障害をもつ子どもに対する無理解や偏見がなかなか無くならないことは、すでに「何か変だよ」シリーズのブログで書いてきました。私たちの中にある、自分たちと同じでない者や事に対する心理的なメカニズムがこうした偏見の根底にあるのかもしれません。
こうした偏見やそれに基づく差別をなくす試みの一つであろうと思うのが、「障害」という言葉そのものを使わないようにすることです。発達障害や、その他の障害に関わる人々の間で、このような考えに基づいて言葉の言い換えがされていることがあります。
障害をもつ子どもが、偏見や無理解の対象になるのは、文字に黙示される悪い意味のせいだ、というのです。特に「害」という字に悪い意味があるということで、「がい」とひらがなで書いたり、あるいは「害」の代わりに「碍」(発音はガイ)を使うのです。
私は、こうした考え方に賛成できません。私たちの中にある障害に対する偏見や無理解は、その言葉にあるのではなく、前述したように、自分と異質の状態を理解したくない、あるいは受け入れたくないという心理的機転にあると思うからです。
「害」を「がい」と開いて書けば、「害」という字が、私たちの中に悪いイメージを引き起こすことを防ぐことができるという思いがあるのでしょうが、問題は「害」という字ではなく、「害」という字をみると私たちの中に悪いイメージが引き起こされるという心理的機転にあるのではないでしょうか。
「障碍」に至っては、お話になりません。「碍」という字に悪い意味がないと信じているのだと思いますが、漢和辞典を見れば「碍」という字と、その元字(碍は略字)である「礙」には、「さまたげる」「邪魔をする」「さわり」といった「害」とほぼ同じ意味があるのです。中国では現在でも「障碍」という言葉が日本語の「障害」と同じ意味で使われています。多くの人になじみのない字に置き換える事によって、カモフラージュしているようにさえ思えてしまいます。
障害をもつ子どもが、偏見や無理解の対象になるのは、文字に黙示される悪い意味のせいだ、というのです。特に「害」という字に悪い意味があるということで、「がい」とひらがなで書いたり、あるいは「害」の代わりに「碍」(発音はガイ)を使うのです。
私は、こうした考え方に賛成できません。私たちの中にある障害に対する偏見や無理解は、その言葉にあるのではなく、前述したように、自分と異質の状態を理解したくない、あるいは受け入れたくないという心理的機転にあると思うからです。
「害」を「がい」と開いて書けば、「害」という字が、私たちの中に悪いイメージを引き起こすことを防ぐことができるという思いがあるのでしょうが、問題は「害」という字ではなく、「害」という字をみると私たちの中に悪いイメージが引き起こされるという心理的機転にあるのではないでしょうか。
「障碍」に至っては、お話になりません。「碍」という字に悪い意味がないと信じているのだと思いますが、漢和辞典を見れば「碍」という字と、その元字(碍は略字)である「礙」には、「さまたげる」「邪魔をする」「さわり」といった「害」とほぼ同じ意味があるのです。中国では現在でも「障碍」という言葉が日本語の「障害」と同じ意味で使われています。多くの人になじみのない字に置き換える事によって、カモフラージュしているようにさえ思えてしまいます。