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論文・レポート

Essay・Report

テーマ1 学級崩壊をめぐって:論考

2008年3月13日掲載

要旨:

最近マスコミなどで〈学級崩壊〉という言葉が大きく取り上げられている。そこで言われている「崩壊」という表現は、私たちの時代が抱えてしまった困難のいわく言いがたい感覚をうまく捉えているのだ。 いま、私たちの世界に何がおきているのだろうか。ここでは「学級崩壊」をキーワードに、荒木氏、宮台氏の対論の様子を紹介し、日本社会を振り返るきかっけとしたい。

公開座談会「学級崩壊はしつけでくいとめられるのか?」


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はじめに
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このコーナーでは現在、荒木氏、宮台氏の発言が途中段階ですが、当方の都合により10月末を持って一端中断したいと存じます。
期間限定フォーラム「私も一言」もこれに連動して、10月末を持って中断したいと思います。
大変ご迷惑をおかけ致しますが、よろしくお願い申し上げます。

 

テーマ論考1
<「学級崩壊」をめぐって>

対論者 荒木肇 VS 宮台真司
(生涯学習センター常任理事) (都立大助教授)


最近マスコミなどで〈学級崩壊〉という言葉が大きく取り上げられています。そこで言われている「崩壊」という表現は、私たちの時代が抱えてしまった困難のいわく言いがたい感覚をうまく捉えているのです。 いま、私たちの世界に何がおきているのでしょうか。そこではほんとうに何かが「崩壊」しいるのでしょうか。 それともたんにマスコミが作り上げた「表現」が一人歩きしているだけなのでしょうか。 わたしたち自身が作り上げている社会の在り方や、「子ども」に"夢と健康"を託しすぎるわたしたち自身への「振り返り」を含めて、わたしたちにとっての子どもの意味を、「学級崩壊」をキーワードとして、皆さんといっしょに考え直してみたいと思います。

6月11日  荒木 肇 氏
7月16日  宮台真司 氏
7月30日  荒木 肇 氏
8月20日  宮台真司 氏
9月 3日   荒木 肇 氏

 

 

6月11日   荒木 肇 「学級崩壊をめぐって」

 

 荒木 肇


●学級崩壊は授業崩壊report_02_52_1.jpg


まず、私が「メイル対論」のトップバッターを仰せつかったので、「学級崩壊」について自分の考えを述べてみたいと思います。

 

マスコミでは「学級崩壊」というおぞましい言葉が使われています。でもその実態はおそらく「授業崩壊」もしくは「授業の不成立」だと思います。

 

学級担任が子どもたちに接する時間はほとんどが「授業」なのです。「授業」といっても、小学校の教師は、授業を通じて、訓育(知識技能の指導)だけではなく、陶治(生き方の指導)も含めて行わなければなりません。ですから、いくら学問的な知識があっても、教師という職業に向いていない人や、不勉強な素人同然の人が、子どもに向き合えば、授業になどなりません。

 

子どもたちが担任の指示を聞かない、反抗する、そんなことは昔からありました。「学級崩壊」を「授業崩壊」もしくは「授業の不成立」と考えるならば、これは今に始まったことではありません。


●授業イメージの変容


ところで「授業」とはどういうものなのでしょう。

 

一般の方に聞いてみます。すると、先生がすべてをリードし、子どもたちがハイハイと元気に答えている、そういった様子をイメージしたり、先生がジョークを時たま交えながら上手に教科書を解説するという風景を語ったりしてくれます。

 

じつは、そんな「授業」は、もう、とうに古くなってしまいました。塾のような、あるいは予備校のようなところなら、いまもそれを授業と呼ぶかもしれません。あるいは授業改革の意識が低い、もしくは忙しすぎる中学校の先生の中には熱弁を振るうことを授業と思っている人がまだいるかもしれません。

 

昔の子どもは我慢強いものでした。ひいきをされても、つまらない授業をされても、じっと我慢して座っていました。学校とはけっこう役に立つところという認識を親ももち、学校での振る舞い方が、そのまま社会でも評価されたからです。いわば、学校の方が社会をリードする時代でした。

 

しかし、子どもたちも変わり、親も変わり、何より社会が変わってきました。子育てのあり方もどんどん変わり、子どもの数が減り、教育に関心をもつ親が増えました。

 

現在の学校では、一部の優秀な子どもと先生がリードする授業ではなく、全員参加が原則です。ここ20年文部省も「個性重視」の掛け声のもと、そのことを学校の中で徹底させようと呼びかけてきました。

 

●「形式的平等」から「実質的平等」へ

 

私も、毎時間、毎時間、全員参加を目指しています。あの手、この手で、子どもたちみんなに考えてもらおうとし、答えてもらおうと工夫はしているのです。ところが頭の中では別のことばかり考えている子、手いたずらをする子、隣の子とちょっかいを出し合う子、ひそひそ話をしている子、そんな子たちがどうしても目についてしまいます。

 

呼びかけたり、発問を変えたり、さまざまな手立てを取るのですが、決してうまくはいきません。その原因のひとつは私の授業構想の貧しさかもしれません。ですが、やはり、大きな原因としては、子どもたちがそれぞれに事情を抱えていることが挙げられます。

 

子どもたちのさまざまな事情、それらはまさに「個性」に他なりません。

 

「個性」というのは、とくに秀でた能力ということではなく、その子の丸ごとありのままです。その子どものあり方は、まさに家庭ごとの文化であり、親子関係のあり方によって決められます。もちろん、子どもたちばかりでなく、私たちのあり様は、周囲との人間関係によって規定されるのです。家庭や地域、学級、それぞれに子どもを囲む大人がいます。その関係の総決算が子ども一人ひとりの個性を形づくっているのです。

 

たとえば、子育てに関心がもてず、子どもを厄介視している親に育てられている子がいます。夜遅くまで起きていて朝食も取ってこれない子もおります。あるいは教育に関心をもち過ぎる親の子も見られます。夜中まで塾の宿題をやらせて「学校の授業は骨休めにしろ」などと、親から叱咤激励されている子もいます。

 

こうした粗末に育てられている子どもは、学級生活に不適応であることが多いのです。公平な話し合いの場である授業に参加しようという気持ちもあまりありません。授業を退屈なものと考えている子もいます。塾で習ってきてしまっているから、もうやる必要などないと考えているからです。

 

また能力的な差異もあります。日本の学校制度は「履修主義」をとっています。全学年、同内容で同進度、落第もありません。だから、その学年内容に、とてもついていけない子どもたちも混じっています。

 

こうしたすべての子どもたちの「あり様」をそのまま認めつつ、全員がその「個性」に応じて参加できる授業を構成するのが、学校教師の仕事なのです。

 

学校で行われる授業は、それぞれの子どもが、自分らしい方法で、それぞれの課題に向き合うものです。だから、全員にひとつの課題を与え、全員に達成させようとする、そうした「形式的平等」は、もう古いものになりました。現在の授業は、一人ひとりが達成感や充実感をもつもの、そうした「実質的平等」を目標とするものになったのです。

 

子どもたちに対して授業を成立させられない先生は、このことが分かっていないと思います。

 

●学級崩壊を言い立てる構造

 

「学級崩壊はどんな<先生>にも起こり得る」という言い方がされています。これでは親にとっては、どの学級も安心して見ていられなくなることでしょう。

 

同じようなことが言われています。「それはどの<子>にもあり得ることだ」、こうした評論や、専門家と言われる人たちの言論が紹介され、世間の不安をあおる傾向が見られます。

 

「しつけの力が低下した」という言い方もされますが、それほど昔の家庭に教育力があったでしょうか。

 

昔の子どもは不作法なものでした。ちり紙を持たず、ハンケチもなく、いつも汗だらけで埃だらけです。給食の時の作法もひどいものでした。

 

大人だって、ところきらわず痰を吐いたり、立ち小便をしたりするのも良く見たものです。電車だって我勝ちに席を取り、老人に席を譲ることもめったになかったと思います。

 

昔から、日本ではごく一部の家庭を除いて、厳しいしつけなどなかったのです。「昔は良かった」というのは、昔から厳しいしつけを受けてきた、その結果、学校の成績も良く、今も学者や評論家という地位に就いている人だからでしょう。

 

その人たちは、私の言う「授業」など受けてはこなかったのです。先生の問いにいつもきちんと答え、褒められてきた人たちでしょう。あるいは、どうしようもない階層の差に圧倒されていた同級生たちの事情など、知りもしなかったし、気づきもしなかった人たちです。

 

学級崩壊を報道する記者たちも、おそらく、学校では優等生だった人たちでしょう。先生たちも、同じように、学校文化を受け入れてきた人間です。

 

社会がますます不安になる。実際にはある、個々の家庭の文化度の差を無視した教育論がもてあそばれる。こうしたことの背景にあるのはもちろんわが国の教育文化の貧しさですが、子どもたちの実態を調べようとしない大人の文化の貧しさでしょう。

 

7月16日 宮台 真司「学級崩壊をめぐって」


 宮台 真司

 

●学級崩壊は新しい現象であるreport_02_52_2.jpg


「学級崩壊」は昔からある凡庸な現象なのか、新しい現象なのか。尾木直樹氏が2月10日の記者発表で述べたように、単なる教室の荒れや授業の不成立と捉えるならば、昔から中学や高校にもあることになりますが、「学級崩壊」という言葉が新聞から発して人口に膾炙したのは、そこに別の響きがあるからなのです。それに敏感でなければなりません。

 

「学級崩壊」はツッパリの生徒が共同で反抗した80年代前半の校内暴力と違い、(1)孤立した生徒らの非共同的営みであり、(2)火元の生徒から急速に教室全体に感染し、(3)いったん感染すると教員を取り替えない限り収拾不可能という特徴があります。尾木氏や同月発表の日教組のデータに見られるように、教員は背景に子ども全体の変化を感じ取っています。

 

自己中心的、コミュニケーション不全(表情欠落・人の言葉を聞けない・自分の思いを言えない)、言動粗暴、パニックになりやすい、生活習慣欠如(片づけや挨拶ができない)などです。外的刺激を自らの内面で咀嚼し固有の内面的動機に基づく行動に結び付けられないこうした傾向を、三森創氏は『プログラム駆動症候群』で「心がない」と表現します。

 

社会システム理論の定説では、人々が共同性に埋没する部族段階の社会では、誰もが同じものを同じように体験するので、「心がある」という観念はありません。社会が不透明になり、コミュニケーションの中で人々の体験や動機が自明視できなくなったとき、人それぞれに異なる世界への関わりが、「心がある」という観念で表わされるようになります。

 

それで言えば、外的刺激に対して「溜め」が効かずに定型的な反応を返してしまう動物には、「心がない」わけです。三森氏の指摘は、一部の子どもはそうした動物に近づいているから、「心がある」ことを当てにする近代学校教育的コミュニケーションが無効になったのだとする、きわめて挑発的なものです。彼の指摘は多くの教員の共感を呼んでいます。

 

三森氏は心理学者ですけれども、いかにも心理学者的な指摘です。しかし、たとえ三森氏の言う通りだとしても、これから述べるような社会学者的な見方をすると、子どもたちのそうした変化は少しも異常ではないことが分かります。むしろ子どもたちの変化は、子どもたちが社会システムの変化に対する健全な学習能力を持つからこそ生じるものだと言えます。

 

●学級崩壊は健全な現象である

 

「学級崩壊」のマスコミ的扱いを一瞥すると、7割が「家庭の問題」を、残り3割が「学校の問題」を、原因と見なしています。前者は、親に教育力がなくなったことを問題にします。後者は、子どもの変化や多様性に対応できない教員の資質を問題にするものが多いことが分かります。しかし、こうした「人に帰する考察」はきわめて不十分なものです。

 

教育というと知識や価値の伝達だという通念がありますが、「伝達」という事態は理論的には存在しません。子どもは一個の人格システムとして環境から「学習」するだけです。環境には知識や価値を伝達したがる大人も、口でウマイことを言って抜け駆けする大人もいます。子ども同士の関係も、メディアを通じて得られる情報も、環境のなかに含まれます。

 

昔と同様に知識や価値の「伝達」を試みても、環境に含まれる諸要因が変われば、当然うまく行かなくなります。子どもは自分の生存に好都合なことを、環境の全体を勘案して学習するからです。ですから、かつて成功していた「伝達」がうまく行かなくなったら、子どもや大人の変化を問題にする以前に、環境の変化を問題にしなければならないわけです。

 

昔は親や教員の説教が効いたとしても、昔の大人がシッカリしていたからではありません(荒木さんの仰言る通り)。戦前から活躍した社会学者・有賀喜左右衛門によれば、世間の後ろ盾があったからに過ぎません。たとえ呑んだくれでも親の言うことは世間の誰もが言うこと。親は世間の風を家に運び込む存在だったからこそ、説教に効き目があったのだと分析しています。

 

ところが今では、教員には職員室世間や組合世間、親には会社世間や公園デビュー的世間、子どもにはストリート世間やゲーマー世間があるだけ。隣り村の話はオラが村には関係ないのが、日本の古い伝統です。説教が学ばれなくなったのは、学習を条件づける環境が変化したからで、当然のことなのです。むしろ、学ばれるとすればそのほうがオカシイ。

 

昔同様に規律の大切さを教えたがる教員がいても、規律を守る大人よりも抜け駆けする大人のほうが得をする現実をマスコミ情報などを通じて知るようになれば、より多くの子どもたちが「教員の言うことを真に受けるとバカを見る」と思うようになります。それは不可避であると同時に、少しも異常なことではありません。

 

成熟社会では家族も地域も会社も流動的になります。離婚再婚による家族組替えや、郊外化による転入転出や、リストラや再雇用がますます当たり前になります。イバる大人が組織から放り出された途端にショボくれるのを見れば、子どもは「教員」や「親」という役割の向こう側を見抜き、そこに確かな実存がなければ軽んじます。まことに健全です。

 

エリート教育や英才教育を施しても、いい学校・いい会社・いい人生という物語が怪しくなれば学習動機は薄れます。同時に、個々の知識を位置づける社会の全体地図が不透明になれば、知識の構造化=血肉化は難しくなり、知識は砂粒のごとき断片に留まります。こうして偏差値の高い大学ほど、学力の低下が著しくなります。これまた当然のことです。

 

もともと親も教員も、今と比べてとりたててシッカリしていた訳ではありませんから、「学級崩壊」を含めたさまざまな問題現象に対して「親や教員がもっとシッカリすればいいと処方箋を下す」のは、デタラメで無効なばかりか、百害があります。それは、私がさまざまな場所で言っている「バカが感染るシステム」を温存することにつながるからです。

 

●おかしいのは子どもではなく学校システム

 

「学級崩壊」に焦点を合わせます。2年ほど前から「学級崩壊」が話題になったとき、私は飛び上がって喜びました。欧米先進国では20~30年前から顕在化していた「学級王国」の崩壊がいよいよ日本でも始まり、これを機に欧米先進国から10年以上も遅れた近代学校教育の改革に弾みがつくと思ったからです。私は「学級崩壊万歳!」の立場です。

 

5年前に『朝まで生テレビ』のブルセラ特集で「一斉カリキュラムをやめろ、クラスをなくせ」と言ったら、居合わせた識者全員とギャラリーの大半が「何をバカ言ってんだ」といった反応をしました。今ではそのような反応をする人はむしろ稀で、文部省もこうした改革を完全に射程に入れています。当時私が叫んでいたことこそ近代学校教育の改革です。

 

私は言いました。子どもが、学校でも家でも地域でもない「第四空間」(ストリートや電脳空間)に魂を流出させるのは健全なことだ、不健全なのは学校化(学校的価値で一元化)された学校・家・地域であると。同じことで、学級崩壊は、子どもたちがオカシイから起こるのではなく、むしろ子どもたちが環境から学習する健全さを持つから生じるのです。

 

1970年前後に社会科学者・人文科学者に常識化した知識によれば、学級が成り立たないことが異常なのではなく、学級が成り立つこと、すなわち小さな子どもが5時間も6時間も机の前に座って大人の言うことに耳を傾けることこそが、人類の伝統からすればはるかに異常です。この異常さを可能にしたのが、近代過渡期という特殊な時代状況でした。

 

逆に言えば、この特殊な時代が終わって近代成熟期が到来すると(=成熟社会化)、異常な振舞いを忍耐していた子どもたちが、ある意味で「昔に戻る」ことになるはず。したがって成熟社会化に合わせて近代学校教育システムを変えなければ、忍耐する理由を失った子どもたちがさまざまな問題を起こすだろうと予想されていたわけです。詳しく見てみます。

 

●近代学校教育のモデルは軍隊と監獄

 

70年前後にフーコー、ゴフマン、イリッチといった人々が獲得した学問的到達点をまとめれば、近代学校教育には二つのモデルがあります。軍隊と監獄です。軍隊は、戦いに勝つために固有の身体的規律化の方法をもちます。監獄は、囚人の社会的更正を促すために、やはり固有の身体的規律化の方法をもちます。具体的に述べてみましょう。

 

学校の準備体操では、整列!気を付け!前へ倣え!休め!とやります。これは準備体操にとって何の必要もありません。では何のため? 号令一下規律正しく集合的に行動する習慣を覚えるため。むろん軍事教練からの借り物です。今では周知のように体育実技の九割以上が軍事教練ルーツです。戦時下でもないのに、いったいなぜなのでしょう?

 

19世紀に英国の功利主義者ベンサムが、合理的監獄監視システムを考案しました。要は「管理者側が監視にコストをかけなくても、囚人たちがいつ見られているか分からないと思ってビシッとするシステム」です。教室の視線の配置から、日本でも実は古い歴史を持つ内申書まで、その応用です。子どもは囚人ではないのに、いったいなぜなのでしょう?

 

答えは「都市労働者を養成するため」。具体的には工場労働者とサラリーマンです。伝統社会と違って、雨が降ろうがヤリが降ろうが時間通り出社し、規律に従った集団行動により、良質で安価な規格品を大量に生産してもらい、正確で安定した事務労働をしてもらう。そのための規格化された身体を生み出すことが、近代学校教育の最大の目的なのです。

 

加えるならば、近代学校教育以前はどこの社会でも、子どもは「通過儀礼」を経て大人になりました。子どもを短期間(1週間から1ヶ月)日常から隔離し、非日常的な空間で揉み、再び日常に着地したときには新しい大人の感受性と規範を身につけている──これが通過儀礼です。近代学校教育は、この通過儀礼を、10年も続く「義務教育」に置き換えました。

 

なぜか。近代社会は複雑です。子ども共同体と大人共同体の二分法では済みません。大人といってもブルーカラーとホワイトカラーの別がある。ブルーカラーにも単純工と熟練工がいる。ホワイトカラーにも事務職・営業職・研究職等がある。これら多様な職掌に向けて「選別」と「動機づけ」をする必要があります。これが近代学校教育の第二の目的です。

 

軍隊と監獄をモデルとする長期間の義務教育は、伝統社会にない苦役です。この苦役を忍耐させていたのが、近代過渡期独特の「社会の透明さ」と「未来の輝き」です。頑張れば自分も家族も会社も地域も国家も、全部豊かになり、皆幸せになる──。こうした近代過渡期の輝きこそが、本来ならばありそうもない苦役に子どもたちを動機づけていました。

 

●成熟社会化に伴う人材要求の変化

 

成熟社会化する、すなわち近代過渡期から近代成熟期に移行すると、近代学校教育に対する要求(都市労働者の養成)と、近代学校教育を支えていた条件(苦役の中和)の、双方が劇的に変わります。後者から言えば、苦役を中和していた「社会の透明さ」と「未来の輝き」はともに失われ、学校で忍耐する時間は「意味の空白」に脅かされはじめます。

 

次に前者ですが、成熟社会化すると、人間に要求される資質が急変します。その結果、「(古いタイプの)学校に適応しすぎると、社会に適応できなくなる」という恐るべき逆説が顕在化してきます。ちなみに、成熟社会化とは、経済学的には、産業化的段階つまり第2次産業型社会から、情報化段階つまり第3次産業型社会に変わることです。

 

成熟社会化すると、第一に、FA(ファクトリー・オートメーション)やOA(オフィス・オートメーション)の進展によって単純労働への需要が減ると共に、高付加価値競争を勝ち抜くために、人が考えつかないアイディアを出せるイノベーティビティ(創造性)に富んだ人材が重要になり、協調性よりも、和を乱しても同調圧力に抗する自立性が重要になります。

 

第二に、生産性の上昇により労働時間が短くなり、消費の時間が長くなります。教育システムは、労働の質を保証することもさることながら、幸福な消費生活を送れる賢明な消費者を養成することが課題になります。労働重視の時代には打って一丸となるのも良かったのですが、消費重視の時代には個人的な楽しみを見つける試行錯誤が重要になります。

 

第三に、近代過渡期(産業化の時代)には、物の豊かさを追求する追いつき追い越せで、国民的に合意された目標や価値がありえましたが、近代成熟期(情報化の時代)には、物の豊かさを達成したあと、何が幸いなのか、何が良きことなのかが、人それぞれに分化せざるを得なくなります。これも個人的な試行錯誤の必要性を高めます。

 

第四に、産業化の時代には日立・三菱・東芝といった重電産業が国策もあって尊重され、企業寿命も長かったのですが、情報化の時代になると、たとえばマイクロソフトという超大企業であっても、5年後いや来年あるかどうか分からない。「寄らば大樹の陰」的な生き方は、企業社会の流動性上昇により圧倒的に梯子を外されやすくなります。

 

日本以外の先進国は(アメリカは若干遅れましたが)、近代成熟期への移行(耐久消費財の一巡によって測られる)がはっきりした70年代から、教育改革に着手してきました。一口で言えば、(1)「知識や価値の伝達」から「承認を通じた試行錯誤への動機づけ」への目標変化と、(2)「一斉カリキュラム制」から「個人カリキュラム制」への手段変化です。

 

●まことに異様な日本の教育

 

しかしながら日本では、先進国では唯一、成熟社会化に見合った教育制度の改革が行われていません。いまだに「いい学校・いい会社・いい人生」なる物語が信仰されていた時代の、あるいは「良質で安価な規格品を大量生産する」ための都市労働者の養成が期待されていた時代の、学年別の一斉カリキュラムが行われています。これは全くの出鱈目です。

 

加えて、教員の資質がよろしくない。教員の大半は、近代過渡期的な「みんな仲良し重視型」「まじめにコツコツ重視型」の教育を受けてきて、いまだにそれを良きことだと信じています。学芸大研究グループが調査から明らかにしたように、学級崩壊を引き起こすのは、このタイプのベテラン教員が多いのです。彼らの善意こそが悪を生み出しています。

 

ちなみに幼児番組の国際比較をすると、日本の幼児番組だけが異様な内容であるのが分かります。「みんな仲良し」と言っているからです。他の先進国もかつてそんな時代がありましたが、今では一番重要なのが「自立(インディペンデンス)」、次に「相互扶助(コントリビューション)」と相場が決まっています。これも成熟社会化への適応なのです。

 

成熟社会では、「みんな仲良し」的な教育は、逆説的なことに、人を平気で差別し、危害を加える人間たちを量産します。日本以外の先進国ではそのことが気づかれています。「みんな仲良し」には、成熟社会下で労働者に求められる資質の変化を越えて、もっと根本的な問題があります。ですがそれに気づかない人たちが日本では教員をやっています。

 

●おわりに

 

私が考えるに、学級崩壊の根っこは、荒木さんが仰言るより遥かに深いでしょう。今回は学級崩壊の背景に日本の学校教育制度の欠損ぶりがあると述べました。対論の行方次第ですが、追って、(1)「みんな仲良し」の犯罪性を証明し、(2)成熟社会に必要な新しい尊厳観と、(3)それに基づく承認のシステムと、(4)親や教員のバカが感染らないシステムのあり方を、すなわち処方箋を、述べて行きたいと希望します。

 

 

7月30日 荒木 肇 『学級崩壊』ではなく、破綻した『日本型教育システム』の処方箋を望む

 

先生たちは何に苦しめられているのか

 

まずもって、宮台さんの所論のほとんどに賛成致します。

 

私はまったくのデモ・シカ教師です。「高い理想」をもって教師になった訳でもなく、「知識を伝達」してやろうとか、「望ましい価値」を教えこもうとか思ったことは、まずありません。どうやったら、この偶然出会った「お客さんたち」と快適に暮らせるだろうかと、毎日そればかりを思ってきました。

 

そういう人間ですから、苦しそうな先生たちを見る度、何があれほどあの人を苦しめているのかと考えてきました。

 

その答は簡単です。「世間にはさまざまな価値観があることを知らない」「人間というものを分かっていない」「自分が正しいという信念を持っている」「自分が子どもより、いつも優位に立っていると誤解している」等々、およそ「先生臭い」といわれる特徴が、先生たちを苦しめています。

 

また、しばしば「優秀な先生方」が使う言葉に、抽象的な表現があります。「国際性」とか「心の教育」「個性重視」などのスローガンです。これらは、人によって勝手に解釈されるものであり、なかなか話し合いにもなりません。

 

さて、宮台さんのご教示により、多くのことが明らかになりました。

 

現状において、私たちがつき合っているお子さんたちには、いくつかの段階があるということですね。段階といっては価値づけるようですから、グループとしましょう。

 

まず、過剰に学校に適応している子(教師好みの優等生)
なんとか、適応して一見、大人しく見える子(普通の目立たない子)
そして、健全にも環境から学習して教師の指示に従わない子(荒れている子)
そういったグループに分けられそうです。

 

どの子どもたちも、社会の情報化の進展、あるいは近代成熟期に入ったおかげで、大なり小なり、その影響を「健全」にも学習しているということです。

 

そのことに気づかない「大人たち」に困らされています。

 

「学校は○○しない」「今の親は○○ない」「先生たちは○○しない」といったナイナイづくしの議論の被害者は、子どもたちと先生たちです。

 

●具体的で実現可能な処方箋を

 

そこで、宮台さんのような気鋭の社会学者に適切な処方箋を示していただきたいと思っています。私は、「理念や思想だけでは人は変わらない」ということを教育現場にいて学んできました。

 

まず、教員養成の問題。続いて教員の資質向上のための研修のシステム。教育現場の組織、運営の抱える諸問題。こうしたことを改革するべきです。

 

今までの学校教員養成のシステムを考えると、宮台さんの理論を借りると、「軍隊の下士官、監獄の看守」ということになります。学級経営等はさしずめ管理の側面だけが強調されてきたというわけです。また、学校の運営、授業の構造、生活指導その他もすべて人材選別、あるいは人材養成のためのものであったとなります。

 

さて、私は体験的に考えると、それがどれだけ的確に、効率よくなされてきていたのだろうかとひどく疑問に思っています。

 

まず、教育学部の卒業生たちは「持ち前の」人柄の良さの質と量だけで、子どもたちに接して、なんとかやってきただけという気がします。おそらくそれは、「教育」というものの限界を表していることではないでしょうか。その程度にしか過ぎないとも言えます。

 

私が見るところ、学校現場ほど「学歴」が通用しないところはありません。短大出であろうと、大学出であろうと、国公私立であろうと、一切関係がない。まさに実力主義であり、けっこう厳しい社会です。

 

次に資質向上の研修システム。これがまたどうにもなりません。私も初任者研修を始めとして、たくさんの研修を受けてきました。当初の、つまり若い頃の「授業の技術」や「学校運営についての知識」などはとても面白かったのですが経験を積むほどにつまらない内容が増えました。もっともつまらなかったのは、「視野を広げる」とかいうねらいの、民間の識者や作家、大学の先生などの講演です。

 

組織、運営では「社会の風」を入れるために、学区域の大人たちに協力を呼びかけています。ところが、学校の先生たちとの意識の違いが大きく、この調整に苦労するのが目に見えています。

 

「子どもを育てる」とはどういうことなのか、コンセンサスが明確ではないのです。現場の先生たちは、大学を出て「社会の現実」に初めて出会って、なんとか適応しながらやってきました。それがもしかしたら宮台さんの言われる「バカに感染する」ということなら、現場教師の意識改革はなかなか難しいと思います。

 

●「みんな仲良し」をそれほど現場教師は大事にしていない

 

先生たちはモメごとが嫌いなだけです。元来、人間はいるだけで周囲に迷惑をかけているのでしょう。それを何とか「上手に迷惑をかける程度」に抑えてくれと呼びかけはしますが、「誰のことでも好きになれ」と言うことはありません。

 

なぜなら、「異文化への寛容性」や「相互扶助の意識」を育てるのが学校の先生の仕事ですから、「仲良し」の意味が違うのです。

 

「みんな仲良し」は、むしろ学校の意見と言うより、社会の意見ではないでしょうか。フォーラムにも散見しますが、「社会への適応性」を望んだりするのが大人です。社会制度の中にある学校としては、むしろ、学校の社会化というのが今までの流れのような気がします。

 

「真面目にこつこつ」が好きな人もいますが、それは好みとして、「正しい」とは言わないでしょう。なぜなら、どんなに「こつこつ」やっても出来ないものはあるからです。これも、宮台さんが言うように、「社会全体が学校化」というより、その逆ではないでしょうか。

 

社会の中で学校教育に関心を持つ人の中には、ことさらに私たち現場にいる教師の実感から離れた意見を出す人が多いようです。私たちはむしろ、世間の方が(あるいは世論をあおる人達が)、どうにも「仲良し」とか「こつこつ」とかが好きそうな気がしますが。

 

学校や先生たちは、いま変わろうとしています。それに最も非協力的なのが、世論と言うごく一部の人の意見ではないでしょうか。

 

そのあたりの考察もしていただきたいと思います。

 

 

8月20日 宮台真司

 

前回の私の所論では、1.近代過渡期の諸要求に応えるために成立した近代学校教育は、近代成熟期を迎えると多くの部分が用済みになること、2.にもかかわらず、成熟社会化の変化に学校教育制度の改革が追いつかない場合「子どもが学校に適応しすぎると社会に適応できない」「教師が学校を守ると子どもを守れない」という逆説が起きることを述べました。

 

今回は前回の所論で予告した通り、(1)近代過渡期に均質な都市労働者を養成するために強調された「みんな仲良し」の、近代成熟期における犯罪性を証明し、(2)成熟社会に必要な新しい尊厳観と、(3)それに基づく承認のシステムと、(4)親や教員のバカが感染らないシステムのあり方を、処方箋的に述べてみたいと思います。

 

●「みんな仲良し」の犯罪性

 

「みんな仲良し」とは荒木さんがおっしゃるのと違って「誰のことも好きになれ」というメッセージではありません。一口でいえば「協調性重視」ということです。前回も述べた通り、幼児番組で「みんな仲良し」を強調するのは日本だけで、その他の先進国では、協調性よりも自立(インディペンデンシー)を、最優先価値にしています。

 

大人「君は何がしたいの」、子ども「ボクは◯◯がしたいんだ...」、大人「だったらちゃんと言わないと誰にも伝わらないぞ」、といったコミュニケーションです。どんな状況でも、誰が何をしていても言っていても、自分がしたいこと言いたいことを、きちんと表明できること。これが成熟社会段階を迎えたどの国でも採用している独立性の価値です。

 

ただ一国日本だけ例外です。日本の場合、親が子どもをしつけるときの「みんなが見てるでしょ」から始まって、遠足や運動会といった集団行事から学級運営の形式まで「一人だけで勝手なことをせず、みんな揃って一つのことをする」という、共同体的同調支援型の教育をやり続けています。何かというと協調性があるのないのとホザくのが学校教員です。

 

日本の学校でも「相互扶助の意識」を育てる仕事を教員がしているというのは間違いです。相互扶助=貢献(コントリビューション)は自立があって初めて可能だからです。この貢献は、ボランティアにも通底しています。日本では「奉仕」と訳されるデタラメが横行していますが、元は「志願兵」という意味で、自由意思での貢献者のことなのです。

 

だから自由意識の発露を重んじる自立(インディペンデンシー)のないところには、相互扶助=貢献(コントリビューション)は論理的にありえないのです。自由意思の発露が「わがまま」「調和を乱す」などと否定的に評価されるコミュニケーション環境で肯定されるのは、同調圧力に促された行動か、たまたま集団的価値に合致した自由意思だけです。

 

人々に協調を促すとき、必ず何らかの同じ前提を共有していることが当てにされます。もし自立よりも先に、協調を唱導するならば、論理的にいって、自分たちが同じ前提を共有していることを自明視していることになります。成熟社会における「みんな仲良し」教育の最大の犯罪性はここにあります。わかりやすい例をあげましょう。

 

伝言ダイヤルで出会った男からもらったクスリを飲んで昏睡死する事件が今年はじめに話題になりました。そこでは「だから匿名メディアが悪いんだ」という言い方がされていました。フランス人やアメリカ人がやっているホームページを見てみたら、日本人ってのは頭が悪いんじゃないかと、徹底的にバカにされていました。

 

「知らない人について行ってはいけません」「知らない人からもらったお菓子を食べちゃいけません」というのは成熟社会の基本常識です。それを逸脱する振舞いをしたならばすべて自己責任なのであって、匿名メディアが悪いはずがないじゃないか、と言うのです。こういう非常識なバカ(クスリを飲む者、匿名メディア批判者)はどこから生まれるのか。

 

また上記の伝言ダイヤル事件では、容疑者の男は、昏睡した女性をこのまま放置すれば死ぬかもしれないと思ったと供述しています。ではどうしたか。そのまま放置しました。私はこういう感受性を「仲間以外はみな風景」と呼んでいますが、こういう感受性は街頭キスから街頭ジベタリアンまで含めて、若い世代の「恥知らず」の背景にあります。

 

この「非常識なバカ」や「恥知らず」は、皮肉なことに、日本的な伝統なのです。「みんな仲良し」に象徴される共同体的伝統は、「郷に入りては郷に従え」と「旅の恥はかき捨て」という二重規範(対内道徳・対外道徳)を必然的に伴います。若い世代は、年長者に比べて「みんな」の範囲が小さくなったので、日常全般が「旅」になっただけです。

 

しかし、成熟社会では、同じ前提を共有することを当てにできる「仲間の範囲」が小さくなることは不可避かつ不可逆です。もし成熟社会で協調性重視型の教育を続けるならば、論理的にいって犯罪的な帰結を生みます。なぜなら、仲良くできない=同じ前提を共有するとは当てにできない人間たちが、社会の大半を占めることになるからです。

 

何が幸いか、何が良きことなのかが人それぞれになる成熟社会では、「みんな仲良し」どころか、仲良くできない人間たちとお互い侵害し合わずに共生するために、どのような想像力やルールが必要なのかが学ばれなければなりません。そのためには形だけの協調や同調は百害あって一利なし、まず自分は何がしたいのか互いに言えなければなりません。

 

●成熟社会に必要な新しい尊厳観

 

まず、人の尊厳について二種類の考え方があり、それにそって国についても二つの考え方があるということです。一方に、尊厳とは崇高なるもの・大いなるものとの一体化で得られる自尊心だとする尊厳観があり、他方に、尊厳とは社会関係の中での自由な試行錯誤の積み重ねで得られる自尊心だとする尊厳観があります。

 

どちらの尊厳観も人類の誕生とともに古いですが、思想的に洗練されたのは、前者の「依存的尊厳観」は19世紀のドイツ国法学、後者の「自立的尊厳観」は18~19世紀のイギリス自由主義哲学です。前者は大陸系合理論、後者は英米的経験論の系譜に属します。前者は枢軸国的(後発資本主義的)、後者は連合国的です。

 

この分岐は愛国心についての考え方にも関わります。国法学的考え方では「大いなるものとの一体化」の対象イコール国家、となります。自由主義哲学的考え方では、「自由な試行錯誤」を支える公共財は歴史の中で血によって購われてきたものだから、タダ乗りは許されないし、これを守る行為は尊いという発想になります。

 

たとえばアメリカ人が戦争をする場合は「自由のために」という。国家よりも先に、国家を通じて守られるべき我々の自由な尊厳があるという順序です。この尊厳は多くは宗教的なもので、こうして聖俗が分離しています。逆にいえば「自由のために」は宗教的根拠のある正義なので、場合によっては恐ろしいほど独りよがりです。

 

イギリスやフランスやアメリカは、市民革命や独立革命を通じて自由のための公共財を市民自らの血で購ってきたという歴史=物語が信じられているので、公共財としての国家に、タダ乗りしようと思えばできるのにあえて命がけで守ろうという意思が、崇高なものだと感じられやすいというアドバンテージがあります。

 

でも「GHQの検閲によって検閲なき社会を作った」日本の場合、市民の自由のために必要な制度が、改憲主体たる天皇であれGHQであれ、上から与えられ、自らの力で勝ち取ったものではないので、自分たちの自由が公共財によって支えられているという意識が薄く、それを自らがコストを払って支えるという意識が持てません。

 

加えて「GHQの検閲によって検閲なき社会を作った」ことは、形式上は連合国と遜色ない制度ができたように見えながら、その制度を生きる人々が全員、自立的尊厳観ではなく、枢軸国的な依存的尊厳観を生き続けています。これは深刻なネジレです。だから民主的であるような、ないような、変な社会です。

 

ある地方都市のテレクラ規制条例を要求する署名運動を取材したとき、驚いたのは、テレクラユーザーである男女ばかりかテレクラの店長やオーナーまで、居住地で回ってきた回覧に署名しているのです、署名しなかったら何を言われるか分からないから。自立的尊厳観が生きられない場所では、署名は民意の集計にはなりません。

 

売春する子を取材すると、お客の男は10人が10人自慢をするといいます。学歴や一流会社の社員であることの自慢だったり、年収や車や持ち物の自慢だったりする。女の子は一応「わあ、すごーい」といってあげますが、内心「バカじゃん、コイツ」と思う。大人の多くが、自分でないものを、自らの尊厳の糧としている訳です。

 

日本で、あなたのアイデンティティは何かと尋ねると、会社だ、家庭だ、学校だと所属対象を答える人が大半です。つまり言葉の意味を理解していない。アイデンティティとは、会社をクビになっても家庭が崩壊しても、自分は自分だと言い続けられる根拠です。自立的尊厳観を生きる人がいないから誤解が生じるのですね。

 

こうした「所属のゲタを履く」生き方は、もともとムラの共同体文化を超越するような社会形象をもたなかったゆえの伝統ですが、明治5年の学校教育令から明治32年の高等女学校令にかけての近代学校教育による国民化の流れの中で、個人が所属する最高の共同体は国家であるという思考枠組が刷り込まれて行くことになります。

 

日の丸・君が代問題の背後にもありますが、確かに今の日本には、共同体の縮小や流動化に伴うアノミーが起きています。そこで論理的には二つの処方箋が出てきます。一つは、共同体主義ないし「みんな仲良し」の力が失われたから復活しようというもので、いわゆる保守論壇は100パーセントこれになります。

 

もう一つは、共同体を過剰に頼らないで済むような、制度的なメカニズムと人格的な生き方を樹立しようではないかという処方箋です。前者は、依存型自尊心を前提とし、後者は、自立型自尊心を前提とします。あとで補足しますが、後者は厳密には共同体と対立するものではなく、自ら必要な共同性を選びとる可能性を含みます。

 

依存型自尊心と、自立型自尊心。どちらがいいかは価値観の問題で、論理だけでは決着できません。でもポストモダンとも呼ばれる近代成熟期においてどちらの価値観が適合的なのかは、科学的な立場から論じられます。それにはまず、枢軸国が依存型自尊心を愛国心として利用した理由を押さえる必要があります。

 

一つは、市民革命の経験がないからです。市民の自由が第一義で、国はそのために奉仕する二義的なものだとする思想がない。もう一つは急速な産業化です。伝統的共同体から切り離された寂しい都市労働者が急増したアノミーを、国家を自然共同体とみなすアクロバットで吸収すると同時に、頑張る動機づけを与えた訳です。

 

さて近代成熟期とは、産業化つまり第2次産業重視型の段階から、情報化つまり第3次産業重視型の段階に変わることです。すると第一に労働時間が短く、消費の時間が長くなります。労働重視の時代には打って一丸となるので良かったのですが、消費重視の時代には個人的な楽しみを見つける試行錯誤が重要になります。

 

第二に、近代過渡期(産業化の時代)には、物の豊かさを追求する追いつき追い越せで、国民的に合意された目標や価値がありえましたが、近代成熟期(情報化の時代)には、物の豊かさを達成したあと、何が幸いなのか、何が良きことなのかが、人それぞれに分化することになります。これも個人的な試行錯誤の必要性を高めます。

 

第三に、産業化の時代には日立・三菱・東芝といった重電産業が国策もあって尊重され、企業寿命も長かったのですが、情報化の時代になると、たとえばマイクロソフトという超大企業であっても、5年後いや来年あるかどうか分からない。所属を頼る依存型自尊心は、企業社会の流動性上昇によって梯子を外されやすくなります。

 

要は、近代過渡期から近代成熟期にシフトすると、一口でいえば産業構造が大規模に変わってしまうために、たとえ旧枢軸圏においてさえ、依存型自尊心よりも自立型自尊心のほうが、低いコストで、より大きな実りを得やすくなります。確かに価値観の問題だけど、適合性は社会システム理論の立場から科学的に確定できます。

 

だからこそ70年代に入って近代成熟期を迎えた先進国の多くは、学校教育を変え、従来の協調性を重視する一斉カリキュラム型をやめて、自立と相互扶助を重視する個人カリキュラム型にシフトします。そして今見渡してみると、一斉カリキュラムや「みんな仲良し」教育をやっているのは、ただ一国、日本だけになっています。

 

●おわりに

 

今回は、予告しておいたもののうち、(1)「みんな仲良し」の犯罪性を論証することと、(2)成熟社会に必要な新しい尊厳観を確定する作業だけで終わってしまいました。次回はこうした問題を踏まえて、とりわけこの日本という文化的土壌の中で、(3)新しい尊厳観に基づく承認のシステムや、(4)親や教員のバカが感染らないシステムを、どう構想できるか議論していきたいと思います。

 

 

9月3日 荒木 肇 「学校現場で生きること」

 

●学級崩壊は過去にはなかったのか

 

『学級崩壊』は当然起こるべくして起きた。そういう社会システム上避けられない現象なのだというご主張はよく分かりました。しかも、量の増大だけではなく、質的なものに注目せよということだと思います。しかし、量的な増加についてもそうですが、質的なものもそれほど過去と違っているでしょうか。学校現場にいますと、昔から「力のない」教師のクラスは荒れていましたし、どうにも先生になるのは無理だという教師の割合も変わっていないような気がしています。

 

ところで、私は就職した当時から、どうにも学校現場に違和感を感じてきました。それは、やはりご指摘の通り「協調性重視」に支配されている学校や、教師の仕事に疑問を感じ続けていたからです。

 

私にとっては「どうでもいいのではないか」と思えるような優先順位が低いことでも、けっこう他の先生は真面目にやっているとか、職員会議でも本音が出にくいとかいうことがありました。「私はこう思う」などときっぱり発言すれば、「態度がでかい」「生意気だ」と陰口もたたかれたりしました。

 

ところが、そういった私が、日々の学校生活の中で孤立したり、意地悪をされたかというと、そういうことはほとんどありませんでした。つまり、大方の先生は、けっこう私の言うことや学級の中でやっていることを支持してくれました。それどころか、率直に互いの試行錯誤の結果を話し合ったり、互いの工夫を学び合ったりするのが、ふつうの状態でもあったのです。

 

もちろん、教師の中にはそういう仲間には入らず、唯我独尊、あるいは孤立しているという人もおりました。しかし、それはどこの職場にもいる不適応な人、あるいは人の話を聞けない人に過ぎません。「そういう人はしばしば、学級内にもめごとを起こし、周囲に迷惑をかけ、それがまた気に入らないのか、職員室でも不機嫌に当たり散らす」というのはよく聞く話です。

 

では、そうした人の割合が増えているか...というとそうでもありません。ただし、実際に問題を起こす教員の年齢層が偏っている実感はあります。ある時代、大量に採用された人たちの中から多くの学級崩壊は起きているように思えます。

 

ある新聞社が刊行した本の中には、さまざまな事例が報告されていますが、その先生たちには共通点がありました。また、テレビで放映された学級崩壊の現場ルポに登場した先生たちは、みな、私が見るところ「教師臭い」人ばかりです。この人たちの特徴は次の通りです。

 

子どもたちの人格支配をしたがる(自分の力を過信し、熱意に燃える)
ひいきをする(自分と似た価値観の子どもばかりを引き立てる)
守れない約束をする(その場ごまかしの嘘をつく)
授業ができない(子どもに自由な発言を許さない)

 

こうした学級崩壊の事情は、もうとうの昔に分かっていたことです。具体的な失敗例は、大方の先生が十分に見聞きしています。それでも、学校に先生が30人もいれば、目の前の事実や具体例から学べない人が1人や2人いてもおかしくありません。

 

私が大変恐れるのは、最近の論調のように「どこでも、どんな教師でも起きるのが当たり前だ」というように不安があおられることです。また、その不安にかられて、実態を十分見据えることなく、雪崩現象で「うちも同じだ。うちの子どももそんな先生にもたれている」と思い込む人たちがまた増えてしまうのではないか...ということです。

 

こうした議論に必ずつきものの「犯人探し」にも困らせられますが、さいわい、今回の犯人は「日本型教育システムの行き詰まり」ということになりそうで、学校の先生には責任がないというような論調になっています。しかし、私の立場からすれば、それもまた実態を見ないという点では文部省の言う「地域の教育力の復活」というまとめと大して変わりはないように思えます。

 

●学級崩壊で子どもの力関係への配慮が利かなくなる

 

学級崩壊は子どもたちにとって大変不幸な事態です。なぜなら、子どもたちは生身の人間であり、教師の統制が利かなくなれば、子どもたちの中で力関係による強者の支配が起きるからです。

 

子どもたちはそれぞれの家庭の文化を背負っています。弱肉強食、あるいは適者生存といった価値観を親や周囲から吹き込まれている子も珍しくありません。中には「いじめは互いを鍛えるもの」といった貧しい人間観をどこからか手に入れてくる子どももいます。

 

社会の風を学校に...という脳天気な主張をする人もいますが、社会の風潮なら当然、十分に学校に入り込んでいます。算数の計算ができる、国語力が高い、教科書の問題など簡単に解けるといった、およそごく一部分の能力を自分の価値観の尺度にして教室にいる子どももいます。あるいは、家庭の収入が高い、親に学歴がある、難しい中学入試の問題が解けるといったことを自慢する、宮台さんがおっしゃる「援助交際」のおやじたちとそっくりな価値観の子どももいます。

 

また、社会の中で底辺にいる階層の子どもたちも多種多様です。私たちは、マスコミも含めてつい「ふつうの子、ふつうの家庭」などと言いますが、そんな夢物語を元にして現在の学校教育を語ってはなりません。

 

学級崩壊とは、教師が善悪を判定できない状態です。子どもたちはそれぞれの価値観に従って、自分むき出しの生の行動をとるようになります。気弱な子どもは暴力にさらされ、大人社会の強者と同じように他人の痛みが分からない子どもが言いたい放題をします。強い子どもも幸せではありません。いつかそうした事態が収まったら、今度は厳しい仕返しを受けることになります。学級担任が代わる、学年編成が変わるといったことで、たいていの荒れは収束し、子どもたちの成長によって力関係も変わるからです。

 

●市民はもっと謙虚に学校現場を語ってほしい

 

「学校現場を知らない人は口を出すな」などというケチな了見でものを言っているつもりはありません。そういう点では、私だって全国の小学校を知っているわけではないからです。ただ、同じ土俵に乗って、学校教育を語るためには、自分だけの思い込みや好みで語るべきではないという最低限のルールがあるだろうと思っています。

 

学校は聖域ではありません。遠慮なく提言をしたり、要求を出していったりするべきですが、社会の実態や制度の本当の姿を、自分でも責任の一部を引き受けながら発言をするといった謙虚さが大切ではないでしょうか。

 

社会人教師の採用といった試みも語られています。大変いい思いつきですが、そういった方々は子どもの前で語るといった資質をお持ちなのでしょうか。パソコンや技能の授業などで講師として指導に当たる、そうすれば雇用の問題も解決できると文部大臣はおっしゃいますが、そういう一石二鳥の名案は滅多にありません。おそらくたいていの方は、いつも人から見られるという職業のしんどさに驚かれることでしょう。多種多様な子どものエネルギーに圧倒され、学校というところへの認識も変わることだろうと期待もしますが、同時にその尻拭いをする担任たちにも同情します。

 

先日ある新聞社から電話取材を受けました。小学校の不登校児の数が2万人を超えたという話でした。私からすれば、「大したものじゃないか」というのが実感です。なんだかんだと言われながら、子どもは学校が好きなんだなと微笑ましく思いました。

 

全国に小学生が750万人、そのうち不登校児はわずか2万人です。学校が好き、授業が好き、先生が好きという子どもの数は圧倒的です。2万人という数は、750分の2、大規模学校で2人という割合にしかなりません。新聞の語調に比べて大した問題ではないと私は考えました(本当を言うと、2万人という数字はやや少ないくらいだろうと思います。統計の取り方、不登校をどう定義したかで数字はずいぶん変わりますから)。

 

記者さんは大変ていねいに私の意見を聞いてくれましたが、翌々日の紙面を見ると、そこには東京都の小学校の先生の「日本型教育システムの崩壊」という意見が載っていました。世間というよりマスコミの偏りがよく分かりました。

 

●学校現場には独自の論理と事情が

 

大学教育は教育に関する思想や理念だけは教えてくれました。それは、教員採用試験に合格するためには役に立ちますが、子どもたちと暮らす生の社会にどうぶつかるかについては、まるで関係ありません。

 

それなら、一般社会も同じだという反論がすぐ聞こえてきますが、銀行員や商社マン、自営業者、製造業に従事する人、その他「市民」と美称される人たちと教師との決定的な違いは、職業の専門性をまわりからあまり認めてもらえず、誰からも居丈高に振る舞われてしまうところです。とりわけ、小学校の先生は知識人でもなく、専門職とも思われていません。

 

また、「市民」はすぐに保護者として、あるいは「世間」と称して団結できますが、学校の先生は特殊な人々として市民の仲間には入れてもらえません。それだけに、「市民」や「知識人」の指摘には悩まされています。

 

「こんな簡単なことなのに、先生たちは分かっていない...」という方々がよくおられます。その通りです。本当に簡単なことができません。でも、なぜできないのかの実態を洞察するのは難しいことです。

 

以前も新聞の投書欄に、「忘れ物の貸し借りを認めないのはイジメの原因になる」といった主婦の方からの発言がありました。それもやはり、「こんな簡単なことなのに」という語調でしたから、よく記憶に残っています。私たちからすると、「忘れ物にも多種多様なものがあり、その都度それに応じた判断を要求されるのです」と言いたくなります。投書の忘れ物とは、確か家庭科の実習に使うものでした。それなら絶対に貸し借りを認めてはなりません。

 

子どもの中には学校から渡されるプリントを親に見せない子もいます。また、学校教育に関心の薄い親の中には、それを見ない人も多いのです。お金のかかる材料を買わせない人も珍しくありません。一括して材料を買おうにも、集めている学級費にも限りがあります(保護者の教育費負担を減らせというのが行政の至上命令ですから)。そこでやむなく、各家庭にお願いして現物を持参してもらうのですが、これが絶対うまくいきません。先生の方でよほど注意しておかないと、いつも「取り上げる子」、いつでも「借りられる子」が出てきます。そこで、原則として貸し借りはさせないというのが先生たちの考え方です。

 

素人の方の思いつきはたいていが経験論や、単純な善悪論になりがちで、学校現場での複雑な事情を理解していただくのは大変なことです。教育は全国民の関心事になっていますから、誰もが口を出すことができるという安心感があります。また、誰もが学校教育の被経験者だということ、社会の中でも教育者経験をもてるということから事情に通じているような気になります。それになによりも、教育とは知識や技能を教えることであり、それ以上のものではないと思う人が大部分なので、いわゆる分かったようなことが言えてしまうのです。

 

●世間の価値観は教育現場には入れられない

 

教員がバカで市民が利口か、ちょっと過激になりますが、宮台さんの言い方に倣ってお話を続けます。もちろん、「教員や親のバカ」とも宮台さんは明言されていますから、一般の大人も早く夢から覚めよという意味でしょう。

 

私もそれと同じスタンスです。そして多くの先生たちも同じように、外野からのあれこれについてうっとうしい思いを抱いています。

 

まず、傍目八目の有効性は、競技者と評論家が同じ技能か知識を持っているから成り立つものです。碁に口を出す人が、五目並べしか知らないというのでは話になりません。これをかりそめに現在の学級崩壊論議に当てはめてみると、教育現場の実態にまるで疎く、想像力も欠如した人が、自分たちばかりが何でも知っているかのように次の手を指図するといった事態が見えてきます。分かっていない傍目が多すぎます。

 

このことは、教育について語る人は多くても、子どもの実態について無関心であるということにつながってきます。

 

「教師は何をやっているんだよ」という憤りの混じった評論家たちや大学の先生たちの発言をきくたびに私は日本の教育、大学教育の薄っぺらさを思います。

 

宮台さんのお説の通り、子どもたちは世間から学習し、学校の教師たちの言う大切なことにあまり価値を置かなくなっています。それでも、大方の先生たちは、「せめて、生の社会の価値観ばかりを身につけてくれるな」と願っています。それも含めて教員がバカと言われては身も蓋もありませんが、弱肉強食、適者生存、効率追求、利潤第一といった世間の価値が流れ込んでくる中で、押しつけはいけないと自分に枠をかけながら教育実践をしている人は珍しくありません。

 

これに対して、市民や世間はどう応えているのでしょう。市民参加の政治を訴えていた某党首は、現場の末端の役人に向かって怒鳴り散らし、相手の話も聞かず、それに反省もしていないという実態を晒しました。

 

実は、日本で市民というのは、そこそこに自分に知性があると自認し、自分ばかりが正しいと思いかねない、そして他人の痛みが想像できない人のことでしょう。ついでに意見発信の場所も、機会ももっているという人に違いありません。まさに他人の尊厳が認められず、連帯感のない社会になっていると思わざるを得ません。

 

そうした中で、多くの学校現場では新しい試みがなされています。学級の壁を取り払い、学年全体の指導を各担任が行う、複数の教員が授業の中でチームを組んで指導するなどの実践です。これは学級崩壊を防ぐというような対症療法ではなく、そうした方が子どもも先生も楽しく学校生活を送れるからです。子どもたちの実態に沿った指導システムの開発と言えます。

 

学校は今、大きな変革期を迎え、努力しています。

 

ぜひ、冷静な議論をお願いしたいと思っています。

筆者プロフィール

荒木 肇 (生涯学習センター 常任理事)

1951年生まれ。横浜国立大学教育学部教育学科卒業。横浜国立大学大学院修士課程(学校教育学専修)修了。横浜市の小学校で教鞭をとるかたわら、横浜市情報処理教育センター研究員、横浜市小学校理科研究役員、横浜市研修センター委嘱役員等を歴任。1993年退職現在、民間教育推進機構常任理事、生涯学習研究センター常任理事、聖ケ丘教育福祉専門学校講師(教育原理)。
著 書 :『教育改革Q&A(共著)』(パテント社)、『静かに語れ歴史教育』(出窓社)、『「現在(いま)」がわかる―学習版現代用語の基礎知識(共著)』(自由国民社)、『自衛隊という学校―若者は何を学び、どう変わったか』(並木書房)、『先生が変われば子どもが見えてくる―体験的教育論からの脱却(仮題)』(並木書房より近刊予定)



宮台 真司 (東京都立大学人文学部社会学科 助教授)

1959年生まれ。東京大学大学院博士課程修了。東京都立大学人文学部社会学科助教授。社会学博士。援助交際、オウム真理教、酒鬼薔薇聖斗事件、少年のナイフ事件などの現代のさまざまな社会風俗、事件を社会学的に考察する気鋭の社会学者。
著 書: 『権力の予期理論』(勁草書房)、『制服少女たちの選択』(講談社)、『終わりなき日常を生きろ』(ちくま文庫)、『世紀末の作法』(メディア・ファクトリー)、『まぼろしの郊外』(朝日新聞社)、『透明な存在の不透明な悪意』(春秋社)、『これが答えだ!』(飛鳥新社)、共著に『サブカルチャー神話解体』(パルコ出版)、『学校を救済せよ』(学陽書房)、『<性の自己決定>原論』(紀伊國屋書店)など。

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