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名誉所長ブログ

Koby's Note -Honorary Director's Blog

ロシアの小児科学のアカデミシャン、ステュディニキン教授

前回の所長ブログのモスクワの難病サーシャちゃんの話の中で、シベリヤの白血病の子どもたちが、1980年代に国立小児病院で治療を受けた話を書いたが、今回はアカデミックな話を書こう。

国際小児科学会/International Pediatric Association(IPA)の役員になったのは1977年、会長、副会長、理事と1989年までの12年間に渡り務めた。その間、いろいろな国の小児科医のリーダーと親しくなり、外国を訪問する機会は少なくなかった。行くことができず今でも残念に思っているのは、東ヨーロッパと南アフリカくらいである。

1980年代に入って間もなく、ロシア小児科学会の代表として、モスクワ大学教授であり、モスクワ小児病院の院長のステュディニキン教授が、評議員としてだったかと思うがIPAの役員の仲間に入って来た。世界の各地で開かれる会議で、任期中は少なくとも年1回は、会うことになるので、お互いに関心をもてば、仲良くなるのは当然のなりゆき。ヨーロッパの中で小児科学の歴史も伝統もある国のひとつであるロシアの小児科は、個人的にぜひ見たいと思っていたこともあって、急速に親しくなり、お互いに不自由な英語で話し合うようになった。

当時、IPAの本部はフランスのパリにあり、年に1回は理事会に行かなければならなかった。それに使うヨーロッパ便は、ほとんどが成田を飛び立ち、アンカレッジ、モスクワで給油して、パリに着くのであった。したがって、モスクワで2、3泊してパリのIPA理事会に出れば良いということになり、モスクワ訪問が決まった。それは、1980年代の中頃だったと思う。

歴史と伝統あるロシアの小児病院は、古い重厚な建物であり、確かにパリとかロンドンの小児病院と同じ趣があった。パリやロンドンの小児病院より、郊外の広々とした敷地にあり、樹木も豊かだった。しかし、古さが目立ち、アメリカの小児病院のような、学問の新しさは感じられなかった。

つづいて、モスクワ大学に案内されたが、いずれも立派な建物が印象的で、歴史と伝統の重さとともに、学問のレベルの高さを感じさせるものであった。当時は、モスクワ大学の医学部は成人医学部、小児医学部、歯学部、公衆衛生学部の4つからなっていた。その後、日本と同じように医学部・歯学部の2つになったという。

当時はソ連邦の時代で、レニングラードのエルミタージュ美術館を見たいと思ったが、日本でビザを取ってこなかったため、行けないことになり残念に思っていた。しかし、ステュディニキン教授のお計らいで、夜行列車で帰る旅行ならば、ビザも簡単にとれることがわかり、夜行列車に乗ってそれを強行することにした。モスクワを夜10時頃出て、レニングラードに朝着いて、朝食をとり、エルミタージュ美術館に一日いて、夕食をとり、また夜行列車でモスクワに帰るという強行軍である。国営旅行社Inturistが全てアレンジするので、困った思い出は全くない。

当時ソ連邦はあらゆる面で行きづまり始めていて、旅行者に見えない問題があったことには間違いない。私の様な外国人の泊まるホテルは決まっていて、そこでとる食事は別格のようであった。キャビアが白い大きな皿に山盛りにされ、それを黒パンに乗せて、ウォッカを飲みながら食べる、そして、魚も肉もついたフルコースであった。そこに集まったモスクワ小児病院の小児医5~6人にとっては、雰囲気から察するに、普段味わえない久しぶりの機会であったようである。お互いにメートルを上げた楽しい夕食であった。ステュディニキン教授は、静かに笑いながらウォッカをみんなにすすめていた。

ステュディニキン教授は、アカデミシャンとよばれ、小児科医の中でも、かなりの研究業績を上げて学術会議のメンバーになり、モスクワ大学の教授をされていた代表的な小児科学者である。毎年、クリスマスカードの交換をしてきたが、この2、3年はカードも来なくなってしまった。サーシャちゃんが国立小児病院に入院している時、日本小児科学会にお招き出来たことが、せめてものおかえしとなってしまったと、なつかしく思い出す。

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