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子どもは「心の理解」をどう発達させていくのか

子安 増生 (京都大学大学院教育学研究科 教授)

2003年11月14日掲載

要旨:

子どもを育てるためには、親からの愛着というものが不可欠であるが、しかしその愛着、ひっついている状態をいかにうまく切り離していくかというそのプロセスが非常に大事である。ぴったりくっつくことから、ぴったり離れること。ぴったり離れることというのは、いいところで離れているということである。こういう関係をいかにつくっていくかということが、子育ての非常に大きなテーマであり、課題である。そのことが大きなテーマであり、課題であるということがわかれば、子どもとの距離のとり方、つき合いの仕方も変わってくるのではないか。

発達心理学を専門にしてずっとやってまいりましたが、私自身も子供が2人おりまして、両方とも男なんですが、一人は社会人になっております。そして、もう一人は大学2年生ですが、2人の子供を育ててきた、私一人でやってきたわけではありませんが、そのときにやっぱり発達のことについていろいろ知っているということが大変役に立ったような気がします。それで、いい結果が出たかどうかちょっとわかりませんが、少なくとも役に立ってきたという気がいたします。 きょうは、そのことをちょっとお話ししたい。特に子供のさまざまな目に見える行動というのはよくわかるんですけども、その心の奥の底というのは、これは子供だけじゃなくて、なかなかわかりにくい問題ですので、その辺のところを中心にお話をしたいと思っています。

<図1> それで、きょうお話することは大きく言って3つのことです。1つは、子育てにおいて知っておいたほうがいいような発達の事実と法則といいますか、発達ということはこういう経過をたどるということを知っておきますと、あまり余計な心配をしなくていいとか、あるいは、ああ、今こうなっているんだなということがよくわかるとか、そういう便利な点があろうかと思います。そういう話を一つしたい。

 

それから、2番目は「物の理解と心の理解」と書いておりますが、要するに先ほど申しましたように、心という目に見えないものを、私たち自身も人の心を理解しようとして生きていますし、子供もまたそういうことをある時期から始めるわけなんですけども、そういったことについてお話をしたい。

 

それから3番目、これはまとめの回、ちょっとお話をしようと思いますが、愛着とその後の言葉、これは私が今回勝手につくりました言葉ですので、読み方すらまだ定まっておりませんが、切り離しあるいは切離ということをちょっとお話ししたいと思っています。

<図2> それでまず、「発達の事実と法則」というところからお話をしたいと思うんですけれども、皆さんご承知のように、赤ちゃん、それが大きくなって子供になっていくわけです。そのときに、写真を見ていただいたらわかりますように、赤ちゃん、乳児、それから保育所や幼稚園で活躍する幼児、そして小学校に上がる児童と、子供たちはこういう段階を経て大きくなっていくわけなんですが、それぞれの段階といいますか、それぞれの時期に、子供は特徴的な行動の仕方だとか、あるいはその時期に必要な子供の生き方というのがあるわけです。そういうことを知っていると、子供に接するときに便利ではないかということで、少しお話をしたいと思います。

 

時期的に言いますと、乳児期というのは、私ども、心理学のほうで大体1歳半までの赤ちゃんをいいます。厚生労働省の場合は1歳ということで、乳児死亡率という場合は1歳までの死亡統計ということなんですけども、発達心理の場合、1歳半ということで決めております。それから、幼児期というのは、要するに学校に上がるまでの時期です。小学校に行くまでの時期、大体多くの場合、6歳ということですけども、6歳で学校に上がるまでの時期、これを幼児期と言っています。

 

1歳半から6歳まで非常に長い時期なんですけども、その長い時期を少し細かく見ますと、4歳から5歳の間のところで大きな節目があるというわけです。子供の発達の変わる時期というのがあるんです。そのあたりを2番目のところで少し詳しく、「心の理論」の発達ということでお話をしたいと思います。

 

それから、きょうのお話の中心はここまで、幼児期のあたりまでを詳しくお話ししようと思いますので、小学生のことはあまりお話をする時間がございませんけれども、小学校の時期、これも6年間あるわけです。ここの6年間の長い時期というものを、またやはり節目の時期というふうに考えますと、それはいろんな方がこう言っておられるわけですけど、9歳のところ、よく「9歳の壁」という言い方をしますけども、そういうところに節目があるということが言われています。こういったことをまず最初にお話ししたいと思います。

<図3> それで、乳児期というのは、乳児という言葉はちょっとかたい言葉で、一般に普通赤ちゃんと言えばいいんですよね。赤ちゃん、体が赤いから、血管が浮いて見えるから赤ちゃんです。専門語では乳児と言いますが、乳児という言葉の意味は、ここに乳児という言葉がありますが、その下に、これは乳飲み子ということ、お乳を飲んでいる子供だという意味の漢語、これが乳児であるわけです。今は離乳という時期が非常に早くなりまして、大体5、6カ月で離乳食を始めて、早く離乳をするということが教育のしつけの方針としてあるんですけれども、ちょっと振り返ってみますと、例えば江戸時代ころまでは、2、3歳ごろまでお母さんのお乳を含んで大きくなっていたとされるわけです。そして、昭和の初期にやっとそれが1歳半ぐらいまでに縮まっています。この昭和の初期の1歳半ごろまでが母乳中心の栄養であったということ、母乳というのは大変いいものでありまして、栄養価も高いし、お金はかからないし、いろんな面でいいものであるわけですが、母親にとっての負担ということはちょっと別にしまして、赤ちゃんにとっては非常にいいものであるということで、1歳半ごろまで、かつてはお乳を含んでいたわけです。そのころに乳児と言っていたものが1歳半という時期とちょうど整合しているということです。

 

それから、英語ではインファントとかトドラーという言葉を使うんですが、このインファントという言葉は、言葉を話さない人ということなんです。それから、トドラーというのは、よちよち歩く人という意味なんです。つまりは、乳児期というのは1歳半までの時期ですから、まだ言葉も普通は多く話しませんし、そして立ったり歩いたりはしますけど、よちよち歩きですね。まだ走ったり、大人と同じようにはいかないということです。そういう意味で、歩くことと話すことの準備期、これを乳児期と呼んでいるわけです。

<図4> 乳児期については、これは第二次大戦後、非常に研究が進んだんです。特に1960年代以後、この赤ちゃんの研究というのは非常に進みまして、それまでは赤ちゃんというのはあまり学問研究の対象じゃないという感じといいましょうか、つまりは赤ちゃんというのは何もしないし、何もできないし、泣くことと、寝ることと、あとお乳をもらってそれを出すことぐらいしかできないというふうな、そんな意味合いでとらえられていたわけなんですけども、1960年代以降、発達心理学の研究がいろんな形で進みました。そうすると、赤ちゃんというのは、意外といろんなことができる、いろんな能力を持っているということがわかってきた。また、受け身の存在ではなくて、自分で外の世界にかかわっていこうとする、そういう力を持っているということが徐々にわかってきたわけです。

<図5> 例えば、ロバート・ファンツというアメリカの発達心理学者がいますけども、この人は赤ちゃんの見る力、視力の力を調べました。特に、生まれてから6カ月ぐらいまでの赤ちゃんの見る力というのを調べたんです。そうすると、いろんなことがわかってきました。方法としては、赤ちゃんに2つの形を見せるんです。赤ちゃんはどっちを一生懸命見るかということを、その赤ちゃんが見る時間をはかってみるわけです。そうしますと、まず赤ちゃんは2つのものを見せられたときに、それが同じ程度のものであれば、同じぐらい見るんですけど、片方が図形として複雑である、例えば片方が丸い円である、片方は丸い円にいろんなものが書き込みをしてあるということです、模様がかいてあったり、文字が書いてあったり、複雑であるということです。そうすると、必ず複雑な図形のほうを一生懸命見るということです。ですから、同じように丸い形のものでも、そこの図柄というものに非常にしっかりと注目をしているんだということがわかります。

 

いろんな図柄を調べていったんですけども、その図柄の中で赤ちゃんが一番一生懸命見るのは何かというと、それは、下手な絵がかいてありますけども、人の顔のようなものです。顔に対して、丸くてそこに目、鼻、口がついているような、そういう図形に対しては非常に敏感で、非常によく見るということがわかったんです。つまりは、赤ちゃんにとって顔の認識というのは、最初の段階で非常に重要なものであるということがわかるわけです。

 

しかし、最初の6カ月間の赤ちゃんというのは、大変視力が弱くて、遠くのものにピントを合わせることはできないんです。ですけれども、お母さんが赤ちゃんを抱いて、そのお母さんが赤ちゃんの目を見つめてあげる。そうすると、赤ちゃんもそっちのほうを何となくぼーっと見つめているわけです。その距離、ほんの10センチかそこらの距離のところで焦点が合えば、赤ちゃんにとっては十分であるわけです。最初はそんな段階から始まりまして、徐々に遠くのものがしっかり見えるように、最初の6カ月間に視力が調整されます。これはなぜかというと、赤ちゃんはお母さんのおなかの中の真っ暗な中にいたわけですから、そんなところで目がしっかり合うというわけもありませんし、またその必要もないわけです。しかし、この外界に出てきて、急にまぶしい光をそのまま目に受けるというわけにもいかないので、最初はだんだんぼんやりとした見え方から調整をしていくという、赤ちゃんがこの世になれていく過程として最初の6カ月間が必要なんだとも考えられるわけです。

<図6> あるいは、ギブソンとウォークというというから喃語と言われるようになったし、英語でバブバブバブというのがバブリングという言葉になったと思われますが、赤ちゃんが機嫌のいいときに機嫌のいい調子で発声をし始めるわけです。それ自体は言葉で人たちがやりました視覚的な断崖という、断崖というのはがけということですけども、有名な実験があります。これはちょうど今ここに演台の卓がありますけども、この卓のようなところの真ん中に赤ちゃんを置くんですね。そして、片方はそのままほとんど続きぐあいでこの市松模様の布地が張ってあるわけですけども、赤ちゃんがその浅い側、つまりすぐに行けるような側からお母さんに、おいで、おいでってしてもらうと、大変喜んではいはいして──これは6カ月までの赤ちゃんです──お母さんのところへ行けるんです。ところが、反対側はガラス張りになっていまして、そのガラスの下が見えるんです。ガラスの下にやはりこういう布が張ってあるんですが、それは深いわけです。大人から見ても深いわけです。そういう深いほうからお母さんがおいで、おいでとすると、この赤ちゃんのように、手を出して行きたいんだけども、怖くていけないという動作を示すわけです。

 

ということは、この6カ月の赤ちゃん、先ほど大体最初の6カ月間ぐらいで視力を調整するというお話をしましたが、もう6カ月の時点で大人と同じように距離というものがわかるわけです。あっち側は遠い、ここは深いということがわかるというわけです。そんなふうに赤ちゃんは最初の6カ月間で随分いろんなことを外界から吸収して発達していくということがわかるわけです。

<図7> それから、乳児期というのは、言葉がまだ出ない、泣いているだけのように見えますが、そのうち泣いている赤ちゃんが、元気のいいときにはバブバブとか、モンモンとか、ナンナンとか、こういう言葉といいますか音声を発するようになります。そういう言葉を、ここにちょっと難しい言葉があります。これは発音は喃語(なんご)という言葉ですが、英語ではバブリングと言いますけども、ババババとか、ナンナンナン、バブバブとかいう発声をするんです。ナンナンナンはないんですけども、言葉の練習であると思うんです。

 

それに対してお母さんが、母親語と書いてありますけども、よく、赤ちゃんは言葉をしゃべらないから言葉で話したってしようがないと思っておられる、間違って考えておられる方があるかもしれませんけども、そうではなくて、この最初の乳児期の1年半の間にどんな言語体系の言葉を聞くかということが、その赤ちゃんの言葉の認識に実は非常に大きな影響を与えるということです。そのときに、母親語というのは、お母さんは赤ちゃんに対して赤ちゃんが聞き取りやすい、赤ちゃんが注目しやすいしゃべり方、声が高い、何とかちゃんというしゃべり方を自然にする人が多いわけです。そういったものを母親語、マザーがしゃべる言葉といってマザリーズと言いますけども、そういうことを自然にしていくわけです。お母さんだけではありませんが、周りの人たちのこういった働きかけによって、子供はさまざまな刺激を受けて、どんどん言葉をしゃべる、言葉を話す道へと発達していくということであるわけです。

<図8> それから、赤ちゃんはお母さんとの特に身体的な接触や温かい関係というものを、母親に抱かれ、温かい中で育っていくということが大切だと言われますけれども、そういったことを示した、これも心理学では非常に有名な研究なんですけれども、ハリー・ハーロウというアメリカの心理学者が、アカゲザルというサルの赤ちゃんを使ってやりました1960年代の研究があります。上のほうの写真がハーロウ先生ですけども、下のほう、ここにサルの赤ちゃんがいます。お母さんとして、代理母親ということなんですが、片方は布でできたお母さんなんですね。片方は針金でできたお母さんです。ワイヤーのお母さんと布のお母さんがいるんですね。実際の母親はちょっと切り離されて、代理母親で育てられる赤ちゃんなんですけれども、布のお母さんのほうは、お乳はもらえる場所がないんです。針金のお母さんのほうにお乳をもらえる哺乳瓶がついておりまして、ですから栄養をもらえる、お乳をもらえるということでは、針金のお母さんが赤ちゃんにとっては大事なんですが、しかしこのアカゲザルの赤ちゃんは常時布のお母さんのほうにくっついているんです。そして、どうしても欲しくなったときだけ、ちょうどこれが今その状態です。足のほうは布のお母さんに、この状態ですね、足のほうは、体の下半分は布製のお母さんに一生懸命しがみついていて、上半身だけお乳をもらいに行っているという、その瞬間の写真であるわけですけども、こんなふうにお母さんの持っている温かさ、それからやわらかさ、そういったものが赤ちゃんの発達にとって非常に大事であるということを示唆している有名な実験があります。 

<図9> この研究を受けまして、イギリスのジョン・ボウルビィというロンドンの精神科のお医者さんが、アタッチメントという言葉を提唱しました。アタッチメントというのはくっつくということなんです。お母さんと赤ちゃんがくっついた状態で過ごすということ、愛着と言ってもいいんですけども、このくっついた状態ということが非常に大事であるということ。これは、第二次大戦が終わりまして、戦争の傷跡でさまざまな孤児たちや、それ以外の、両親がいなくなったりして施設に保護されている子供たち、そういった子供たちの発達を調べる研究を行ったところ、母親や両親から離れて育っている子供たちのそういう環境の発達に及ぼすあまりよくない影響というもの、それを感じざるを得ないということです。よくも悪くもそういった子供たちにとって欠けているものというのは、愛着というものでないかということを指摘したわけです。

 

そのことからアタッチメント、愛着の重要性ということが指摘されるようになりましたが、もう一方では3歳児神話、つまり3歳ごろまではお母さんが自分の子供を育てることが一番いいんだという、これは神話ということですから、実際にはそれが絶対に必須であるとは言えませんし、その条件を欠くことによって即問題が起こるというわけでもないので、そういう意味で神話なんですけれども、そういったことが議論されるようになった。つまり、愛着ということが子供の発達にとって、特に乳児期の発達にとって非常に大事な問題ではないかということが指摘されるようになったわけです。

<図10> そして、1歳半ぐらいまでの言葉もしゃべらない、十分に自分で動けない時期から幼児期にかけて、子供は大きく変化していきます。幼児というのは、先ほど言いましたように、未就学、つまりまだ学校に行っていない状況であるわけですけども、保育所に通ったり、あるいは3歳になりますと幼稚園に入ったりしますね。そのときに、幼児期の一つの大事な課題というのは、基本的な生活習慣を身につけること、これは、朝起きる、顔を洗う、歯を磨く、ご飯を食べる、そしてトイレへ行く、あるいは着がえをする、さまざまなこういった身辺、身の回りのことを自分でできるようになっていくという、そういう大事な時期であるということです。幼児期までにここのところをしっかりしつけておかないと、中学生、高校生になって、日常的な生活習慣がうまくついていないからといっても、実はなかなか難しい部分があるということです。ですから、幼児期というのはあまりいろんなことをやらなくていいので、やっぱり基本的生活習慣が一体どうやって形成されるかということ、これが大事な時期だということです。

 

それから、話し言葉の基礎ができ上がる時期ということです。ここに括弧して、子供は「小さな言語学者」であるという有名な言葉があります。これはどういう意味かというと、6歳ぐらいまでの間に人間は基本的に自分の母語を、生まれ育った土地の言葉というものをほぼ、全部ではありませんけども、基本的なところで学ぶ、習得するということです。よくこういう例を挙げるんですけども、私たちは英語を中学校、高等学校、場合によっては大学まで含めて6年とか10年とか学ぶわけですが、しかしそれだけ学んだからといって英語が習得できるわけではなくて、外国へ行って、小さい子供が言っていることが全然わからない、子供たちがよくしゃべっているわけです。そういう意味で、子供はこの6年間に母語の基本的なことを学ぶ、そういう大事な時期であるということです。

 

しかし、だからといって幼児は大人と同じように考え、大人と同じように話ができるかというと、やっぱりそうではなくて、言葉だけではまだ自分の思っていることを全部表現できないわけなんです。それで、さまざまな表現手段を使います。例えば、体を使ったり、泣いたり、さまざまな方法でアピールする。あるいは、子供たちは自然に自分の心を表現する手段として用いているものが絵というものです。

 

幾つか絵の例を挙げていきますけれども、例えばここに3歳児の「ユイちゃん、ママと赤ちゃん」という、題は大人がつけたものかもしれませんが、そういう絵があります。左側の子が自分自身で、これはユイちゃんという女の子なんですね。この絵は、頭がありまして、手足が出ておりまして、胴体がないんですね。実はこの部分が顔なのか胴体なのかというのはちょっと微妙で、「おへそはどこ?」と聞くと、「このあたりだよ」というふうに、口の下のあたりに丸印を入れてくれる子もありますので、実はこれは顔兼胴体なのかもしれません。そこは非常に難しいんですが、いずれにしてもこういう頭から直接手足が出ているような絵を描く時期というのはあるんです。これは世界中の子供たち皆そうするわけです。こういった時期の絵を頭足人、頭と足で胴体がないという頭足人と呼んだりします。この右側に書いてあることです。

 

そして、この絵の右側にお母さんがいます。お母さんは妊娠中で、おなかの中にはあなたの妹か弟か知らないけれど、いるのよということをユイちゃんは聞かされるんですね。それで、お母さんのおなかの中には赤ちゃんがいるんだというふうにかいているわけです。こういった絵をレントゲン画というんです。中が透けて見えるような絵をレントゲン画というんですが、これは幼児期には非常に典型的によく見られる、中と外を同時に描く、お母さんという体の外から見た様子と、お母さんのおなかの中の視点と両方を描くような、そういう絵を典型的に描きます。ですから、こんな絵を描いたからといって、うちの子は絵が下手だとか、あるいは幼稚だとは思わないでほしいんですね。必ず子供たちはこういった絵をかく時期をたどるんだということであります。

 

あるいは、これは5歳児の「虹のお店屋さん」というタイトルの、夜店かどこかに行きまして、いろんな屋台が出ているわけです。そのときの様子を思い出してかいた絵だと思うんですけれども、この絵の特徴は非常にカラフルで鮮やかで、5歳児の絵としては非常によくできた絵だと思うんですが、非常にごちゃごちゃとしています。大人だったらもうちょっとすっきりかいてほしいなという気持ちがあります。そういうごちゃごちゃとした感じは、実は子供が一つの紙の中にいろんな視点からかくということによるということなんです。ですから、人々の向きもいろいろです。どこが道なのか、どこが地面なのかよくわからない、いろんな方向に向いているということと、それから登場人物の顔のパターンが幾つかに分かれるんです。こういう顔の人たちと、それからこういう顔の人たちと、幾つか分かれるんですけど、基本的にはあるパターンで描いているということです。これは図式的な表現といいますが、こういう多視点的図式的な絵を描く時期というのがまたあるということなんです。

 

そして、幼児の絵は原始人の絵と非常によく似ているということを言う人たち、考古学者の人たちは、例えば左側に香川県から出ました銅鐸の絵があります。ここにはイノシシ狩りをしている、わかるでしょうかね、イノシシ狩りをしていて、ここに弓を持った、多分男性がいまして、左側のほうにはイノシシがたくさんいます。イノシシは体の外と体の中、多分、臓物、はらわたがかかれている。これ、レントゲン画です。そして、イノシシの方向はいろいろです。どこが地面かよくわからないという絵をかく。それはちょうど幼稚園児が、これは多分運動会の綱引きか何かの場面でしょうけども、やっぱり地面がどこにあるかわからない。ある線に対して直角に人の絵をかいているという様子です。こういった水平・垂直、あるいはどこから見た絵なのかという視点の一様性ということが定まっていないような、あるいはレントゲン画のような、こういった絵を幼児期の絵が非常に典型的に示してくれるわけであります。

 

ところが、児童期になりますと、つまり小学生になりますと、もちろん学校で絵を習うということもあるんですけれども、この絵は非常にわかりやすいですね。熱気球が空を飛んでいる。それをまたさらに上から見ているわけです。熱気球を見る上からの視点というのがありまして、そして熱気球の下のほうには牛が放牧されていて、多分草を食べているんだろうという情景が非常にはっきりとわかるように描かれています。これは視点がある、この絵を見る視点というのがありまして、そして遠近感があるわけです。こういった絵を描けるのは、やはり小学校の高学年以上の子供たちの絵ということになるわけです。ですから、絵の表現を一つとってみても、幼児期の絵と児童期の絵は違いますし、幼児に絵が下手だからとか言うと、子供はかくのを嫌がってしまいますから、どんな絵をかいても、「それは何の絵?」というふうに興味を持ってやっぱり聞いてあげてほしいし、子供がそれを説明してくれたら、「ふうん」というふうにやっぱり同じように協調してあげてほしいと思うわけです。

<図11> 幼児期の研究というのは実は乳児期と比べますと歴史は古くて、戦前から幼児というのはやっぱり大人にとって興味深い存在であるわけです。そして、何が興味深いかというと、みんなたどってきた道なんだけれども、どうも子供の言うことはよくわからんというおもしろさなんですね。何でこんなことを言うんだろうとか、何でこんなことを考えるんだろうかということが大人にとってよくわからないという、そういう意味のおもしろさというのはあるわけです。

 

そういったことを最初に体系的にまとめたのがスイスのジャン・ピアジェという人なんですが、ここに写真がありますが、1980年に亡くなられた人ですけども、このピアジェは戦後の世界の教育に非常に大きな影響を与える発達理論を提唱したんです。

 

その中で、きょうは一つだけ重要な言葉を、このピアジェが残した重要な言葉を言いますと、それは、幼児は自己中心的であるということなんですね。自己中心的は非常に誤解を受けやすい、自己中、身勝手という意味がありますけど、そうではなくて、自分というものが世界の中心にあって、自分の見方でいろんなものを見ていくという意味での自己中心性なんですね。例えば、おつかいに行った子がお店屋さんの人に「何が欲しいの?」と聞かれて、「お母さん、買ってきてって言ったものだよ」と答えたとします。この子の頭の中には、お母さんが自分に、例えば人参とジャガイモとピーマンと何とか、そういう野菜を買ってきてほしいと言われて、子供は「うん、わかった」と言って、4つや5つぐらい覚えられるとして、お店屋さんに行くわけですね。それが欲しいわけですが、自分が言われたものをお店屋さんの人も知っていると思ってしまっているところに、子供は自分というものがあって、そして人も自分と同じだという、そういう感覚があるということが理解できるかと思うわけです。

<図12> <図13> このことを調べたピアジェは、3つの山の問題というのをやってみました。これはどういうものかというと、模型の山が3つあります。あるところから見た風景、つまり子供が見ている風景というのがあるんですけども、それに対して反対側から見たらどう見えるかとか、横から見たらどう見えるかというのを聞いてみるわけです。そうしますと、幾つかあるんですけど、人形が置いてありまして、この人形からはこの山はどんなふうに見えるかというのを、子供自身、かくのはやっぱり下手ですから、絵を見せたりして聞いていくわけですけども、こういう問題を4歳までの子供は何のことかわからなくて、答えにくいし、答えてくれないんですね。「どういうこと?」って、自分は今こういう山が見えている。反対から見たらどう見えるか、「同じじゃないの?」という感じなんですね。そういう感じが自己中心性ということです。そして、それは7歳ぐらいまで、その自己中心性の感じというのは非常に強く、色濃く残るわけですね。自分が見ているものと人が見ているものが違うなんて、なかなか想像が難しいというところ。7歳以降になりまして、人から見るのと自分から見るのと違うんだということがわかってくるということが起こります。

<図14> 私は、20年ほど前ですけど、こういう実験をやりました。これは当時、NHKの「お母さんといっしょ」のキャラクターで、きょうここに来てくださっている保護者の方にはこれで育ったという方もあるかもしれませんね。ブンブン、ツネキチ、ゴジャエモンというキャラクターの「お母さんといっしょ」の3匹のキャラクターです。これを使いまして、20年前の研究です。正面に子供が座っているんですね。そして、先ほどの人形をこのEというところに置いておきます。私はこのBの位置におりまして、Fのところにカメラを置いておくんですね。カメラを子供に向けて置いておきます。写真屋さんごっごをやろうということで、今のNHKのキャラクター人形、子供たち、みんな知っていますから、このブンブンたちが前に写真を撮ったんだけども、もう一度同じものを撮りたいと思っていると。だけど、自分では並べないので、何とかちゃん、並べてあげてねという、そういう写真屋さんごっこをやるんです。Cのところにアルバムがありまして、そのアルバムには先ほどのキャラクターが1匹だけ写っているのや、2匹写っているのや、3匹まとめて写っているのやさまざまな写真が15枚、順番に出てきます。その都度、幼児はここにある人形をこのDの位置へ置いてあげるという、そういう写真屋さんごっこという形でちょっと実験をやってみたことがあるんです。

<図15> そうすると、どういうことがわかったか。自己中心性にもいろんなレベルがあるということなんですね。1番の問題は今の話と直接関連しませんが、まず子供は、見えていないものは存在しないという大きな自己中心性があって、自分の見える、見えないということが、物の存在・不存在まで決めてしまう。だから、小さい子供と鬼ごっこをして追いかけていくと、途端に地面にぱたっと伏せてしまってやり過ごそうとする。それは、見えないものは存在しないというふうなあらわれだと考えられているわけですね。ただ、これは今の実験と直接関係しません。

 

2番と3番、前後と左右の問題です。どういうことかというと、先ほど言いましたように、Fのところにカメラがあります。そこに向かって人形を並べるわけなんですが、そのときにカメラのレンズを指して、「ここに向かって並べてあげてね」と言っているのに、3、4歳児、いわゆる幼稚園の年少児の4割の子供たちはカメラのほうにおしりを向けて、自分のほうに人形を向けるんですね。この傾向は4、5歳児、つまり年中児でも、それから5、6歳児、年長児でも大体1割ぐらいの子供はまだそういう傾向を残しているということです。ですから、人に向けるんじゃなくて、自分のほうに向けてしまう子供たちが年少児で4割、年中児、年長児で1割ぐらいの子供がいるということなんです。

そして、ちゃんと向こう側に向けられた子供たちの間で、相手から見たら左右が入れかわるということ、これがわかる子供たちというのは、この83年のときには100人ほどの幼稚園児を対象に調べたんですけど、たった2人だけでした。反対側に回って、左右が入れかわることがわかったのはたった2人だけ、それもよくわかったなと今でも思うんですけども、まず幼児はわからないですね。ですから、幼稚園や小学校の低学年の先生で、体操の時間に右手を挙げましょうと言うと、ほとんどの子供は左手を挙げるということが起こってきますが、それは7歳ぐらいまでは正常なんですね。ですから、反対側に回ったら、左右が入れかわるなんていうことは、子供たちに全然重要なことではないし、必要なことではないので、そういうことはわからないです。そういうことがわかったということです。

<図16> そして、この研究を通じて、この研究は基本的に、人があるものをどうやって見ているか、自分の見ているものと人の見ているものは違うんだという認識ということなんですけども、それ以外にも人が考えていることと自分の考えていることに違いがあるとか、人が感じていること、感情と自分が感じていることの間にずれがあること、違いがあること、そして人はどういうふうに具体的に見たり、思ったり、感じたりしているかということ、こういった分野、これが視点の理解という研究の中に含まれていくわけですが、これが後ほど言いますところの「心の理解」、「心の理論」というものの問題につながっていくということなんです。

<図17> 児童期ですけど、ここは先ほど言いましたように時間的な都合で省略しますけれども、簡単に言いますと、児童期というのは、読み書き、話し言葉から書き言葉の世界へ変わっていくということ、それから計算という新しい考え方が入ってくるということです。そして、「9歳の壁」と言われるように、9歳ごろになりますと分数や小数といった抽象的な考え方が入ってきますし、それから子供の作文の質が変わってきます。つまり、きのうどこどこへ行って何々をしましたという、いわゆる身辺雑記、身の回りのことを何となくつづっていくという書き方だけではなくて、例えば友達って何かとか、平和って何かとか、そういうふうな抽象的なテーマでもって作文を書くことができたり、それから先ほどの遠近画法がかけたりというふうに大きく変わっていきます。きょうはちょっと児童期の話は置いておきまして、幼児期のことをもう少しお話ししたいんですが、2つ目の「物の理解と心の理解」の問題に少し進んでいきたいと思います。

<図18> 私は「心の理論」ということを研究しているんですけれども、「心の理論」といってもちょっとわかりにくいと思いますが、しかし私たちは生きていく上で、実は物についての理論と心についての理論の両方を持っているんだということをちょっと振り返ってみるとわかると思うんです。例えば、私が今しゃべっている台の上にはコンピューターだとか水だとか、いろんなものがありますが、こういうものの上に置いても落ちないとか、へこまないだとかいう知識があるから、こういうことができるわけですね。ですから、物について、その物についてどうすればどうなるとか、これはどういうふうに使えるんだとか、これはどういうふうに変化するんだということがわかって私たちは生きている。物理学ではそういう物の理論というものを教えてくれるんだということがあるわけです。

<図19> 他方、私たちは生きていく上で、今度は人について、人は今こんなふうに考えているんだとか、こんなふうに感じているんだとかということを利用しながら生きているということですね。ですから、怒っている人がいると、あまりそばに近づかないほうがいいとか、それからこの人は次にこんなふうにしてくるかもしれないから、自分はこうしようとか、相手の手を読むとか、あるいはときには人をだますとか、そういったことをやっているということです。

<図20> 少しわかりやすく言いますと、例えば野球選手がボールを追いかけていくとします。イチローが外野手でボールを追いかけています。そのときに、ボールというのは物の動きだけで理解できるんですね。ですから、こういう打球だったら、この辺に飛んでいって、ここではね返って、クッションボール、どう投げればいいという物の理論だけで済みます。ところが、ゴールキーパーがPK戦をやるときには、ボールを見ているだけではだめで、打つ人が、キッカーが一体どっちのほうをねらっているかということを読まなくてはいけない。それから、自分はどっちのほうへジャンプしようとしているかということを相手に悟られないようにしなくてはいけないということで、ゴールキーパーは物の理論、つまりボールだけを見ていてはだめで、相手の心を読む必要があるということなんです。これが物の理論と心の理論の基本的な違いであるわけです。

<図21> <図22> <図23>  学校教育というのは、いろいろよく考えてみますと、物の理論について詳しく教えてくれるところであるわけですけれども、しかし、もちろん道徳という時間はあるんですけれども、「心の理論」についてはあまり教えていないのではないかということがあるということなんです。83年ごろからこの「心の理論」の研究というのはかなり進んだんですけども、ちょうど4歳と9歳という2つの大きな節目があるということを明らかにしてきました。これはそういう研究を開始したオーストラリアのジョゼフ・パーナーという人なんですけども、このパーナーは誤った信念課題という問題をつくりまして、非常にごく簡単な課題なんですけども、3歳までは自分の考えていることと人の考えていることの間でずれがあるとはどうも思っていないらしいということをはっきり示すようになります。それが4~6歳の間には大体わかってくるということが示されるようになりました。

<図24> <図25> その誤った信念課題というのはごく簡単なこういう課題です。例えば、ここに漫画を示していきますけれども、ナツコさんという女の子が人形で遊んで、それをかごの中に入れて出ていきます。留守中にイズミさんという女の子がやってきまして、その人形で遊んで、かごではなくて箱のほうへ移して出ていくんです。その後、もとのナツコさんが戻ってきて人形で遊ぼうと思っています。ナツコさんはどこに人形があると思っているでしょうかという問題なんです。皆さんはすぐに、人形は確かに箱に入っているけれども、ナツコさんはそのことを知らないんだから、かごだろうとすぐにおわかりであるわけで、これは小学校1年生だったらほとんど、健常なお子さんであればわかるんですが、しかし逆に3歳児は全然わからないんですね。これは私がとったデータなんですけども、年少児、3、4歳児でこの課題ができる子は0%、4、5歳で40%、5、6歳で85%ぐらいですね。小学1年生になりますとほとんどできるという問題なんです。年齢で非常にはっきりした結果が出ているということですね。ですから、3歳の子は、自分の思っていることと人の思っていることの間にずれがあるなんていうことは思っていないということを示しているわけです。

<図26> これは少し細かい話になりますけども、年齢的な推移、同じ子供たちを3年間追いかけていって、どういうふうに変わるかということですが、簡単に言うと、やはり3、4歳児ではわからない子ばかりで、そのうち4、5歳になると、わかる子が15人中3人、相変わらずわからない子が12人です。そして、このプラス4というのは、その幼稚園に外から転入してきた子供たちを含んでいるんですけども、正解する子供たちはほとんど5、6歳でも正解します。1人だけちょっとわからなくなっちゃった子がいるんです。これは非常に例外的です。大体5、6歳になりますと15対4に分かれていますから、年長になりますとかなりこのことはわかってくるんです。ですけど、3、4歳児ではわからないのがごくごく普通であるわけです。そういった子供たちに、「お母さんの言うこと、わからないの?」と言っても、何のことだろうとやっぱりなってしまうんですね。ですから、子供たち、今はどういう状況にあるか、何がわかるかということを知るということが非常に大事であるということです。

 

私はこういう研究をするために幼稚園に行きまして、子供たちの行動を観察しているんですけれども、これは例えば縦割り保育といいまして、年少児、年中児、年長児が一緒のクラスの中で3年間過ごすという方式の幼稚園なんですが、そうすると、この右側にいる年少の男の子が片づけができなくて、年長の男の子が手伝いに来ている様子なんですけども、そういう人を助けてあげるということができる。あるいは、年長児同士で遊んでいます。数字の板を1から99まで並べていくんですが、最初にこまをきちんと分けなかったために、ある子は数枚しか持っていなくて、ある子は半分ぐらい持っていると。そうすると、どんどん、できる子と全然できない子ができてきます。それはおもしろくないというので、そのうちの一番右端の男の子がもう一度こまを配り直そうという提案をしたりします。そういうふうに、みんなのことを考えながらできるようになるというのは、やはりこれは3歳児では無理で、5、6歳児になってきますと、かなりそういったことができるようになってくるということがわかるということなんです。 

<図27> <図28> <図29>  もう一つ、9歳のところでどんなふうな変化が起こるかといいますと、これはパーナーたちの研究なんですが、こういう絵で説明しますと、アイスクリーム屋さんが公園でアイスクリームを売っていたんです。ハルナさんとキミエさんという2人の女の子がアイスクリームを食べたいなと思うんですが、お金を持っていないんです。それで、アイスクリーム屋さんは、「ずっとここにいるから、後でお金を持っておいで」ということを言います。ハルナさんは家に帰っていきました。キミエさんは公園で遊んでいたんですが、見ていると、アイスクリーム屋さんが店を閉まって、ワゴン車で出ていこうとするんですね。「おじさん、どこへ行くの? ずっとここにいるって言ったんじゃないの?」と言いますと、アイスクリーム屋さんは、「いや、ここであまり売れないから、学校のそばに移ります」ということを言うんです。アイスクリーム屋さんは学校のそばに移動するんですが、その途中でハルナさんの家のそばを通ったら、ハルナさんがいまして、「今から学校へ行くから、アイスクリームは学校に買いにおいで」ということを言うんですね。それで、こういうお話を聞かせまして、もう一度キミエさんがハルナさんのところに遊びに行ったんですが、お母さんが出てきて、「ハルナはアイスクリームを買いに行ったところよ」と言うんですね。そうすると、キミエさんは、ハルナさんがどこにいると思っているでしょうかという問題なんですね。これは、キミエさんもハルナさんもどちらも実はアイスクリーム屋さんは学校に行ったということを知っている。そして、これを聞いている子供もアイスクリーム屋さんは学校だということを知っている。ところが、キミエさんは、ハルナさんはそう思っていないと勝手に思い込んでいるということですね。間違って思い込んでいるということです。そのことがわかるかどうかということで、非常にややこしい問題で、大学生でもこれをやりますと、2割ぐらいの人が間違って聞き違えたりしてしまうんですね。ですから、ちょっと難しい問題なんですけども、そういう意味では、幼稚園児はこういう二段階で、Aさんがこう思っている、Bさんはこう思っているとわかるということは、なかなかわからないということなんです。

 

こういった「心の理論」の研究につきまして、どんどん研究は進んでいるんですけども、バロン・コーエンという人は「マインドブラインドネス」という有名な本を書きまして、心を理解するためには、さまざまな途中のステップがあるということを言っています。これがバロン・コーエンの写真ですけれども、この人は自閉症のお子さんの研究をしまして、自閉症というのは、心を理解できないということが非常に重要な障害の一つであるということをさまざまな実験を使って調べた人なんですが、例えば、私たちは、写真を幾つか見せましたけれど、目の部分だけ注目しても、これはきっと怒っている絵だとか、これは驚いている絵だとか、ちょっと悩んでいる絵だとか、喜んでいる目だとかということがわかるわけですね。ですから、目の動きから心を読むということ、これは実は小さい子供もかなりできるわけなんですね。

 

あるいは、2人の人が同時に一つのものに対して注目をするということ、これは注意の共有といいますけれども、例えばここに2人の男性と女性がいまして、何か共通のものを見て微笑んでいると。何でもいいんですけど、赤ちゃんが困っている様子がある意味かわいらしくておかしいというわけですが、そういうことが理解できるということです。人と気持ちを共有できるということがやはり大事ですし、それから、しぐさや状況からその人の人間関係を読むということも大事な問題です。

 

例えば、ここに2組のカップルがいますけども、夫婦はどちらでしょうかと聞かれますと、多くの人は左と答えるんです。なぜかというと、多分、これは手のところを見ますと、片方は手を触れ合っていますし、片方は手が離れていると、例えばそんなことを読み取ったり、表情を読み取ったり、あるいは花の持つ意味を読み取ったり、そういうことによって人間関係を私たちは読んでいくということです。こういったことを通じて心というものが理解されているということです。

<図30> <図31> それで、「心の理論」というものを子供たちは幼児期に獲得していくわけですけれども、そのことによって子供自身はいろんな豊かな心の世界というものを持つことができるわけですが、しかし大人から見るといい面ばかりではない。例えば、うそをつき始めるというのは、この「心の理論」がわかるものと軌を一にしています。うそをつくということは、自分は知っているけれど、お母さんは知らないということがわかるんです。例えば、「これを壊したのはあなたでしょう」とお母さんが言う。子供は「僕じゃない」と。そのときに、「これ、あなたでしょう」ということは、お母さんは知らないんだということがわかるんです。「僕じゃない」と言ったら、お母さん、それ以上、追及できないということがわかるわけです。それをすることによって、うそをつくということが成立するわけです。

 

うそは大人の側からすれば大変ショックですし、親や先生の側からして、うそというのは嫌なもの、つらいものなんですけれども、しかし、うそをつくというのも一つの能力であるわけです。ですから、2歳や3歳の子は、そういう意味でのうそはつけないということです。

 

そして、9歳になりますと子供自身の世界、秘密の世界や、それから悪意といいますか、意地悪な気持ちというものも非常に強く生まれてくるということ、そういった心の理解の発達過程を私たちが知っていく必要があるということです。

<図32> 時間がちょっと押してきておりますが、もう一言だけ、愛着と切り離しということのお話をしたいんですが、先ほどボウルビィという人の話をしましたが、アタッチメント、くっつくということ、お母さんと子供がくっついて生きていくということ、これは非常に大事な赤ちゃんの時期の過ごし方なんですが、そのくっつくことがあまり行き過ぎますと過保護になります。そして、アタッチメントの反対はデタッチメントというんですが、このいい訳がないので、ここで「切離」とか「切り離し」という言葉を使っておりますが、これは離すこと、離れることであるわけです。これをずっと進めていきますと、極端に押し進めていきますと無関心ということになるわけです。ですから、ある種の愛着は必要だし、ある種の切り離しは必要なんだけれども、行き過ぎると問題が起こってくる、そこのバランスが難しいということですね。

<図33> そして、幼児期から児童期にかけて子供の変化は非常に激しいです。数年の間、人の子を見ていたらわかるんですけど、1年たって会うと、非常に大きく変わっているし、行動も変わっているし、大きくなったなという感じがします。自分のうちの子供は何かゆっくりしてなかなか進まないように思いますけど、やっぱり人から見るとそうではない。客観的に見ると、子供の発達というのは非常にスピードが速いわけです。それに対して大人の側が十分実はついていけない面があるわけです。ですから、実際にいろんな例があるんですけど、幼稚園に通い出したお子さんに対して心配で心配でしようがない、毎日幼稚園に教室まで見に行くというお母さんが時々おられるんですけども、それは子供のスピードに対して親がついていけていないということです。あるいは、高校生にもなって、「あんた、勉強している?」とか、「この点は何?」とかってすぐ言ってしまいがちなんですけど、子供にとってみたら、これは一体だれの勉強なんだと思ってしまうという、そういう問題が起こってしまいます。

<図34> 要するに、子供を育てるためには、親からの愛着というものが不可欠なんですけども、しかしその愛着、ひっついている状態をいかにうまく切り離していくかというそのプロセスが非常に大事であるということです。その言葉をこの「切り離し」という言葉で表現しているということです。この言葉は、ぴったり離れることと私は表現したいと思うんです。ぴったりくっつくことから、ぴったり離れること。ぴったり離れることというのは、いいところで離れているということなんです。こういう関係をいかにつくっていくかということが、子育ての非常に大きなテーマであり、課題であるということ。そのことが大きなテーマであり、課題であるということがわかれば、子供との距離のとり方といいますか、つき合いの仕方も変わってくるのではないかということで、最後に愛着と切離ということで申し上げました。
 

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注)2003年8月10日に開かれた「パパ・ママ応援シンポジウム すくすく子育てトークライブ」(主催:(株)ベネッセコーポレーション こどもちゃれんじ)基調講演より転載いたしました。

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