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所長ブログ

Director's Blog
所長ブログでは、CRN所長榊原洋一の日々の活動の様子や、子どもをめぐる話題、所感などを発信しています。

ありのままで

2014年10月31日掲載
私は映画通ではありませんが、時々話題作を見ています。今年の話題作はなんといっても、「アナと雪の女王」でしょう。すでに2回観ましたが、物足りずについにDVDまで買ってしまいました。保育園、幼稚園児くらいの年齢の女の子までが「ありのままで」と口ずさんでいるのをよく見かけます。メロディーの魅力もあるのですが、日本で流行した理由は、女性の社会的地位が先進国の中ではまだ不十分といわれる日本の女性の間で共感が得られたからではないか、という新聞記事を見た覚えがあります。

周りを気にせずに、自分を実現すればいいのだ、という「ありのままで」という訳は、確かに日本人の心をつかんだのでしょう。しかし、すでに様々な人が指摘しているように、これは直訳でも意訳でもないと思います。Let it goのitは自分のことではなく、彼女に口うるさく意見したり注意したりする世間のことを意味していると解釈するのが正当でしょう。そうだとすれば意訳すると、「みんな、勝手にすればいいわ」といった意味になります。しかし、もし「ありのーままで」ではなく「勝手にーすれば」などという歌詞をつけたら、これほど人気が出なかったのではないでしょうか。

このような話題を出したのは、日本の子どもの自尊感情が低い、という定説に疑問を感じているからです。日本の保育園団体のなかには、(この低い)日本人の子どもの自尊感情をどうすれば高くすることができるか、というテーマを最上段に掲げているところもあるくらいです。

でも、どうして日本人の子どもの自尊心は低い、といわれているのでしょうか。さまざまな視点があると思いますが、その多くは、自尊感情を測る質問紙で親や子ども本人にアンケートを行った結果によるものです。たとえばドイツで開発された子どもの幸福感(ウェルビーイングあるいはQuality of life)を測る尺度を用いて測定した、日本人の子どもの自尊感情に関する研究はよく知られています。この尺度では、次の4つの質問に対する答えから自尊感情を測定しています。4つの質問とは
  • 私の子どもは自信があるようだった
  • 私の子どもはいろいろなことができると感じているようだった
  • 私の子どもは自分に満足しているようだった
  • 私の子どもはいいことをいろいろ思いついていた
です。「自信」「有能感」といった言葉でくくれるような内容になっています。しかし、たとえば「自分は他人から信頼されている」とか「自分は友人の役に立っている」といった、社会の中での自分の評価にかかわる自尊感情に関する項目は入っていません。

これまでの自尊感情に関する研究によって、自尊感情は「他人からの賞賛や評価」と「自分自身での自分の評価」の2つの要因によって形作られるといわれていますが、前述の尺度では4つの質問は、すべて自分自身での自己評価についての項目です。

一概には言い切れませんが欧米社会では、子育ての中で自立心が尊重されるといわれています。しかし日本ではむしろ協調性が重視されてきました。ドイツで考案された4つの質問内容で子どもの自尊感情を測定すれば、当然自立心が尊重される社会の中で育った子どものほうが「自尊心」が高くでるのではないのか、というのが私の疑問の原因となっています。

さて、再び「ありのままで」に戻ってみましょう。「ありのままで」という言葉は、他人に向けられたものではなく、自分に言い聞かせる言葉です。しかし「Let it go」は自分に言い聞かせることもできますが、下の例のように他人に言い聞かせることもできる言葉です。
「○○ちゃんが、僕の悪口をいうんだ」
「いわせておけよ、そんなの」(Let it go)

やや強引かもしれませんが、「ありのままで」という訳詞の中に、日本人の子どもの自尊感情が(実際よりも)低くでてしまうのではないか、という私の疑問へのヒントがあるように思いました。
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虐待の文化的意味

2014年9月 5日掲載

タイトルから、「えっ、虐待に意味があるの」と驚かれた方もいるかもしれません。ご安心ください、そういう意味ではないのです。

私の勤務する女子大学では、大学の国際化の一環として、3年前から英語によるサマースクールを開講しています。これは授業を英語で行う夏休みの集中講座のことです。人文科学系、社会科学系、自然科学系の3つのコースを開講し、私の大学の学生だけでなく国内外の協定大学からの学生も受講可能になっています。海外からの学生には、一定の条件を満たすと奨学金が出るため、昨年、今年ともに100名以上の海外の学生から応募があり、そのうち約50名が受講しました。アジア(ベトナム、中国、韓国、タイなど)からの学生が主体ですが、イタリア、ドイツ、ロシア、トルコからの学生も受講しています。

私はこのサマースクール全体のまとめ役であると同時に、人文科学系のコースの講師も兼任し、ここ数年子どもの虐待について3コマ分講義を受け持っています。

学生の約半数が外国の学生ですが、控えめな傾向にある日本の学生と違い、こちらが話しているときでも疑問点があるとどんどん挙手をして質問をぶつけてきます。これはとても刺激的です。

できるだけインタラクティブな授業にするために、授業の各所で学生に質問し、学生の考えを皆の前で発表してもらいますが、そこで様々な国の学生の虐待に関する考え方に大きな差があることを実感しました。

例えば、父親が子どもを抱きかかえてお尻をたたいている漫画を見せて、それを身体的虐待と考えるか、という問いへの学生の反応です。体罰は、欧米ではそのやり方如何を問わず身体的虐待と見なす傾向があることは前もって知っていましたが、案の定、イタリアやドイツの学生は、体罰は虐待だ、と言い切っていました。ところがアジアの学生の反応は全く違うのです。ミャンマーの男子学生は、「私たちの国では、体罰はしつけの一環である、という考え方をする人が多い」と流暢な英語で堂々と発言しました。ベトナムの女子学生は、「ベトナムでは、学校の先生に、親が(自分の子どもが)いたずらをしたり教室内のルールに従わなかったら、お仕置き(体罰)を加えてくれ、と頼むことすらある」とさらに過激(?)な意見を披露しました。さらにタイの学生からは、「タイの学校では今でも学生に対して、竹のむちで体罰を加えることがある」という発言まで飛び出しましたが、それらの発言に対してドイツやイタリアの学生は目を丸くしてショックを感じているようでした。

さらに、文化差がはっきり出たのは、子どもの労働に関する質問をしたときでした。15歳以下の子どもの労働は、広義の児童虐待に含まれる、というのが国連などの国際機関の解釈です。国連が作成した15歳以下の子どもの就労が多い国のマップには、アフリカやアジアの国々が示されています。私の講義の後に、学生に子どもの就労についてどう考えるかレポートを書いてもらい、その内容を発表してもらいました。ある程度予想していましたが、学生たちの反応はまっぷたつに分かれたのです。先ほどの雄弁なミャンマーの男子学生は、「ミャンマーでは家計を支えるために、子どもでも働いていることが多い。私はそれを虐待だとは思わない」という趣旨の発言をし、中国などの学生もそれを支持する発言をしました。ドイツやイタリアの学生は、まったく信じられない、あきれた、といった表情でそれを聞いていました。

こうした文化差が最も顕著に現れたのは、性的虐待に関する議論でした。性的虐待に関する概論の講義を終えた後に、性的虐待の文化差が如実に現れたある事例について話しました。それはカルフォルニアに住む日本人家族に実際に起こった実話です。女の赤ちゃんを父親が入浴させている記念写真をとったところ、写真現像を行ったフォトショップの従業員が、小児ポルノの証拠写真として警察に届け出たのです。父親は直ちに逮捕されましたが、日本の入浴文化について関係者が警察に説明をしたのちに放免された、という逸話です。この逸話に続いて、私も娘が小学校低学年のうちは一緒に入浴した、と話をしたところ、ドイツ、イタリアの女子学生の私を見る目つきが、小児ポルノの犯人を見るような目つきに変わったのです。幸い、日本人の女子学生のひとりが、手を挙げて「私は小学校5年生まで、父だけでなく、弟とも一緒に入浴していた」と勇気ある発言をして私を窮地から救ってくれましたが、ドイツの学生は、子どもではあっても男女が一緒に入浴するなんて信じられない、と憤懣 ふんまんやるかたない様子でした。

何を虐待とするのか、という一見科学的に定義できそうなことにも、文化的差異があり、グローバルな定義は難しいのかもしれません。ヨーロッパの学生たちが、サマースクールの経験から、「やはりアジアは遅れている」といった結論をもつことにならないことを願いたいと思いますが、皆さんはどのように思われるでしょうか。

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OMEPは世界幼児教育・保育機構のフランス語の頭文字をとったものです。今から66年前に、世界中の幼児教育や保育の専門家が集まり、幼児教育の質の向上や、子どもの権利擁護を目指して協力してゆくことを目的として結成された団体です。日本でも1995年に横浜で世界大会が開催されています。

今回のOMEPの世界大会は、アイルランド第二の都市であるコーク市で開催されました。コークの空港から市内へ向かうタクシーの中での最初の印象は、「空気に牧草のにおいがする」でした。東京はすでに30度を超える猛暑でしたが、コーク市は昼間でも20度前後と肌寒く、朝方には吐く息が白く見えるほどでした。

日本はOMEP参加国の中の中堅で、前述のように横浜に世界大会を誘致しただけでなく、毎年提案される年次課題研究をコツコツと行うなど、OMEPの発展に尽くしてきました。

幼児教育、保育の様々な課題について、教育講演や分科会が行われ熱心な意見の交換が行われました。トピックスとしては持続可能な発達、メディアと子ども、遊びと創造性、文化と保育など幅広く、世界中で幼児教育、保育が直面している問題がきわめて多様であることが反映されていました。

アイルランドの清涼な空気と自然、暖かな国民性、そしておいしいビールとともに、幼児教育、保育の専門家が、子どものよりよい発達のために努力している様子を垣間見ることができました。

と、ここまでは、楽しい経験でしたが、同時に以下のようなさみしさも少し感じました。

一つは、日本の専門家のプレゼンスの低さです。言葉の問題もあるのだと思いますが、遊びを中心として、子どもを見守る伝統的な幼児教育・保育の実績をあげてきたはずの日本からの発信があまりありませんでした。逆に、幼児教育や保育の体制が発展途上の国からの代表が、実情を雄弁に語っていました。またヨーロッパの専門家は、ヨーロッパの幼児教育がスタンダードであり、アジアやアフリカの先達であることを強く意識しているようでした。そのプレゼンスの中に一種の父権主義的な雰囲気を感じたのは私だけだったのでしょうか。私の専門分野である小児科の国際学会も以前は似たような雰囲気でしたが、現在ではまったく変わってきています。

もう一つさみしく感じたことは、OMEPで取り上げられているグロ―バルなテーマに比べて、国内の幼児教育や保育団体の関心がやや内向きであり、幼保一体化や予算の扱いといった制度、体制の変革に心を奪われているように感じられることです。もちろん制度の重要さは理解していますが、OMEPの姿勢の視線の高さのようなものが、より必要ではないかと思いました。

アイルランドの涼しい気候の影響を受けて、今回は少しさめたブログになってしまったようです。


【編集部より】

関連記事
ベネッセ教育総合研究所「ベネッセのオピニオン」
第53回 世界っておもしろい。一歩踏み出すところから始めよう! ―OMEP世界大会への参加を通して―
http://berd.benesse.jp/magazine/opinion/index2.php?id=4195
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復習の鬼 続き

2014年6月13日掲載

前々回このブログで復習の鬼について書きましたが、何人かの方から好意的なコメントをいただきました。教育については素人ですが、好意的なコメントに力を得て、もう一つ教育について日頃から考えていることを書こうと思います。 的外れかもしれませんが、読んでいただければ幸いです。

それは英語教育に関することです。でも、現在大きな関心の的となっている英語の早期教育に関することではなく、中学校以降の学校での英語教育に関する私見です。

私が中学生の頃うけた英語教育と、現在の英語教育では、いくつかの点で様変わりしているように思います。第一は、ネイティブの英語の発音を耳にする機会が大幅に増えたことです。実際のネイティブの教員だけでなく、インターネットなどによるインタラクティブな教材でネイティブの発音を簡単に聞くことができるようになっています。私が中学生だった頃は、ラジオやテレビの英語番組を視聴するか、あるいはレコードの教材を購入するしか方法がありませんでした。通学途中に、イヤホンでネイティブの発音に耳を慣らすことなどはできませんでした。そんな意味で現在の中高生は恵まれていると思います。

さて、もう一つ大きな変化だと思うのは、英語の書き取りで筆記体を教えなくなったことです。理由を調べてみたところ、ゆとり教育の普及の過程で、生徒への負担を考えて必修から外されたようです。2002年の中学校指導要領には「生徒の学習負担に配慮し、筆記体を指導することもできる」と、必須項目にしなくてもよいことが記載されています。今やパソコンで文書を作る時代だから、別に筆記体を覚えなくてもよいではないか、と賛同される方も多いと思います。

私が、私見を述べてみたいのは、この筆記体の功用についてです。

復習の鬼、では何度も復習を繰り返すことで、記憶が促進されると書きました。私は、英単語のスペリングを覚えるために、何度も何度も英(単)語をノートに書くという動作を繰り返しましたが、それはすべて筆記体で行ったのです。筆記体で書くスペリングは、一筆で書くので、指先でその動きを再現することができます。何度か指の動きでスペリングを覚えると、目をつぶっても指でスペリングをなぞることができるようになります。そうなると、視覚的にアルファベットを想起しなくても、指がその動きを覚えていて、空で書けるようになるのです。それ以降、英語のスペリングは、視覚的なイメージではなく、すべて指の動きで覚えてきました。現在でも英語の文を書いていて、スペリングが思い出せないときには、指先で空書きして確認しています。手の指だけでなく、足の指でもスペリングを空書きする癖がついてしまったために、無意識に動く私の足の指をみて、家族から「何しているの」と注意されたこともあるくらいです。

指の動きでスペリングを覚えるという方法は、私の個人的に有効な学習方法であるだけかもしれません。しかし、以下に述べるような理由で、英語の学習方法として再考してよいのではないかと思っています。

一つは、最近の記憶に関する研究によって、記憶には様々な種類があり、その中枢となる脳部位が異なっていることがわかってきていることです。指で覚えた記憶は「手続き記憶」と呼ばれるもので、視覚的な英単語の記憶とは別の脳部位が関係しています。熟練したピアニストが、譜面を見なくても長い曲を演奏できるのも、「手続き記憶」に従って指が動いているのです。視覚と聴覚だけでなく、指の動きという別の記憶部位を使ってスペリングを覚えるのです。別の記憶部位を使うために、視覚や聴覚の記憶部位の負担を少なくしている、といえるかもしれません。

もう一つの理由は、インターネット上で、私以外にも英単語は指で覚える、といっている方がほかにもいることを最近発見したことです。少なくとも私だけに有効なスペリングの記憶方法ではないことがわかり、こうしてブログに書いてみる気持ちになったのです。まだ、文科省に筆記体の功用を再考すべきだ、と進言する勇気まではありませんが、皆さんはどのように思われるでしょうか?

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筆者の英語ノート(高校一年時)

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フランスの映画監督パスカル・ブリッソンさんの「世界の果ての通学路」の試写会に行ってきました。インド、ケニア、アルゼンチン、モロッコの4カ国の田舎に住む子どもたちの通学シーンを淡々と写した映画です。

ケニアの11歳の兄と8歳の妹は、サバンナの真っただ中にある粗末な自宅から、一番近い小学校に通います。インドの兄弟は、脳性まひの兄と一緒に通学しています。他の2組の子どもについても同様の状況です。

しかし、その通学路が尋常ではないのです。ケニアの兄妹の通学路は14kmあります。日本でもそのくらいの距離を、バスや電車で通っている子どもはいくらでもいます。しかし、ケニアの兄妹の通学路には交通機関はありません。兄と妹は、途中に危険なゾウの群れが出没する「通学路」を毎日4時間かけて歩いて学校に通っているのです。インドの兄弟の通学路は4kmです。大した距離ではないかもしれませんが、脳性まひの兄を乗せた壊れかかったおんぼろの車いすを引っ張り、舗装のないでこぼこ道や川の浅瀬を横断して通学しているのです。

かつては日本にもこのような子どもがいたと思います。今の日本にこのような子どもがいれば、通学バスサービスや、分校を設置することが、課題になるかもしれません。

私がもくもくと学校を目指す子どもたちの姿を見て思ったのは、乏しい教育環境を改善しなくてはならない、といったことではありませんでした。

「教育」を受けることの意味を深く信じて、困難を乗り越えてゆく子どもたちのエネルギーと、子どもを信じて時には危険を伴う通学をさせている親の姿に、大きな感動を覚えました。

試写会のあとに、招待されて来日しているケニアの兄妹と、会場で懇談する機会がありました。日本では学校に行きたがらない子がたくさんいる、という話に、今13歳になっている兄はにわかには信じがたいという表情で、会場にいる親子づれの聴衆に向かって「お父さん、お母さん、もし子どもが学校に行きたがらなかったら、引きずってでも学校に通わせてください。教育を受けることがどんなに素晴らしいことか、子どもたちも知るべきです」と発言していました。

不登校の子どもの悩みは複雑であり、この兄の言葉を日本の不登校のすべての子どもたちに向けることは不適当だと思いますが、教育を受けることが「基本的人権」の一つであることを、思い出させてくれる経験でした。

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