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Koby's Note -Honorary Director's Blog

またハロウィーンが来た

冷たい風と共にまたハロウィーンが来た。町を歩くと繁華街のアメリカ風の店やレストラン、そしてデパートの飾りの中に、くり抜いて作ったカボチャの顔が並ぶようになった。カボチャの目や鼻や口の奥に、ろうそくの焔がゆれ動いたり、あるいは赤い豆電球が点滅したりしているのが見える。近くに置かれた木には、異様な仮面や衣装もぶら下がっている。

そもそもハロウィーンは、キリスト教の国や地域で、11月1日の万聖節の前夜祭として広まった。教会の行事のほかに、古代ケルト人の風習に基づいて、それぞれの地域でいろいろな行事が行われている。それこそ焚火から始まって、運命占い、リンゴ食い競走まであり、子どもを巻き込んだ民俗的な行事も行われている。元来はカブが使われていたそうだが、アメリカでは開拓の歴史からか、秋の収穫の代表としてなじみの深いカボチャをくり抜いて、目・鼻・口をつけた顔を飾り、いろいろと扮装した子ども達が近所の家をまわって、お菓子などを求めるのである。

昔は、日本にはハロウィーンはなかったし、アメリカ人のコミュニティは別であろうが、戦後もなかった。しかし、この10年程前からと思うが、日本の町にもハロウィーンが現れ始めた。家庭ではあまり見たことはないが、商店やレストランにはカボチャの顔や仮面が並ぶようになった。東京の街全体がアメリカのそれに似てきたためか、商業主義とは言え、あまり異質な感じがしなくなった。しかし、私が折々利用する学士会館という固いところにさえ、それが現れてきたのには一寸驚いた。

私が初めてハロウィーンに出くわしたのは、昭和29年(1954年)の10月末、アメリカでインターンを始めて数ヶ月の頃だった。最初のハロウィーンの思い出は、冷たい風がエリー湖から吹き始めたクリーブランドの東の住宅街を、アドレスのメモを見ながら、ある人の家を訪ねて、コンクリートの石畳の道をひとりコツコツと歩いていた姿から始まる。薄暗い通りに面した家々の窓からカボチャの顔が目をゆらゆらと輝かせ、口を大きく開いているのが見られた。グループを作った子ども達は、顔に異様な化粧をしたり、怪物の面をかぶったりして、飴やケーキをもらおうとドアのところに群がっていた。アメリカのハロウィーンは子ども達にとってのお祭りの様なものだと思った。

窓のカボチャの顔を見ながら、隣近所の家々を訪ねてお菓子をもらって歩きまわる子ども達の群とすれ違い、とっぷり日も暮れて、やっと訪ねる家に着き、待っている人と出会うことが出来た。

その人は、名前は忘れてしまったが、戦前私と同じように大学を出て間もなくアメリカに渡った日本人で、西海岸から東海岸のクリーブランドの町に移り、事業を興して大成功し、商工会議所の会頭まで務めた方なのである。しかし、第二次世界大戦が始まると共に、その全てを失い、収容所にまで入れられてしまった。正に、奈落の底に落ちるような大事件で、彼の憤りと悲しみは想像に絶する。しかし、令夫人がアメリカ女性であり、多くのアメリカ人の友人の力で、収容所だけは出て、戦時中も街でなんとか生活することだけは出来たという。

戦争は終わったものの、全てが急に良くなるわけではなく、当然のことながら、厳しい生活をしておられた。そんな中、戦後10年足らず経って、日本から留学してきた若かった私に偶々出会い、アメリカに来た若い当時のことを思い出したのであろう。遊びに来いと招かれた日が、ハロウィーンだったわけである。

勿論、家も立派な訳もなく、子ども達の影もない淋しい閑散とした裏の部屋で、戦中の彼の苦労の物語を聞かされたのである。しばらくたって、もの静かな優しいアメリカ女性の夫人が仕事から帰ってこられて、温かい手料理が作られた。ビールを飲みながら話は続けられたのである。その時、勉強が済んだら、自分はちゃんと日本に帰ろうと心に決めた事だけは確かである。

あれから50余年になるので、もう御存命でないであろう。しかし、10月末になり、ハロウィーンのカボチャの顔の飾りを見ると、いつもクリーブランドの最初のハロウィーンと、そこで出会った彼の話を、一抹の感傷をもって思い出す。

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