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所長ブログ

Director's Blog
所長ブログでは、CRN所長榊原洋一の日々の活動の様子や、子どもをめぐる話題、所感などを発信しています。

復習の鬼

2014年4月18日掲載

タイトルを見て、「復讐」の鬼の間違いではないかと思われた方もいるかもしれません。このタイトルは、先日私の母校の高校で、現役高校生から見たら「先輩」にあたる私と同期の数人が、後輩に進路選択についてのアドバイスをするシンポジウムが行われたときに、私自身の勉強法について語った時に使った言葉です。その意味するところは、予習よりも復習を徹底的に行うことが効果的だ、ということです。復習の「鬼」という表現を使った理由は、復習は1回きりではなく、5回あるいは10回くらいすることが重要だということを強調したかったからです。私は中学時代から高校時代を通じて、英語のリーダー(読解)の授業以外、予習をしたことがほとんどありません。その代わり復習は、徹底的に何回も行いました。

効果的な勉強のスタイルは個人差がありますので、私の勉強の仕方が誰にでも有効であるとはいえないと思いますが、個人的に有効だったというだけでなく、心理学的、あるいは脳科学的に、この「復習の鬼」方法には複数の根拠があると思っています。

第一に、繰り返し「読み」「書き」「声に出す」ことによって、記憶はより確実に定着するという心理学的事実です。1回より2回、2回より3回復習するほうが、記憶としてより強く正確に定着することは、誰でも納得できる科学的事実です。

次にこの「復習の鬼」には、学習は復習に特化し、予習はあまり必要ない、という意味もこめられています。これは私自身の経験で効果的だっただけでなく、次のような理由で意味があると思っています。

予習では、新しいことを自分だけで理解しなくてはなりません。教科書や参考書にはさまざまな工夫が施され、わかりやすく書かれているかもしれませんが、やはりそこに書かれていることを熟知した他人(教師)による説明が加わって、より効果的に理解が進むのではないでしょうか。教師はまさにそうした技術と知識を持った専門家なのです。また予習をしない場合、授業中は真剣に教師の説明を聞かないと内容を理解することができません。ですから「復習の鬼」法では、授業中に教師の言うことを真剣に聞かざるをえないという副次的効果があります。

予習を徹底的に行って、授業で教師が説明することが前もって十分に理解できていたとすると、教室での授業はすでに知っていることについての話になり、そのことで授業に集中する動機が薄れる可能性さえあると思います。小学校低学年の国語学習で、幼稚園時代に読み書きを習得している子どものほうが、習得していない子どもより国語能力の伸びが少ない、という研究データもあります *1

このような個人的な経験のお話をしたのは、最近子どもの学習(授業)法で注目されている「反転学習」に対して疑問を感じたからです。反転学習は、生徒がまず家庭で予習をし、学校では、理解不足のところや知識の応用について授業するというものです。実験的に反転授業を行っている学校での調査では、予習により家庭での学習時間が増加した、とその効果をうたっているようですが、これは当たり前のことです。予習をしないと、まったく何も身につかないことになり、やらざるを得ないからです。学習の質(理解)の側面から見た調査・研究も待たれるところです。

もちろん、大学や大学院では、反転学習が常識になっています。ハーバード大学医学部では、従来の講義方式ではなく、New Pathwayという授業方式を取り入れています。少人数の学生でグループを作り、自分たちで自発的に学習を行い、チューターとして参加している教員は、学生から質問されたときのみアドバイスするという授業スタイルです。しかし、この方法はもともと優秀なハーバード大学の学生だからこそ可能な方法かもしれないと、私は内心思っています。

いずれにせよ、義務教育の年限の子どもたちへの反転授業については、慎重な教育学的、心理学的、脳科学的検討が必要であると思います。


*1: 内田伸子・李 基淑・周 念麗・朱 家雄・浜野 隆・後藤憲子 (2011) 幼児期から学力格差は始まるか―しつけスタイルは経済格差要因を凌駕しうるか―【児童期追跡調査】日本(東京)・韓国(ソウル)・中国(上海)比較データブック お茶大・ベネッセ共同研究報告書 No. Ⅱ

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現在日本では食育基本法のもとで、現在国を挙げて食育推進運動が行われています。肥満や痩身傾向など、食事の仕方や内容によって、健康被害(高血圧、糖尿病、心疾患)の頻度が増すことは誰でも知っており、正しい栄養バランスを保てる食習慣を国民が身につけることの意義は周知のことです。

食育の目的に、食の文化を維持し共有してゆくことがあることもうなずけます。世界遺産に和食が選定されたことは、日本食という文化が国際的にも認められたことだと思います。

このような食育の意義は十分に理解しているつもりですが、私にはいくつかよく理解できない点もあります。

たとえば共食(一緒に食べること)を薦め、孤食(個食)をできるだけ少なくしようという方針です。一人でさびしく食べるより、一家団欒で楽しく語りながら食べるほうがいいではないか、という声が聞こえてきそうです。

しかし、孤食はなぜいけないのでしょうか。たとえば、孤食は楽しくないとは言い切れないような気がします。仲の良い家族は一家団欒は楽しいかもしれませんが、一人で食べるほうが気が楽、という時もあるかもしれません。子どもが大きくなって、子どもと親の生活時間が異なっているときに、わざわざ一緒に食べる時間を設けることは、かえってお互いのストレスになってしまうこともあるでしょう。

園や学校での共食も、一部の子どもにとっては時に大きなストレスとなっています。一定時間内に、食べ残しなく食べることが求められるのは、食べるのがゆっくりしている子どもや、好き嫌いの多い子どもにとっては、苦痛の時間となっていることがあります。

かつて私は、給食の時間になると急に吐き気を催して吐いてしまう子どもを診たことがあります。家庭での夕食のときには、そのようなことは全くないのです。心因的な嘔吐であろうという見立てのもとに、学校での様子を聴取した私はびっくりしてしまいました。

この子は食べるのが遅く、他の児童が食べ終わっていてもまだ食べ終わらなかったのです。そこで担任の先生は、すでに食べ終わっている子どもたちでこの子の周りを囲み、「○○ちゃん、がんばれ」と応援させた、というのです。この話をよく大学での授業でしますが、講義のあとに「私もそうだった」といってきた学生が複数いたことを考えると、決してまれなことではないような気がします。

もちろん、共食によって、食事がより規則正しくなり、また食事中の対人関係から社会性を促すことにつながることも知っています。ただ私が誤解を覚悟でこのようなことを書いているのも、もともと食べるという行為は極めて個人的な行為であり、それを社会的に強く制約することは、時に好ましくない結果につながることを訴えたかったからです。孤食に限らず、偏食の矯正や、食べ残しのチェックなども、子どもによっては大きな心的なストレスになることを、食育にかかわる方には是非忘れないでいてほしいと思います。

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先ほど着任されたアメリカ大使のケネディさんは、理知的で温かな笑顔で多くの日本人がファンになっています。私も彼女のファンの一人ですが、彼女の笑顔を見るたびに思い出すのが、職半ばに凶弾に倒れた父親のケネディ大統領と彼の言葉です。政治家としてのケネディ大統領には様々な批判もあるようですが、就任式で述べた「国があなたのために何をしてくれるかではなく、あなたが国のために何をするか問うてほしい」(Ask not what your country can do for you, ask what you can do for your country)に、子どもだった私は大きな感銘を受け、現在でも大好きな言葉の一つになっています。

さて、何でこのケネディ大統領の言葉を引用したかといえば、CRNをご覧になっておられる子育て中の親御さんや、子育て保育に関連のある皆さんに、子どもの発達に関する氾濫する情報にただ流されるのではなく、ケネディ大統領が期待した国民のように、能動的な態度で情報に向かい合って自らの判断で選び取っていっていただきたいと思うからです。

例えば、最近子育て中の親や保育者に大きな関心と同時に懸念を抱かせる情報があります。それは、子育ての場面でのスマホの使用は、子どもの発達に悪影響を与える可能性があるので控えよう、という情報です。子どものそばで親や保育者がスマホを使うと、子どもに関心が向かず、子どもの社会性の発達に悪影響がでる可能性があるというのがその情報の骨子ですが、同時に子どもが直接スマホを使用することにも警鐘をならしています。

この情報を、どのように考えればよいのでしょうか。すぐに育児の現場でのスマホの使用をやめよう、と考える方もおられるでしょう。しかし、本当に子育ての場面でスマホを使うと子どもの発達に悪影響を与えるという裏づけがあるのでしょうか。

この情報をよく見ると、子どもの発達に悪影響を与える可能性がある、と書かれています。どのような理由でそのような「可能性」があるのか、しっかり見極めてから行動するという能動的な姿勢が望ましいのではないでしょうか。

また子育て中の親がスマホから受け取る利便性についての配慮も必要です。現在右肩上がりで増加している子どもの虐待や、子育て中の親のうつを考えると、子育てにかかりきりで行動の自由が少ない親が、スマホによって育児情報を手に入れたり、友人と交流することによって心の安らぎを手に入れている可能性もあるのです。

ともあれ、CRNの使命は、こうした確度が不明確な情報について、きちんとした科学的な視点を提供してゆくことだと思っています。

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CRNでは、今年度ECEC研究会を立ち上げました。ECECとは耳慣れない言葉ですが、英語のEarly Childhood Education and Careの頭文字を並べたものです。直訳すると「人生初期の教育とケア」となりますが、内容としては日本語の「保育」に近いものです。ではなぜ「保育研究会」にしないのか、と問われそうですが、日本語の「保育」ともかなり意味が違うから、ととりあえずお答えしておきましょう。

このECEC研究会はCRNのホームページ上だけでなく、実際に多くの方々に参加していただけるECEC研究会(ECEC Research Conference)として、年に2~3回開催する計画です。

その第2回目のECEC研究会を、先日(10月26日、27日)慶應大学の三田キャンパスをお借りして開催しました。テーマは "playful pedagogy" です。playfulはなんだかわかるような気がするけれど、pedagogyとは、と首をかしげる方も多いと思います。辞書を引くとplayfulは「楽しく行う」、pedagogyは「教育学」「教授法の科学」とでています。つまりplayful pedagogyは、「楽しく遊びながらの教育」といった意味になります。

なぜ "playful pedagogy" なのか?

ではECEC研究会でなぜ、 "playful pedagogy" をテーマに選んだのでしょうか?私自身もテーマ選択にかかわっていますので、私見も入りますが、その理由を述べますと大きく二つになります。

一つは、日本の保育、幼稚園教育の保育方針の根幹ともいえる「自発的な遊びを通じた保育」が、どうしてよい保育なのか、その理由が私自身すっきりと理解できていなかったことです。保育の専門家の書いたものをみると、「本来遊びは子どもの基本的行動であるから」といった説明が書いてあります。しかし、中国や台湾で、幼稚園教育における遊びへの重み付けが日本とちがうのは、「本来」論では説明できない、と思ってきました。中国や台湾の保育士や幼稚園教諭が日本の保育園、幼稚園を見学すると、「遊ばせっぱなしでいいのか?」といった疑問がでるというのです。

二つ目の理由は、CRNでも時々その記事をご紹介しているアメリカの専門研究雑誌「Mind, Brain and Education (こころ、脳、教育)」という雑誌に掲載された論文を読んだことです。この論文については、CRNの"Dr.榊原洋一の部屋"で近々ご紹介いたしますが、その論文の骨子は、子どもの能力(言語、数の概念理解)や社会性は、一方的な教示(direct instruction)ではなく「ガイドされた遊び(guided play)」でもっともよく伸びる、というものです。保育園や幼稚園で行われている活動は、大きく①直接教示②指示されて行う遊び③ガイドされた遊び④自発的自由遊び に分類されるとこの論文の著者たちは言っています。さらにこれまでの研究で、それぞれの方法の効果を比較したものを紹介し、ガイドされた遊びが一番良いと結論づけています。

遊びは「本来の姿だから」ではなく「よく学ぶことができるから」

つまり、遊びを通じた保育のよさを、「本来の姿だから」という理由ではなく、「それが一番よく学ぶことだから」と理由づけしているのです。子どもの遊びを、目的論的にみる視点は好きでない方もおられると思いますが、私にとっては、遊びを通じた保育がよい保育である科学的な理由がある、ということは実に勇気づけられる発見でした。
ECEC研究会の内容と実際の様子は、CRNのイベント報告コーナーでご紹介する予定ですので、ぜひご覧いただきたいと思います。

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10月14日に、岡山市で「子どもの福祉と権利」というタイトルのシンポジウムがありました。ありました、と他人事のように書いていますが、このシンポジウムは日本子ども学会とCRNの共催で行ったのです。海外からの講演者3人を含めて4人の講師に、主に子どもの権利に関する課題を話していただきました。

子どもの権利を考えるときに、常に付きまとう二律背反的(あちらを立てればこちらが立たず)な2つの視点が、シンポジウムの一番の焦点でした。その2つの視点とは、「子どもにとっての最大の利益」と「子どもの自己判断(決定)権」です。

従来は、子どもより大人のほうが「よく知っており」「判断力がある」から、子ども本人の意見(気持ち)ではなく、大人が判断すべきだという風潮が強かったのですが、現代社会ではより子どもの自己決定権を重んじるべきだ、という考え方にかたむいてきています。

このような解説を聞けば、私も含めて「ふーん、そうか」と思うだけでおしまいになってしまうかもしれません。しかしシンポジウムで講演者のお話を聞くにつれ、この二律背反が、家庭、学校、地域、職場、国際社会のあらゆる場面で、大きな問題になっていることがわかりました。皆さんにシンポジウムの中で議論された二律背反の具体例を紹介します。


離婚の際に子どもは両親のどちらが引き取るべきか?

離婚は不幸なできごとかもしれませんが、女性の自立が進んでいる国では日常茶飯事です。講演者の一人である英国のジェニー・ドリスコルさんによれば、英国も離婚率は高いとのことでしたが、低いと思っていた日本でも、離婚率は30%*1を超えていることを知りびっくりしています。大人である両親は、それぞれの考えに従って離婚するのですが、子どもは違います。そして多くの自立できない子どもは、(日本では)どちらかの親を選ばなければなりません。同じ子どもといっても16歳であれば、どちらか選ぶことは、(苦しいことですが)できるかもしれません。逆に3~4歳であれば、だれか(たとえば家庭裁判所の判事)が判断せざるを得ません。不条理なことですが、そうせざるを得ないことは納得できます。では16歳ではなく12歳ではどうでしょうか。11歳では・・・?

ここで、子どもにとっての最大の利益と本人の自己決定権の問題が生じるのです。本人はお父さんを選ぶかもしれませんが、多くの場合日本では母親が選ばれることが多いのです。比較的単純な二者択一(どちらの薬を使うべきか、など)に慣れてきた、医者頭の私には、とても難しい課題です。

子どもの権利を定めた、国連の「子どもの権利条約」は、難しい子どもの権利の原則を定めたものです。日本はすでに批准をしていますが、実際の条約に沿った法や条例の改定はこれからです。そして人権問題などでは世界のトップを走っている(と信じていた)アメリカでは批准されていないのです。

子どものwell-beingを追究するCRNにとって、子どもの権利は、最も重要な課題であることを実感したシンポジウムでした。


*1: ここでは、結婚している夫婦数に対する離婚数の比率を示しています。

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