そこでの問題は、それらのメディアやイベント型のものをいかに日常化していくかということだろうと思います。イベントだけで終わるような提案というのは問題であって、オンラインでもオフラインでもつなげていくということですね。

 

牧野 ある調査では、0歳からテレビやビデオを長時間見ていて外遊びの少ない子どもたちに、「表情が乏しい」「気持ちが通わない」「目をそらす」「遊びが限られている」「見立て遊びができない」「友だちが来ると避けてしまう」などの傾向が多く見られました。子どもはおとなしくテレビやビデオを見ていてくれるので、子どもが友だち同士で遊べないということに気づかないまま、母親とは非常にいい関係で成長するわけです。ですから、情報メディアは生の人間関係とは違う世界だということを知った上で利用しないと、大変大きな問題になるということを指摘しておきたいと思います。それは1つの手段であって、それを目的化して教育ができると考えるのは、本当の意味での問題解決能力からは遠ざかっていくと思います。

 

藤田 現代社会では、インターネットやテレビ、ビデオなどのメディアが持っているメリットはいろいろあると思います。確かにバーチャルなものは、即時的にレスポンスが返ってくるだけにひきつけるものはあるし、それらを利用することは重要です。しかし、教育の基本はやはり対面的なコミュニケーションであり、これがなければ社会性もルールも、本当の学ぶ力も身につかないと思います。それから、テレビやビデオ、インターネットがたとえ言語的であっても、活字を媒介にしたものとは違うと思います。活字にはある種の空想やイマジネーションを喚起する時間的なゆとりがあるんですね。そういう時間が持っている重要性を見落とすべきではない。ですから、活字的なものと対面的なものの重要性を実際にどうやって充実させていくかが大切だと思います。

 

――では最後に、これまでの内容を受けて一言ずつお願いしたいと思います。

 

渡辺 私の子どもは公立学校に行っているのですが、以前そのクラスで実際に学級崩壊が起こりました。親たちは交代で学校に行ったり、夜中にファミリーレストランで議論をしたりと大変だったんですが、これが今では非常にいい思い出になっておりまして(笑)。まさに藤田先生がおっしゃった「葛藤」が、親も子も育てるということですね。それから、私はサッカーのコーチもしていましたが、町で自転車に乗っていると「あ、コーチだ」とか「渡辺くんのお父さんだ」などと言われまして、刺激があって楽しいと思いました。要するに、そういう関係をいかにしてつくっていくのかということと、それをいかに日常化していくかですね。

 

牧野 私のもともとの関心は、「母親だけが一生懸命子育てすれば本当に子どもがうまく育つのかな?」ということでした。それで母親の育児不安の問題や子殺しのことなどを考えてきて、「やっぱりこれはお父さんの問題だ」と気がついたわけです。そしてさらに、父親と母親がよってたかって「教育ママ・教育パパ」になって自分の子どものことだけを考える「閉じられた家族」ではいけないと思っています。冒頭に『家族という神話』という本を紹介しましたが、ある章で著者はこう言っています。「『子育ては両親だけに任せてはおけない重要な仕事である』と考えられている社会において、子どもは一番よく育つ」と。だから、もちろんお父さんも育児休暇をとったり労働時間を短縮する必要がありますが、それでもなお社会全体で子どもを見守らなければいけないと思います。家族は土台であるわけですが、その上で家族を超えなければならないと、ひしひしと感じております。

 

藤田 まとめとして3点強調したいと思います。先ほどからの議論の中で、人間関係のあり方が大きく変わっているのかもしれないという話が出ました。ある部分は変わっていると私も思いますが、社会性やルールのあり様がまったく変わるとは思えないんですね。ですから、家庭や学校での集団的な場面に、例えばかつての地域社会にあった祭りのような儀式的なものを、どれだけ組み込んでいけるかが重要な課題だと思います。2つ目には、牧野先生が言われたように、家族を開かれたものにしていくことが重要だと思います。現代社会では、その要素なしに儀式的なものを押し付けても意味を持たないからです。そのためにも地域の中にさまざまなボランタリーな活動の場やネットワークを拡大してくことが重要だと思います。3点目は、大人として大切なメッセージはきちんと伝えていく必要があると思います。それは、例えば「社会的責任を果たすこと」とか「思いやり」「努力をする」とか、昔から言われてきたような単純なことです。要はそれらの点で、子どもたちがどれだけポジティブな構えを身につけていけるかということです。学校教育でも、家庭でも地域や民間の教育機関においても、教材やプログラムの中にそういうメッセージを、押し付けでなくきちんと盛り込んでいくべきだと思います。その点で現代の日本の学校教育や大人は随分いい加減になっていると思います。

 

――「学校・家庭・地域」の連携を考えるにあたって、まったく新しい別のシステムが生まれたり過去のものをそのまま復活させたりということではなく、それぞれがすでに持ついいものをきちんと冷静な目で見ながら、新たに構成していくという方向性が見えてきたのではないかと思います。また、その過程で、子どもたちに開かれた複数の関係や活動を用意していくことの重要性も指摘されたと思います。


本日はどうもありがとうございました。 (2000年1月17日)

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