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小さな兵士、子どもの戦争ごっこを考える

要旨:

テロ事件が世界のあちらこちらで起き、そのニュースで多くの子ども達がテロへの恐れを抱くようになっている。幼い子どもの恐れや不安を軽くする効果的な方法はごっこ遊びであり、どの国の子どもにも効果的である。しかしながら、子ども達が暴力や死の意味をどう捉えるかは、子どもが精神的発達のどの段階にいるかによって違っているということを理解している親はほとんどいない。その結果、幼児の戦争ごっこは間違った捉えられ方をしているのが一般的である。

 

はじめに


子ども達がテレビで見聞きすること、特に世界規模の対テロ戦争に関する話に好奇心を持つのは自然なことである。そのため、多くの子どもが父親や母親に次のような質問をする。親が戦争に行ってしまったら、子どもの面倒は誰がみてくれるの?お兄さんやお父さんは戦争に行かなくてはいけないの?列車がテロの標的だとしても列車に乗るの?最後の質問は、日本の親たちに東京の地下鉄で起きたテロ事件を思い起こさせるだろう。神経ガス、サリンが撒かれ、死者は12名、負傷者は5,000人にも上った。たった1ミリグラムのサリンが致死量となるのだ。

 

どの親も、あり得る危険に対するこうした子ども達の質問に完全には答えられないが、子ども達の意識を高め用心するように仕向けること、安心させるように努めることはできる。こうした目的に役立つよう、この論文では子ども達が死をどう定義しているか、戦争ごっこを子ども達が喜んでするのはなぜか、親たちが思ういい行動とは、について説明していこうと思う。親たちが子ども達の動機を正しく理解して、玩具やテーマを好きなように選ばせる、子どもは自分たちでごっこ遊びを展開させ、そこに親も参加することができたら、誰にとってもいいことだろう。

本物の戦争と戦争ごっこの違い


テレビの戦争シーンは子どもにどんな影響を与えるか、親たちは心配している。玩具の武器を使っての遊びや戦争のゲームを子どもに許すかについて迷っている親もいる。バーバラは二人の幼児のいる35歳のお母さんである。テロの不安が世界中に広がる前から、彼女とその夫は暴力的な玩具は犯罪を助長すると信じていた。「武器の玩具を持たせないという私達の考えを子どもに理解させるのは難しいと知っていました。多数派の意見に従って許したら楽だと思いますが、私達の価値基準を下げることになります。」と語っている。

また別の母親デニスは、10歳になる息子のベンが誕生日にレーザー光線鬼ごっこセットをもらったとき、どうしようかと心配した。このセットでは、ゲームの参加者全員が赤外線の光線を発する銃をもって遊ぶものだ。敵側の、赤い「星型のセンサー」を狙って銃を撃つ。センサーに命中するとライトが光り、電子音がひとしきり鳴る。6発当てられると、センサーがゲームの終わりを告げる。発射される光線は本物のレーザービームではなく、無害な赤外線の光線で、子ども達が暗闇で遊べるようにできている。「相手が撃たれたのがはっきりわかる鬼ごっこをしたのは初めてで、そこがとても気に入っている。」とベンは言っている。デニスは相手をつかまえるのが、殺しの真似っこになっているし、それで達成感を味わうなんて、もう遊びとは言えないと感じている。戦闘を繰り広げて遊ぶテレビゲームについても同じような感想を持っており、空港を爆破しようとしているテロリストと銃撃戦を繰り広げるゲームについては特に強くそう感じている。

親たちと話しているうちに、多くの親が子どもの戦争ごっこを止めさせようとしていることを知った。戦争ごっこは、子どもの攻撃性、衝動的行動を助長し、命の大切さを軽んじるようになると考えている。子ども達が、愛国心ゆえの結果であれば、敵をやっつけることは正義にかなうものであり、戦争を厭わないと考えるようになるのではと心配しているのだ。子ども達のごっこ遊びを観察するまでもなく、あまりに多くの犯罪がテレビや実際の地域社会で起きている。

死に対する子どもの理解


子どもの戦争ごっこに反対する親は、意見の衝突を解決する方法として武器を使用するのはよくないことだと子どもにわかって欲しいからだとその理由を説明する。子ども時代に玩具の銃で遊ぶと、大人が期待するように、公平な裁判や「疑わしきは罰せず」の理念に従うのではなく、手っ取り早い仕返しに走るようになるのではと信じている。4歳の子の母親ジェーンも同じような心配を抱いて、以下のように語っている。

自分の子どもがカウボーイになりきり、同じくカウボーイの友達に向かって「これからピストルを持って彼らをやっつけに行くから」と話しかけているのを聞いてしまったとき、私はすぐにでも「ダニー、本当にそう思っているわけではないでしょ。」と言いたい気持ちに駆られました。そこでちょっと落ち着いて、子どもを座らせ、「誰かを殺してしまったら、それで死んでしまって、もう二度と生き返らないのよ。」と言い聞かせようかと考えました。そこでまた、ここで息子が他の子と銃で遊ぶのを禁止したら、自分はとっても乱暴だから他の子とは違う玩具が必要だと両親が考えている、といった印象を息子に与えてしまうのではと躊躇してしまったのです。結局、どうしたらいいか、どう言ったらいいか何もわからなかったので、息子の言葉を聞かなかったことにして、しばらくの間、罪の意識を感じ続けました。

ジェーンのジレンマは、多くの親が感じているものだ。小さな子が殺人や死についてしゃべるとき、実際にはどんな意味でその言葉を使っているのか、もっと注意深く観察してみれば、問題がさほど深刻ではないことがわかると思う。幼児は死が、可逆性のプロセスであると認識している。かくれんぼで遊んでいても、カウボーイとインディアンごっこをしていても、死んだ人間はすぐに復活して、また以前と同じように生き始めると思っている。昔からあるテレビマンガがこうした考え方を強めているのだ。高い崖から転落し、地面に体を打ちつけたウサギが生き返る、こうしたシーンで子ども達は死とは可逆的なものであり、死んでもまた生き返ることができると考えるようになる。ある番組で死んだはずの俳優が、トークショーのゲストとして奇跡的に復活しているのも子ども達を混乱させる。幼稚園の子どもとお父さんの会話をあげてみよう。

子:兵士のような格好をしてみるね。
父:本当だ。兵士みたいだ。お父さんも戦争に行ったことがあるんだよ。
子:なぜ?
父:国のために行ったんだ。戦争をしてたんだよ。
子:お父さん、死んだの?
父:いいや、運よく死なずにすんだ。

死が永遠であるという認識は、発達段階によって異なっている。3歳から5歳までの間は、死について好奇心がいっぱいで様々な質問をする。多くの大人がこの好奇心を押さえ込んでしまい、ご近所のお年寄りに、「いつ死ぬの?」などと子どもが聞いてしまったら失礼だと思っているのは残念なことだ。逆に、何世代も前の時代には、祖父母の死に際し、死の床で繰り広げられる出来事を子ども達が目撃するのは普通のことだった。現在は、そうした機会もなくなり、子ども達は死んだらそれで終わりとは考えられなくなった。死は活発でない状態、眠っている人が起き上がるように、人が旅行から帰ってくるように、亡くなった人も再び生き返ることができると考えている。棺の中は動きづらいが、死んだ人でも食べたり呼吸をし続けているに違いないと想像している。お墓の中に埋められた人でも、地上で何が起きているかは知っているのだろう、自分の身を憂えていて、生きている人が思い出してくれると、それがわかると思っている。死は幼児を不安にさせる。お墓の生活は退屈で、愉快ではなさそうだからだ。多くの子どもにとって一番悲しいのは、死によって他の人々から切り離されてしまうことだ。この発達段階においては、親からの別離が一番大きな恐怖である。

幼児は自己中心的で、現在起きていることで頭はいっぱいである。そのため、家族の死が自分の将来にどんな影響を及ぼすか、もう永遠に会えなくなってしまうこと、慰めも愛も励ましも、経済的援助も受けられなくなってしまうこと、そうしたことを何も認識できない。もっと大きくなって初めて理解できることだ。そのため、小さな子どもはすぐに自分の悲しみを表現できないし、大人の親戚や友人たちが泣くように泣いたりもしない。実際、子どものこうした態度により、子どもは愛するものの死を感情的にうまく対処できていると大人が誤解してしまうのも、よくあることである。しかし、幼児は状況を理解できないし、悲しみを長期にわたって耐える力もないということをよく理解しておいてほしい。子どもの気持ちは容易に他に移るので、悲しみに暮れたり死を悼んだりする期間が短くみえるが、彼らの悲しみが癒えているわけではない。

とても小さな子どもでさえも、悲しんでいる人を慰めるのは言葉ではなく、ただそばにいて寄り添ってあげることだと知っている。一つ例を挙げる。4歳の女の子、アマンダはお母さんが呼んでも裏庭からなかなか戻ってこなかった。「どうしてそんなに遅くなったの?」と聞かれて、「ジュディを慰めてあげていたの。」と答えた。わけの分からない母親がさらに「何をしていたの?」と聞くと、「ジュディの人形の頭が壊れちゃったの」とアマンダ。「直すのを手伝ってあげたの?」と聞く母親に、悲しみというものをよく理解しているのがわかる言葉を返した。「ジュディが泣いている間、ずっと傍にいてあげたの。」

5歳から9歳の子どもは、概して、死を具現化して捉えている。天使が夜の間、家々をまわってある者には命を、またある者には死をもたらしていると考えている。最初の死の認識の段階とこの段階への変化は、死というものがおそらく最終的なものであるということがわかってくることである。死は命がレベルダウンした状態ではないということがわかってくる。個人的な体験を積み重ねるうちに死の概念が形成されてきて、死による別れが永遠のものであるとわかってくるのである。ペットの金魚が死ぬとお母さんが、もう生き返ることはないからと新しい金魚を買ってくる。Claude Cattaert は『金魚はどこにいくの?/ Where do Goldfish Go? 』(1963)の中で、ペットの動物の死に鈍感で、死んでしまったらまた新しいペットを買えばいいという大人の態度は、どんなに子どもを当惑させているかを述べている。バレリーの金魚が突然死んでしまったとき、彼女以外誰もあまり気にしなかった。おじいさんが亡くなったときは、ずっと前から予測できたこととはいえ家族は悲しみを克服しなければならなかったのに・・・。

死に対する子どもの感情に気づき、思いやりをもって接しなくてはいけないのは何も家族だけではない。私は、幼稚園と小学校の一年生の先生になるために勉強中の学生と話す機会があった際、「ある朝学校に行ったらクラスの金魚が死んでいたとしたら、どうしますか?」という質問をしてみた。その答えは以下のものをはじめとして様々だった。「今日は金魚の死を悼む日とする」「埋葬する」「死んだ金魚を悼む」「金魚の死後の世界を考える」「感謝状をあげる」「人間の死とその意味について考える」「金魚をトイレに流してから、さあ本を取り出して読書の時間だよという」。

もしペットを飼っていたら、子ども達がまだ小さい内にペットの死に直面することもあると親たちはわかっている。それでいて、子ども達がテレビで「死」に接する機会はなるべく減らしたいと願っている。親たちは子どもを守ろうと、探偵や刑事ドラマを見るのを禁止し、攻撃的なマンガについてはその内容をチェックする。また、暴行や殺人にいたった犯罪行為を事細かに報告するローカルニュースを見せるかについてもあれこれと迷う。

5歳から9歳までの平均的な子どもは、死の原因は外部からもたらされるもので、死を外からやってきたものとして擬人化する。死を「人」として受け止めているので、対抗手段がとれれば、死を避けることも可能だと考えている。そのため、ある子どもが「家族がおじいちゃんをよく介護しているので、おじいちゃんは死なないだろう」と思っていたとしても不思議ではない。一人親の子どもは「お母さんが死んだら私はどうなるの?」と心配になると告白している。自分では予期できない親の死に対し、何か対策がとられているなら、それを知って安心したいのだ。

9歳から10歳になると、子どもはやっと、死はもうこれで終わりと言うだけではなく避けられないものだとわかってくる。どんなに賢くても、どんなに気をつけていても自分もやがては死ぬということもわかってくる。外部の要因により死はコントロールできるという想像に代わって、人の内的な生物的な原因も関係していると認識するようになる。子どもが、死は誰にでも確実に訪れるものであるということを認識するにつれ、ある変化が子どもに見られるようになる。人生の意味、生きる目的、その目的を達成する方法について考え始める様子がわかる。価値観をもって行動するようになるのだ。

世界の多くの地域では、死や破壊の恐怖の真っ只中にいる子どももたくさんいる。テレビで日々死を見るため、戦争はありふれた恐怖となっている。子どもは大人に答えを求めるが、大人の態度こそが一番大事な答えである。人は死んだらどうなるか、個人的に信じていることを教えたくなるだろうと思う。しかしながら、そうしたいときには、子どもは神秘的なことが好きで、不思議で不確かなものに対する大人の感覚をそのまま信じ込んでしまいがちであることをよく心に留めておいて欲しい。

玩具に対する子どもの考え


大人が子どもに与えたがらない玩具はたくさんある。暴力の象徴として兵器の玩具を嫌う親もいる。少しでも危険がある玩具を嫌う親もいる。衝撃で壊れるが、すぐに再生するクラッシュカーは、安全性を軽んじるようになるのではと考えられている。また格闘家の人形については、紛争を解決するのに理性的でない方法に頼ってしまうようになるのではと心配する。こうした懸念を抱く親は、自分たちの価値観が反映された玩具を子どもに買い与えたいと思うと同時に、子どもにも自分の価値観を養えるよう意思決定の機会を与えたいという、相反した願望を抱いている。遊んでいるときに意思決定ができないとしたら、どんなときにできるというのだろうか。

親は、子どもを学校に行かせるべきか、お医者さんにかかったほうがいいか、寝かせつける時間は、など子どもに代わって様々な意思決定をしている。子どもの楽しみや玩具にどのくらいのお金をかけるかを決めるのも親である。子どもも一貫した価値観を持つべきだと主張する一方、子どもが自分で選択する訓練をするのを否定するのでは筋が通らない。その結果として、子どもに玩具を買おうとするときに、子どもの気持ちをどのように尊重するか、その優先順位に頭を悩ませることになる。

親は子どもの玩具を選んだり、子どもが抱く想像の世界を検閲することで、自分の価値観を示すのではなく、ごっこ遊びに参加し、その価値観に沿った役柄を演じることで示すべきである。価値観の押し付けは、身を持って示す価値観に比べ、訴える力は常に弱い。怪我や死などの悲惨な側面が無視され、戦争が美化されてしまうと危惧するなら、ごっこ遊びの中で、そうしたことに注意を払いながら、仲裁者の役を演じるといい。

世界の国々が軍縮に向かい、核戦争の脅威をなくすことができればと多くの人々が願っている。しかしながら、平和が戦争の終わりを意味するとしても、意見の違いがなくなるわけではない。子どもがする戦争ごっこと大人の血生臭い戦争には、大きな違いがある。小さな兵士の動機を読み違えるのは大きな間違いである。戦争ごっこをする幼児は、彼らが真似をする大人と同じ意図をもってしていると考える大人は、幼児の動機、暴力や死に対する理解のレベルを取り違えている。親は、子どもの遊びの選択に好意的な可能性を見出すよう努めるべきだ。

闘争的な玩具やゲームは、少年少女の必要にある程度応じているものでもある。こうした遊びは、日々の経験から味わう無力感、依存心から子どもをしばし解放してくれるものである。他人をコントロールしたいという欲求は何も珍しいものではない。日々他人の支配下におかれている者は特にそう思うだろう。遊びの間、強い態度に出て父親を逃げまわさせたり撃って倒したりすることができたら、子どもは喜ぶに違いない。戦闘ごっこは、怒りや恐怖、欲求不満、嫉妬心といったマイナスの感情を気兼ねなく表に出せる機会をつくってくれる。多くの家庭で、こうした感情は罰や嘲笑の対象、恥ずべきこととされている。しかし、様々な危機に満ちたごっこ遊びは、戦争や死、怪我といった恐ろしい問題に何度も遭遇する機会をも与えるものだ。どの子どもも共通して心配でならない事柄だが、多くの大人が話題にするのを避け、そのことで子どもはなおさら心配を膨らませているのだ。

お金のかからない環境で、リスクをとる練習が必要である。スリリングなごっこ遊びの間、子ども達は、反抗したり悪者や落伍者になるのはどんなものか、様々な気持ちを味わうことができる。こうしたリスクは日常の生活では敢えてとりたくないものだ。これに関連して同じように言えることは、ある子どもにとっては、戦争ごっこは罪の意識を感じることなく争うことができる唯一の場であるというだろう。親たちは紛争を建設的に解決するロールモデルであるべきだが、目上の人、指導的立場にある人に反対するのは、どんなことであれ罪の意識を感じるように受け取ってしまう子ども達もいる。多くの子どもにとって、共通の「敵」をやっつけるのは、必要とされる競争心を養うことにもなる。また子どもは、戦争ゲームで、好きなテレビのキャラクターのようなヒーローになるだけでなく、責任を持って他人に命令するといったリーダーシップを経験することもできる。おしまいに、戦う玩具やゲームは面白くて楽しいものだ。

玩具の影響とプレーヤー


子どもに玩具を買い与えるとき、その安全性は常に考慮されなくてはならない。しかしながら、玩具の影響を過度に強調するのではなく、子どもと一緒に遊ぶ大人もまた大きな影響力を持っていることを理解することが重要である。そうでなければ、玩具の価値ばかりが大げさに取り上げられ、プレーヤーの影響が過小評価されることになる。よい玩具を買ってあげ、悪いものは禁止したというだけでは、きちんと子どもを指導する肉親の務めを果たしたということにはならない。

子どもはテレビのCMで見たことを容易に信じてしまうと大人はよく愚痴をいうが、玩具の箱の説明書きを全部信じるとしたら、大人は子どもよりも賢いと言えるだろうか。いわゆる教育的、創造的玩具とは、子どもが想像しながら行動できるようになるために何かしらのサポートをするものでもなさそうだ。創造性は玩具のデザイン性に存在するものではなく、その玩具で遊んでいるプレーヤーの相互間のやりとりで発達してくるものだ。創造的行動、モデリングについての研究結果によって、親が子どもと一緒に遊ぶのが重要と言うことがわかってきた。子どもの遊びが子どもにとってよい遊びか否かを判断するのではなく、子どもと積極的にかかわるべきである。ある種の玩具が子どもの人格に悪影響を与えるという仮説は証明されたものではなく、大人は遊びを通して子どもに大人が好む影響を与えることができるという考え方を示しているにすぎない。

親は、怪我しそうな場合を除いて、子どものごっこ遊びの内容を検閲すべきでない。ごっこ遊びの方向性が大人に決められてしまったら、そこに子どもの意思決定が入り込む隙はない。ごっこ遊びの参加者にとってそこでの選択は欠かせないものである。大人は仲間に入れてもらえたら、喜んで何かの役割を演じればいい。大人の動機を前面に出して子どもの遊びを邪魔していい道理はない。映画や舞台で俳優が殺人者の役をやったら、観客は、卓越した演技で素晴らしかったというようなコメントを述べるのだろう。それなのに、子どもがごっこ遊びで同じように暴力的な役を選んだら、子どもの演技そのものよりも、その役を選んだ理由が大きな注目を浴びることになる。子どもが持ってもいない不当な動機に結びつけるのは、子どものごっこ遊びに対する随分と悲観的な解釈である。玩具の武器をつかってちょっと殺し合いをしてみる子どもの動機は、大人の暴力的行為の動機とは結びつかない。

親たちは子ども達に非暴力の紛争解決の仕方を学んで欲しいと思っている。子ども達がそのことを学ぶには、紛争解決について根気強く教えていく必要がある。死ぬともう決して生き返ることはない、と子ども達が理解できる年齢に達するまでに、すべての子ども達が経る通常の発達段階を親たちが受け入れることも重要である。子どもが戦争ごっこをするのを、何か性格的に問題があるのではないか、大人になって暴力的になる兆しではないかと危惧するとしたら、子ども達の動機が不当に判断されている。ごっこ遊びは戦争、死、怪我に対して自然に抱く恐れに、子どもが向き合える機会を与え、こうした事柄を自らコントロールし、力を振るう感覚を経験するのである。戦争のような実際にあるものに対する恐怖から子どもを守ろうとして、その話題を避けるのは、ありがちなことだが、かえって恐怖心を強くするものだ。いくつになっても、人は不確かなものに対して一番不安に思うものだ。子どもがごっこ遊びで何をしようとしているかを監視するのは止めて、代わりに、子どもと遊ぶ中で、争いごとを平和的な方法で解決するなど、自分の価値観を実践していくといい。

結論


精神的発達の各段階を踏んで、子どもは死んでしまったらそれでもう終わりということを初めて理解する。大人はこのことを受け入れなくてはならない。戦争ごっこする子どもは、問題解決の手段を暴力に頼りがちな傾向があるのでは、という誤った解釈では、子どもの動機を不当に判断していることになる。社会的偏見から、他人の動機を誤解し、事実に反して悪い意図を持っていると推測しているのだ。戦争ごっこは、戦争や死、怪我など子どもが普通に抱く恐怖心に対し、子どもが向き合える場を提供するものである。

誰もが程度の差はあれ、創造力を持っている。子どもは学校に上がる前から、推測したり不思議に思ったり、探したり、物を操作したり、遊びから多くを学ぶのである。こうした活動が創造的思考のプロセスを形成していく。ほとんどの子どもは創造的に考えるのを楽しむものだ。生涯を通して、適応や成功のために必要とされる、創造的思考という貴重な財産を持ち続けられるよう、親は努力を惜しんではならない。

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