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【バイリンガリズムを考える】 第2回 バイリンガリズム(二言語併用)の概念と観点

要旨:

本論文は、バイリンガリズム(二言語併用)の概念を理解する際のいくつかの方法を提示する。その一つは、学術的活動、多文化家族、バイリンガル(二言語使用者)になること、などの経験を通した学びである。バイリンガリズムは、様々なレベルにおける、互いに接触しあっている複数の言語と文化に焦点をあわせた総合的学問である。したがって、バイリンガリズムを理解するもう一つの方法は、4つのレベル:個人、家族、社会、学校(バイリンガル教育)における状況を捉えることである。言語習得の最良の条件は状況に依存することから、本論文は、バイリンガリズムの概念を理解する為の観点を明確にすることを目指す。


序論

本論文は、実際の様々な状況に概念を当てはめながら、バイリンガリズムを理解するいくつかの方法を提示し、概念を明確にするための観点を絞っていく。一つの方法は、学習や研究、その他の学術的活動はもとより、関連した講座を教えることや多文化家族を育てる、あるいは、自らがバイリンガルになる、などの経験からの学びである。接触する言語を理解するもう一つの方法は、対象とするバイリンガリズムのレベルが、1)バイリンガルとしての個人の発達、2)家族間のコミュニケーション様式、3)地域や社会で使われる言語、4)バイリンガル教育、のどれなのかを明確にすることである。

本論文の後半では、バイリンガリズムについての重要な概念を理解するために必要な観点を明らかにしていく。例えば、母語と第二言語は、子どもや学習者の視点から捉えられるべきである。一方、多数派および少数派言語は社会環境によって決定付けられる。言語の接触がおきる様々な状況を考察し、その観点を絞り込むことによって、バイリンガリズムの概念をより正確に理解することができる。また、言語発達の様々な道筋(シナリオ)や、どんな方法が言語学習者にとってより認知的利益をもたらすかを明確にすることで、国の政策から個人のレベルに至るまで、様々な観点から相関性を見ることができるだろう。


応用言語学の一分野としてのバイリンガリズム

第一に、学術領域としてのバイリンガリズムを論理的に位置づける為に、言語学を理論的分野と応用的分野に分ける。応用言語学には、外国語教育やバイリンガリズムなど多くの領域がある。バイリンガリズムは、更に様々な領域に分けられる。そこで扱われるバイリンガル教育は、学校レベルとして定義される。したがって、バイリンガル教育はバイリンガリズムの一部を成し、更にバイリンガル教育のタイプへと細分される(ベイカー、2006年、pp.213-225)。子どもがバイリンガルにはならない場合は弱いタイプとして、また、子どものバイリンガルとしての発達により効果的だとされる場合は強いタイプとして位置付けされる。


経験からの学び:日本のバイリンガル教育

学術領域としてのバイリンガリズムについて研究すべきことは数多くある。しかし、この領域においても、経験からの学びが欠かせない。筆者にとって、専門的な目的を持つ英語講座としてのバイリンガル教育を2009年までの4年間、大学3、4年生に教えたことは、経験からの学びであった。したがって、今回執筆した一連の論文では、日本におけるバイリンガル教育やバイリンガリズムを教えるに際して重要だと証明された概念に焦点を当てる。

経験からの学びによって、バイリンガル教育のような領域の学術研究を深めることができる方法がいくつかある。教科として語学を教えることは、研究者にこれまで研究されてこなかったことを気付かせて、その分野を担い深めさせ、研究を確固としたものにしていく。また、教室での学生の反応や最終課題論文の出来不出来は、教授法がどの程度効果的だったかを実際に示すものであり、とりわけ、バイリンガリズムについてのありがちな誤解を解く為の裏付けとなる。(ジェネシー、無日付;カンダルフ、1998年)

また、学術団体に積極的に参加することで、研究者は、より多くの情報交換ができ、定例会議、研究発表、論文執筆や編集の機会が得られる。研究組織の中心メンバーとなり、活動を率いることは、教科の授業計画を立てることと同様、会員からの様々な質問や要望に答えられるように、その領域を極めようとする責任感を高める。更に、学術団体のウェブサイトを管理することは、組織の仕事を伝える責任を担うことにつながる。

また、バイリンガリズムを教えたり研究したりする経験に相当する別の経験としては、異文化を持つ者同士が結婚して、子どもを育てることが挙げられる。この経験で、親達は、生まれてからずっと二つの言語に触れることによって、子どもが遭遇する数々の試練と、それに続く利点を目の当たりにすることができる。究極的な例としては、日本語を勉強し、日本に移住し、バイリンガルになり、ある程度バイカルチュアルになって、他の様々な経験が可能になるのである。これは、個人の言語レパートリーや文化的アイデンティティーの発達といった、個人レベルのバイリンガリズムである。学術研究は、このような経験からの学びによって強化されてきた。


バイリンガリズムのレベル

バイリンガル教育の講座を教える際には、どのようなレベルのバイリンガリズムが議論されているのかについて、学生の理解をその都度確認することが大切であることがわかった。したがって、筆者は、黒板に4つの四角を書き、その中に、1)個人、2)家族、3)社会、4)教育、といったバイリンガリズムのレベルを書く(以下、初めて出てくるバイリンガリズム分野の専門用語はイタリック体で標記する)。
2009年から大阪女学院(短期)大学では、2年次の学生を対象に内容重視型の外国語としての英語講座を開講し、人権に焦点を当てたバイリンガリズム及びバイリンガル教育を教えている。以下にそのシラバスを紹介する。

バイリンガリズムの概念は、個人レベル、つまり個人のバイリンガル及びバイカルチュアルの発達レベル、バイリンガル環境下での子育てのような家族のレベル、少数派言語や国の政策などのような社会的レベル、インターナショナル・スクールなどの教育機関におけるバイリンガル教育、そして、子どもの教育や個人の文化的アイデンティティーのための言語を選ぶ権利といった人権を含むものである。

したがって、例えば、日本においては過剰に理想化され、個人の資質として大いに自慢できるものと思われているバイリンガルのイメージについて議論する場合、それは、前述の四角で囲んだ個人レベルのバイリンガル発達のことであり、程度が重要であることを学生達にはっきりと認識させる。家族バイリンガリズム(family bilingualism)は、国際色豊かな家庭において、どの言語が話されるかの分析を含む。今回のシリーズでバイリンガル子育てについて書いたPart III(https://www.childresearch.net/papers/language/2010_02_03.html)では、二つの言語で意思疎通ができるようになるために、いかにして情報や機会を二言語間でバランスよく子どもに与えるかを述べている。社会的なバイリンガリズムは、家族を取り囲む地域や社会との関連と捉え、その国や地域で異なる言語を話す人達の割合といったような広範囲な問題も扱う。

教育レベルのバイリンガリズムは、授業で使われる言語である教授言語が国際的で他言語にわたる、もしくは二言語である学校を指す。世界には、多くの種類のバイリンガル教育がある(ベイカー、2006年、pp. 213-225)。より効果的なものとしては、半数以上の授業が子どもの第二言語によって行われる集中型バイリンガル教育が挙げられる(ボストウィック、2005年)。筆者は、日本や外国の様々な教育環境に見られるバイリンガル教育がどのタイプに当てはまるかを学生が分析できる方法を開発した。また、先に述べた新しい講座では、言語学的人権に触れている(スクトナブ=カンガス&フィリップソン、1995年)。その格好の例として挙げられるのは、日本にやってくる外国人移民の子どもの母語に対し、日本は政府レベルでは何の支援もしていないが、日本人の親は海外に移住する際、そのような支援を相手国に当然のように期待するであろうということだ。


バイリンガリズムとバイリンガル教育の概念と観点

バイリンガリズムを異なるレベルから見ることは、様々な状況で見られるバイリンガリズムの側面に適切に焦点を当てる一つの方法に過ぎない。世界中から集められた複雑な研究結果を説明する理論を展開する為には、多くの専門的な概念もまた必要である。接触する言語を分析するには、多くの異なる観点からバイリンガリズムの問題を捉えることも必要となる。南アフリカのような国においては、その複雑さゆえに、言語発達の観点や起こりうる状況のすべてが、理論的に網羅できるわけではないことに留意する必要があるが、日本で見られる基本的な問題の多くは、他の国々においても同様であると考えていいであろう。

バイリンガリズムの概念は、二つの言語を使う人の年齢など、多くの側面に端を発し、それがまたバイリンガリズムを論ずる上での観点となる。人が個人レベルで日常的に二つ以上の言語に触れるという観点において、それを同時性バイリンガリズム(simultaneous bilingualism)と呼び、人が生まれてから、もしくは、幼児期から2つ以上の言語を習得することを意味する。個人差や状況の違いがあるため、完全なバイリンガルになることができなくなる正確な年齢や臨界期というのは特定できないが、思春期以降は、自然な言語習得よりも計画的な言語学習によるところが多くなる。第二言語の習得について、ネイティブのような発音を重視するならば、言語を学び始める時期は早ければ早いほど良い。一般的に、第二言語は、母語が確立された後に学び始める。そして、高度な言語習熟がこの時期からも可能なことから、このような順番で二カ国語を学んだ人々による二カ国語使用は後続性バイリンガリズム(consecutive or sequential bilingualism)と呼ばれる。

もう一つの観点は、子どもや言語学習者の母語と、社会における多数派/主流となっている言語との関係性である。母語や第二言語は、子どもや学習者の観点から理解されるべきである一方、社会的観点から考えると、子どもは多数派もしくは少数派言語のどちらをもっているかということに大きな意味がある。移民の子どもなど、少数派言語を話す子どもが教室にいる場合、特別な配慮が必要である。そのような子どもが社会における多数派言語を学ぶことは大切であるが、その子どもの母語が失われたり、支援されなかったりする場合、それは、バイリンガリズムやバイリンガル教育として好ましい形とは言えない。

バイパエ(2001年)がインタビューをした移民の子ども達は、日本の公立学校で授業についていけず、第二言語に関しても母語に関しても十分な支援を受けていなかった。一方、多数派言語を話す子どもは、多くの場合、第二言語の学習に関して恵まれた環境にある。これを加算的バイリンガリズム(additive bilingualism)と呼ぶ。対照的に、少数派言語を話す子どもは、彼らの第二言語(社会的多数派言語)が母語に取って代わってしまう減算的バイリンガリズム(subtractive bilingualism)の危険にさらされている。こうした観点における両者の違いは、各々認知的障害と認知的利益につながっていく。したがって、人道的なのは、第二言語の支援をしながら、少数派言語を話す子どもの母語の言語発達ニーズに応えることである。つまり、適切な方法でバイリンガル教育を行うことである。

加算的・減算的バイリンガリズムは、異なる観点から問題を見ると、言語のもつ様々な社会的地位に起因する個人のバイリンガリズムの中のタイプであると言える。子ども達は、言語が役に立たないとか評価されていないと思うと、周りの人が二つの言語は等しく価値のあるもので、一つより二つ使えた方がずっと役に立つものだということを意識的に分からせてあげない限り、その言語を失ったり、習得しなくなったりする。このことは、少数派言語を話す子どもの母語が失われたり、多数派言語を話す子どもが第二言語を習得しようとしなかったりする場合などに当てはまる。その言語の相対的な社会的地位は、教育方針から個人の動機にまで、すべてに影響する。

言語の社会的地位は多数派社会によって決まる。一方、家族や民族の社会経済的地位によって二種類のバイリンガリズムが決定付けられる。移民や少数派言語を話す人々は、フォーク・バイリンガリズムまたは状況的バイリンガリズム(folk or circumstantial bilingualism)という立場に置かれることが多い。そのような立場に置かれた子どもや家族には、日常生活や教育を受ける場で使用する言語について、ほとんど選択肢が残されてない。一方、多数派言語を母語とする人々が他の言語を学ぼうとする時、それをエリート/選択バイリンガリズムと呼ぶ。この区分は、社会が少数派言語を評価していたり、少数派言語を話す子どものためのバイリンガル教育に力を入れていたりしない限り、減算的バイリンガリズムと加算的バイリンガリズムの区分と同様なものになる。

言語政策の観点から言えば、少数派言語の教育に影響を与えている国の政策がある。それは、明記されていないとしても、少数派言語を話す子どもに対して、どのような対策がとられているか、あるいは、何もとられていないかで政府の姿勢がわかる。大きく異なる二つの考え方として、言語学的/文化的多様性を歓迎するものと抑圧するものがあり、社会を開放的あるいは閉鎖的にしている。多くの場合、政策として暗黙のうちに行われているのは、少数派を多数派へ同化させることである。その一方で、カナダ、ヨーロッパ、その他の地域では、バイリンガリズム、マルチリンガリズム(多言語使用)、マルチカルチュアリズム(多文化主義)を明確な国策としている国がある。これらの政策および実践は、その社会の指導者が少数派言語を問題視しているのか、資源と捉えているのか、人権問題と捉えているのかによるところが大きい(ベイカー、2006年、pp.382-392)。

言語は不統一、摩擦、障害あるいは、政府にとっての厄介事となり得る。しかし、多くの言語は、国際貿易や観光などの経済的資源だと捉えるべきであろう。母語の維持を人権として捉える政府さえある。言語は、それらのすべての根源になり得るが、実のところ、摩擦は言語の違いよりも、文化的要因や社会的状況に因るものであり、価値観や優先順位の問題である。スウェーデンは、移民の子ども達が母語として話す100の言語を支援している(湯川、2000年、p. 47)。したがって、他の先進国が同じことをするのを阻むのは経済的制約ではない。そうした意味では、少数派がどのように扱われるかということが、その社会がどれくらい良心的かということの指標となる。

更に、政府の政策や社会的態度が同化を目指しているのか、多様性を目指しているのかによって、バイリンガル教育と呼ばれるプログラムの目的(ベイカー、2006年、p. 214)や実践が大幅に異なる。政府や学校が決めた教育内容の観点から見ると、少数派が多数派社会に同化するという暗黙のあるいは明確な目標は移行型バイリンガル教育として顕われていることが多い(ベイカー、2006年、p. 213)。この移行は、子どもが使う言語が家庭の言語から社会的多数派言語へ替わることを意味する。移行型教育は、社会主流化またはサブマージョン(submersion: 浸水の意味)と呼ばれる(ベイカー、2006年、p. 215)。子どもの母語に対する学校での支援が全くなければ、子どもはある一定の期間はバイリンガルになる。しかし、教育は断固として単一言語使用(モノリンガル)で行われるため、自分の母語や文化が価値のないものだと思い、家族との摩擦やコミュニケーションの問題を抱え、文化的伝統を拒否し、母語が第二言語に取って代わられるという認知的悪影響を受けることがある(減算的バイリンガリズム)。

一方、言語教育の目的が同化ではなく、異なる言語に敬意を払う、あるいは何か価値を得るということであるとすれば、全く違った教育法が考えられる。多数派言語を話す子どもにとっては、比較的閉鎖的な社会のなかであっても、言語は資源として高く評価され、外国語の教育が受けられる。ほとんどの子どもがバイリンガルにならなくても、彼らの母語の能力は全く低下せずに、第二言語は強化される。少数派言語を話す学生にとっては、母語の維持、あるいは、多数派言語である第二言語の教育を受けながらの母語の継続的発達は極めて重要である。すべての子どもへの教育法は、多数派、少数派に関わらず、バイリンガル、もしくはマルチリンガルの発達を目標とするべきである。

学校の方針やカリキュラムのレベルで教育法を更に検討することは可能であるが、その検討材料は、その教育が子どもにどのように言語学的・文化的影響を与えるかという点にかかっている。バイリンガル教育というプログラムを検討する時、まず注目すべきは、その講座を教える際に使われる言語、すなわち、教授言語である。単一言語で授業が行われれば、インターナショナル・スクールであってもバイリンガル教育を行っているとは言えない。カリキュラムの成果は、卒業生の言語レパートリー文化的アイデンティティーとして以下のような形で反映される。

卒業生が単一言語単一文化しか持たないままであれば、それはバイリンガル教育とは言えない。子どもの二カ国語使用の能力が限られたものであるならば、弱形のバイリンガル教育であるか、学校で使われる言語が単に子どもの母語もしくは家庭語と異なる言語であるということに過ぎない。子どもが卒業時に、バイリンガリズムやバイリテラシー(二カ国語での読み書きがある程度できること)になっていれば、強形のバイリンガル教育と言える。学校が実践において、言語的文化的多様性を本当に重要視しているのなら、子どももまたマルチリンガル、バイカルチュアル、マルチカルチュアルになっていくものだ。

子どものプロフィールから学校の成果を評価する際、子どもが不得意とする方の言語能力の評価は、その言語のネイティブスピーカーの基準に沿って作成された習熟度テストによるよりも、インタビューや(海外旅行などの)行動観察の方が良い指標となるかもしれない。また、大切なのは、異文化の人々と積極的にコミュニケーションをとろうとする姿勢である。授業で使う言語は、言語の選択の、ほんの一例に過ぎず、与えられた状況においてこそ、どちらの言語を優先させるか、言語の違いに適応しているか、正当にあらわれるものだ。二カ国語を話す大人や子どもは相手の母語に応じて自分の母語または第二言語を使い分けることができる。また、バイリンガル同士の間では、一つの言語からもう一つの言語に切り替えたり戻ったりすることで、情報量を二倍にして言葉の機微を表現するコードスイッチングにより、会話を豊かにすることがよくある。そのような選択ができる限りは、バイリンガルである。


言語使用と言語発達の道筋(シナリオ)

時代とともに変化する言語使用の観点から考える場合、動態としてのバイリンガリズムを明らかにするには、言語移行の概念が参考になるかもしれない。世代を超えた、あるいは、一世代における言語移行は、人々が文化的境界線を越える時に自然に発生する。移住した人々や広く旅をする人々は、言語学的環境や言語を使う必要性、言語を使おうとする熱意などによって、その言語を使うようになったり、使わなくなったりといった言語移行をする。典型的なシナリオ(道筋)として、移民が他の国に移った時、親はその国の言語を習得しないが、子どもは習得する。また、そのような子どもは、両親の母語を聴き取れるが、その言語で積極的に話をしないという受け身のバイリンガルとして育つ。そして、彼らが子どもを持った時、その子ども達は祖父母の言葉は全く理解できなくなる。このような場合、言語は二世代で完全に変わってしまうと同時に、バイリンガリズムは移行段階でしかなくなる。これは、フォーク・バイリンガリズムのシナリオである。一方、言語教育を受けられる人々は継承語を維持することを選択したり、役に立つと思われる他の言語を習得することもができる。

したがって、上述のような言語発達の主なシナリオとして、個人は、1)母語の単一言語使用者のままで、第二言語はそれほど上達しない、2)母語から第二言語に移行し、しばらくの間バイリンガルになるが、ほどなくしてモノリンガル(単一言語使用者)に戻る、3)母語に第二言語を付加し、ある程度のバイリンガルになる、4)親や保護者が常に異なる言語で話しかけるため、二つの母語を持ち、4a)均衡バイリンガル、または、4b)理解できるが少数派言語を話す必要に迫られない受容的バイリンガルのどちらかになる、5)ある程度のマルチリンガル(多言語使用者)になる、などが挙げられる。


結論

観点に着目し、該当する状況、とりわけ、学習の継続が難しい言語学習者の状況にバイリンガリズムの概念を当てはめると、社会的レベルから個人的レベルに至るまでの明らかな傾向が浮かび上がり、バイリンガリズムが本当に本人の意図した結果となっているかどうかが予見できるものであった。二つ以上の言語の発達は、多くの場合、社会的にも個人的にも有益である。一方、今日の世界において、いくつかの社会で見られる様に、多数派が自分達の力を維持しようとするなど、非言語学的要素が、言語学的多様性の受容を阻止している。それでも、それぞれの社会に生きる個人にとって、言語レパートリーや文化的アイデンティティーは豊かであればあるほど、選択肢は広がり、人生における自由の範囲も広がる。


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参考文献

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