
所長ブログ
Director's Blog所長ブログでは、CRN所長榊原洋一の日々の活動の様子や、子どもをめぐる話題、所感などを発信しています。 | ![]() |
長い間謎であった遺伝の仕組みの発見は、人類の科学発見の中でも最も大きな成果の一つです。遺伝を司っているのは、DNAという化学物質であり、一旦親から受け継いだDNAは一生変化しない、というのが現代の科学の常識になっています。
しかし、その常識はエピジェネティックスという学問によって塗り替えられました。DNA自身は変化しないけれど、母親の胎内の環境によって、DNAに化学結合が起こり、遺伝情報の発現が変化するという新しい常識です。一卵性双生児でも、DNAの化学結合が違うために、微妙な差があることも実証されています。
それでもこうした遺伝子の化学的修飾は、生まれる前のことであり、生後の生活環境は遺伝子に影響を与えないと思われてきました。
そうした常識が覆される研究成果が、アメリカの小児科学の雑誌"Pediatrics"に報告されています。
DNAのかたまりである染色体の端末(4箇所)にある遺伝子は、テロメアと呼ばれていますが、それは細胞が分裂する際に次第に短くなってゆくことが知られています。すべての体細胞は、経時的に細胞分裂を繰り返して再生していますが、テロメアは分裂毎に短くなり一定の長さになると、体細胞は分裂ができなくなります。こうした事実から、テロメアの長さは、その個体の寿命を決めていると考えられています。
Pediatricsに発表された論文は、子どもの父親の喪失(死別、離婚、収監)経験が、子どものテロメアの長さにどのような影響をあたえるかを検討したものです。2,420人の子どもの親に対して、生後48時間に子どもと親の属性を聴取し、引き続いて1、3、5歳時に、家族の状況の聞き取りを行いました。そして9歳の時に子どもの唾液を採取し、唾液中の表皮細胞のテロメアの長さ(染色体あたりの塩基列TTAGGGの個数の平均値)を遺伝学的な手法(詳細は省略)によって測定したのです。
結果は驚くべきものでした。9歳までに父親喪失体験のある子どもでは、経験のない子どもに比べて、平均14%もテロメアの長さが短くなっていたのです。父親喪失の種類によっても短縮度は異なり、死別では16%、父親の収監では10%、離婚による離別では6%の短縮が認められました。また男児では女児よりも40%短縮の程度が強く、またうつ病などに関連のあるセロトニン遺伝子に関連するテロメアの短縮率が最も高い事が分かりました。テロメア短縮のメカニズムは不明ですが、父親喪失によるストレス増大が関連していると論文の著者は推定しています。
ストレスが多いと、寿命が短くなるのかどうかについては、まだ研究がありませんが、経験によって遺伝子が変化する(テロメアが短くなる)という発見に驚きました。科学は新しい発見によって書き換えられることを目の当たりにした思いです。
参考文献
それでもこうした遺伝子の化学的修飾は、生まれる前のことであり、生後の生活環境は遺伝子に影響を与えないと思われてきました。
そうした常識が覆される研究成果が、アメリカの小児科学の雑誌"Pediatrics"に報告されています。
DNAのかたまりである染色体の端末(4箇所)にある遺伝子は、テロメアと呼ばれていますが、それは細胞が分裂する際に次第に短くなってゆくことが知られています。すべての体細胞は、経時的に細胞分裂を繰り返して再生していますが、テロメアは分裂毎に短くなり一定の長さになると、体細胞は分裂ができなくなります。こうした事実から、テロメアの長さは、その個体の寿命を決めていると考えられています。
Pediatricsに発表された論文は、子どもの父親の喪失(死別、離婚、収監)経験が、子どものテロメアの長さにどのような影響をあたえるかを検討したものです。2,420人の子どもの親に対して、生後48時間に子どもと親の属性を聴取し、引き続いて1、3、5歳時に、家族の状況の聞き取りを行いました。そして9歳の時に子どもの唾液を採取し、唾液中の表皮細胞のテロメアの長さ(染色体あたりの塩基列TTAGGGの個数の平均値)を遺伝学的な手法(詳細は省略)によって測定したのです。
結果は驚くべきものでした。9歳までに父親喪失体験のある子どもでは、経験のない子どもに比べて、平均14%もテロメアの長さが短くなっていたのです。父親喪失の種類によっても短縮度は異なり、死別では16%、父親の収監では10%、離婚による離別では6%の短縮が認められました。また男児では女児よりも40%短縮の程度が強く、またうつ病などに関連のあるセロトニン遺伝子に関連するテロメアの短縮率が最も高い事が分かりました。テロメア短縮のメカニズムは不明ですが、父親喪失によるストレス増大が関連していると論文の著者は推定しています。
ストレスが多いと、寿命が短くなるのかどうかについては、まだ研究がありませんが、経験によって遺伝子が変化する(テロメアが短くなる)という発見に驚きました。科学は新しい発見によって書き換えられることを目の当たりにした思いです。
参考文献
- Mitchell C, McLanahan S, Schnener L, et al. Father loss and child telomere length. Pediatrics 2017 Aug; 140(2).
最近メキシコと中国で開催された幼児教育の学会に連続して参加してきました。日程が近かったので、メキシコから上海まで20時間、飛行機を3便乗り継いでの強行軍でしたが、幾つかの大変興味深い知見を得ることができました。数回に分けて報告します。
メキシコの学会での、フィンランドの算数教育の専門家であるPekka Räsänen先生の発表は大変印象的でした。講演後にもいろいろ話を聞くことができました。
講演の内容は、フィンランドの算数教育のカリキュラムが、他国、特にラテンアメリカの国に比べて進行がゆっくりしている理由についてでした。
例えば、フィンランドでは、小学校に入って初めて、数字の書き方を習います。足し算や引き算は、1年生では教えません。
Räsänen先生の説明は極めて明確でした。多くのラテンアメリカで採用されている算数教育はカリキュラムの進行スピードが速く、内容を理解できている生徒は小学校高学年になるとごく一部しかいないことがわかっている。理解を促進するために、教え方に様々な工夫がされているが、カリキュラムの進行速度は変えようとはしない。 小学校低学年は、数の理解をすることにもともと困難があるので、フィンランドでは十分に時間をかけて教えていく、ということでした。Räsänen先生は、数の概念の理解を助けるゲーム形式のタブレットソフトを開発しており、実際にそれを使いながら、数の概念を理解させる方法についてわかりやすい講演をされていました。
実際にRäsänen先生が調査を行ったラテンアメリカのある国では、結果として小学校修了時に生徒の大部分が数の基本概念や四則計算ができない状態を、カリキュラムの進行速度ではなく、教師の教授技術の未熟さに帰してしまっている、という問題点について語ってくれました。
その上でフィンランドでは、むしろ子どもの数や計算についての理解力の現実に合わせて、ゆっくりとしたカリキュラムにしているのだ、と言っていました。
ところで、Räsänen先生が開発された数や計算の理解を助けるゲーム式のソフトは、数の理解や計算が視覚イメージの作業記憶に依存しているという脳科学的知見に基づいて作られていますが、数を丸い玉で示したソフトは、そろばんの珠のように見えました。講演後そのことをRäsänen先生に伝えると、先生も「類似点について気がついていた。日本や韓国の子どもたちの算数能力が高いのはそのためかもしれない」と言っておられました。日本の算数教育でそろばんはあまり使われていないのではないかと思いましたが、嬉しいコメントでした。
講演の内容は、フィンランドの算数教育のカリキュラムが、他国、特にラテンアメリカの国に比べて進行がゆっくりしている理由についてでした。
例えば、フィンランドでは、小学校に入って初めて、数字の書き方を習います。足し算や引き算は、1年生では教えません。
Räsänen先生の説明は極めて明確でした。多くのラテンアメリカで採用されている算数教育はカリキュラムの進行スピードが速く、内容を理解できている生徒は小学校高学年になるとごく一部しかいないことがわかっている。理解を促進するために、教え方に様々な工夫がされているが、カリキュラムの進行速度は変えようとはしない。 小学校低学年は、数の理解をすることにもともと困難があるので、フィンランドでは十分に時間をかけて教えていく、ということでした。Räsänen先生は、数の概念の理解を助けるゲーム形式のタブレットソフトを開発しており、実際にそれを使いながら、数の概念を理解させる方法についてわかりやすい講演をされていました。
実際にRäsänen先生が調査を行ったラテンアメリカのある国では、結果として小学校修了時に生徒の大部分が数の基本概念や四則計算ができない状態を、カリキュラムの進行速度ではなく、教師の教授技術の未熟さに帰してしまっている、という問題点について語ってくれました。
その上でフィンランドでは、むしろ子どもの数や計算についての理解力の現実に合わせて、ゆっくりとしたカリキュラムにしているのだ、と言っていました。
ところで、Räsänen先生が開発された数や計算の理解を助けるゲーム式のソフトは、数の理解や計算が視覚イメージの作業記憶に依存しているという脳科学的知見に基づいて作られていますが、数を丸い玉で示したソフトは、そろばんの珠のように見えました。講演後そのことをRäsänen先生に伝えると、先生も「類似点について気がついていた。日本や韓国の子どもたちの算数能力が高いのはそのためかもしれない」と言っておられました。日本の算数教育でそろばんはあまり使われていないのではないかと思いましたが、嬉しいコメントでした。
最近関東地方のある中学校で大勢の生徒が給食を残している実態が報告され、マスコミを賑わせています。市販の弁当のようなプラスチック容器が多数並べられ、そのうち半分以上食べ残された容器がおそらく過半を占める映像は、かなりショッキングでした。
異物混入などの続報も出ていますが、当初のマスコミの論調は、「薄味でおいしくない」「冷めていてまずい」といった生徒の意見をもとに、味付けや食べ物の温度管理の問題や、(飽食で?)味にうるさく、給食を残してしまう近頃の生徒に焦点があたっていました。しかし私はここに今日の学校給食の根本的な問題が隠されているように思いました。
調べてみると学校給食は、戦後約10年が経過した昭和29年に制定された学校給食法に基づいています。法律を読んでみると、近年制定された食育基本法の内容を先取りした先進的で包括的な法律であることが分かります。食材への関心や、食文化などの習得についてもきちんと述べられています。戦後間もなく、まだ栄養不良の子どもたちが多かった時代に、国民全体の栄養状態を底上げしようという当時の為政者の気持ちがにじみ出ていると思いました。
今回の多量の食べ残しの問題は、表面的にはさまざまな理由(経費等)による校内での調理の困難に起因した給食外注や、大量生産による画一的な献立、栄養バランスへの配慮による薄味、そして腐敗防止のための低温管理などにあるように見えます。学校給食法では、校内の調理過程を児童生徒が見ることによる教育効果もうたっており、外注はそうした法律の基本的精神に沿うことも困難です。
しかし私が最も根本的な問題だと思う点は別のところにあります。今回の報道のきっかけは、生徒が給食を多量に残す、という事実でした。そしてその背景にある前述の給食体制の問題点が出てきた訳ですが、私は現在の体制の給食では食べ残すことは当然予想されることであり、そのことには何の問題もなく、騒ぎ立てることこそ問題であると思うのです。
外注の弁当形式の給食は、薄味、低温といった問題以前に、すべての生徒に同量提供されます。私たち大人も、会議などで給食同様に弁当が供されることがあります。その時に参加者全員が完食するでしょうか?まず、そんなことは経験したことがありません。一人一人食事の量や、味には好みがあり、残しても決して非難されないでしょう。また、弁当を注文した会議の主催者に、食べ残しが多いことで参加者から苦情がでることもないでしょう。
思春期の過程にある小学校高学年から中学生は、体格の差が大きな時です。同量の給食を提供すれば、食べ残しがでることは避けられません。どうしても食べ残しを少なくしたいのであれば、方法は2通り考えられます。一つは、一番体重が少なく小食の生徒が食べる量に統一する方法です。しかしこの方法では、大部分の生徒は空腹で半日過ごさなければなりません。平均的な体重と食欲の生徒に合わせても、半数は食べきれず半数は満腹にならないことになります。
もう一つの方法は、バイキング形式にして、自分で食べる量を決める方法です。一部の学校では実施されているのだと思いますが、経費や管理などで多くの学校では導入が困難なのでしょう。
私の世代は、戦争による災禍の記憶がまだ新しい時代に給食を食べました。食事を残すことは悪徳であり、「米粒一つ残しても、目がつぶれる」というしつけの元で育ちました。あの悪評高い脱脂粉乳を飲んで育ちました(私は決して嫌いではなかったのですが)。現在も、どのような形態の給食であれ、残すことは悪いことである、という昔の考え方がまだ社会的に生きているとしか思えません。
地球規模で考えれば、「もったいない精神」は称揚すべきでしょうが、生徒一人一人の栄養所要量、味の好み、食欲が異なることを前提として考えれば、今回の給食の大量食べ残しは当然の帰結であり、少なくとも生徒たちには何の責任もないのです。
調べてみると学校給食は、戦後約10年が経過した昭和29年に制定された学校給食法に基づいています。法律を読んでみると、近年制定された食育基本法の内容を先取りした先進的で包括的な法律であることが分かります。食材への関心や、食文化などの習得についてもきちんと述べられています。戦後間もなく、まだ栄養不良の子どもたちが多かった時代に、国民全体の栄養状態を底上げしようという当時の為政者の気持ちがにじみ出ていると思いました。
今回の多量の食べ残しの問題は、表面的にはさまざまな理由(経費等)による校内での調理の困難に起因した給食外注や、大量生産による画一的な献立、栄養バランスへの配慮による薄味、そして腐敗防止のための低温管理などにあるように見えます。学校給食法では、校内の調理過程を児童生徒が見ることによる教育効果もうたっており、外注はそうした法律の基本的精神に沿うことも困難です。
しかし私が最も根本的な問題だと思う点は別のところにあります。今回の報道のきっかけは、生徒が給食を多量に残す、という事実でした。そしてその背景にある前述の給食体制の問題点が出てきた訳ですが、私は現在の体制の給食では食べ残すことは当然予想されることであり、そのことには何の問題もなく、騒ぎ立てることこそ問題であると思うのです。
外注の弁当形式の給食は、薄味、低温といった問題以前に、すべての生徒に同量提供されます。私たち大人も、会議などで給食同様に弁当が供されることがあります。その時に参加者全員が完食するでしょうか?まず、そんなことは経験したことがありません。一人一人食事の量や、味には好みがあり、残しても決して非難されないでしょう。また、弁当を注文した会議の主催者に、食べ残しが多いことで参加者から苦情がでることもないでしょう。
思春期の過程にある小学校高学年から中学生は、体格の差が大きな時です。同量の給食を提供すれば、食べ残しがでることは避けられません。どうしても食べ残しを少なくしたいのであれば、方法は2通り考えられます。一つは、一番体重が少なく小食の生徒が食べる量に統一する方法です。しかしこの方法では、大部分の生徒は空腹で半日過ごさなければなりません。平均的な体重と食欲の生徒に合わせても、半数は食べきれず半数は満腹にならないことになります。
もう一つの方法は、バイキング形式にして、自分で食べる量を決める方法です。一部の学校では実施されているのだと思いますが、経費や管理などで多くの学校では導入が困難なのでしょう。
私の世代は、戦争による災禍の記憶がまだ新しい時代に給食を食べました。食事を残すことは悪徳であり、「米粒一つ残しても、目がつぶれる」というしつけの元で育ちました。あの悪評高い脱脂粉乳を飲んで育ちました(私は決して嫌いではなかったのですが)。現在も、どのような形態の給食であれ、残すことは悪いことである、という昔の考え方がまだ社会的に生きているとしか思えません。
地球規模で考えれば、「もったいない精神」は称揚すべきでしょうが、生徒一人一人の栄養所要量、味の好み、食欲が異なることを前提として考えれば、今回の給食の大量食べ残しは当然の帰結であり、少なくとも生徒たちには何の責任もないのです。
小児科医としての私の第一のミッションは、子どもの病気を診断し治療することです。現在でもそのとおりですが、子どもの発達に関心をもつようになり、子どもの健康を良好な状態に保つためには、病気を治すだけでは十分ではないと知るようになりました。世界保健機関(WHO)の「健康」の定義にも、「健康とは、身体的・精神的・社会的に完全に良好な状態であり、たんに病気あるいは虚弱でないことではない。」と書かれています。
病気の治療の第一の目的は病気を治すことですが、かつては病気の治癒率をよい治療の目安にしていた医療の領域でも、治癒するだけではなく治療後の患者の生活が精神的、社会的にも良好であることが、よい治療の目安とされるようになっています。
そうしたよい治療の目安に使われる概念がQuality of Life(QOL)です。日本語では「生命の質」となりますが、あまりよい日本語ではないので、最近ではQOLで通るようになっています。
病気は治ったけれど、精神的、社会的に病気になる前のよい状態に戻らなければ、その治療はまだ十分とはいえないのです。
現在では、病気とは関係なく、生きていることそのもののQOLを評定する尺度が考案され、診療の場面だけではなく、生活そのもののQOLを測定することができるようになりました。
私の専門である小児神経学では、近年発達障害の医療に関する関心が高まっています。発達障害の中でも、注意欠陥多動性障害(ADHD)の子どもは、不注意や落ち着きのなさといった症状だけでなく、そうした症状が原因で本人のQOLが低下していることがよく知られています。
ここ数年、私は文科省の研究補助金(科研費)を頂きながら、日本とアジアの国の子どものQOLや自尊感情に関する調査を行っています。現在その研究成果の分析を行っていますが、QOLに関する興味深い結果が得られています。そのひとつが今回のタイトルにある「親の幸福は子どもの幸福」です。5歳と7歳のお子さんの親御さんに御協力いただき、家庭生活や園(学校)生活、お子さんの行動特徴などの多くの項目に加えて、お子さんと親御さん(ほとんどが母親)のQOLについても調べています。
統計的な分析によって、子どものQOLに影響をあたえる因子を調べましたが、数多くの因子のうち、子どものQOLに影響を与える因子として、親のQOLと子どもの不注意が抽出されてきたのです。不注意はもちろん子どものQOLに負の影響を与えます。このことは調査を行う前から予想していました。しかし、親のQOLが子どものQOLに正(ポジティブ)な影響を与えることについては、調査前は予想していませんでした。調査では親御さんにお願いして、家庭の年収や親御さんの学歴など、多数の質問項目について回答していただきましたが、多数の因子の中ではこの2つ―親のQOLと子どもの不注意―だけが統計的に有意であることが分かったのです。近年の親子関係のさまざまな問題(虐待、愛着関係、過保護など)からは、親と子どもは結局他人であると醒めた見方もできますが、今回の調査で、QOLは親子で共有しているということが明らかになったのです。
子どもの幸福を願うのであれば、まず親である自分が幸福になることなのです。
そうしたよい治療の目安に使われる概念がQuality of Life(QOL)です。日本語では「生命の質」となりますが、あまりよい日本語ではないので、最近ではQOLで通るようになっています。
病気は治ったけれど、精神的、社会的に病気になる前のよい状態に戻らなければ、その治療はまだ十分とはいえないのです。
現在では、病気とは関係なく、生きていることそのもののQOLを評定する尺度が考案され、診療の場面だけではなく、生活そのもののQOLを測定することができるようになりました。
私の専門である小児神経学では、近年発達障害の医療に関する関心が高まっています。発達障害の中でも、注意欠陥多動性障害(ADHD)の子どもは、不注意や落ち着きのなさといった症状だけでなく、そうした症状が原因で本人のQOLが低下していることがよく知られています。
ここ数年、私は文科省の研究補助金(科研費)を頂きながら、日本とアジアの国の子どものQOLや自尊感情に関する調査を行っています。現在その研究成果の分析を行っていますが、QOLに関する興味深い結果が得られています。そのひとつが今回のタイトルにある「親の幸福は子どもの幸福」です。5歳と7歳のお子さんの親御さんに御協力いただき、家庭生活や園(学校)生活、お子さんの行動特徴などの多くの項目に加えて、お子さんと親御さん(ほとんどが母親)のQOLについても調べています。
統計的な分析によって、子どものQOLに影響をあたえる因子を調べましたが、数多くの因子のうち、子どものQOLに影響を与える因子として、親のQOLと子どもの不注意が抽出されてきたのです。不注意はもちろん子どものQOLに負の影響を与えます。このことは調査を行う前から予想していました。しかし、親のQOLが子どものQOLに正(ポジティブ)な影響を与えることについては、調査前は予想していませんでした。調査では親御さんにお願いして、家庭の年収や親御さんの学歴など、多数の質問項目について回答していただきましたが、多数の因子の中ではこの2つ―親のQOLと子どもの不注意―だけが統計的に有意であることが分かったのです。近年の親子関係のさまざまな問題(虐待、愛着関係、過保護など)からは、親と子どもは結局他人であると醒めた見方もできますが、今回の調査で、QOLは親子で共有しているということが明らかになったのです。
子どもの幸福を願うのであれば、まず親である自分が幸福になることなのです。
文科省が、小学校就学時の発達障害の発見のための健診を強化するという方針を打ち出したというニュースがありました。
なぜ、就学時の発達障害の発見を強化しなければならないのでしょうか?
発達障害は早期発見、早期対応が重要であり、就学後に気づくより就学時に発見したほうがよい、という理由によるものとされており、本ブログをお読みの多くの方々も、その通りではないかと思われると思います。
私の疑義は、なぜ就学時に発見しなくてはならないのかということです。発達障害は、その種類によりますがおしなべて、学校などでの人間関係や集団生活あるいは学習において、その症状が顕在化します。就学後の学級で、様々な困難が出現し、治療や療育が行われたり、教育的な「合理的配慮」が行われるというのが一般的な道筋です。もちろん、就学前から発達障害の特徴が明らかになり、就学時点、あるいはその前から、特別支援教室や特別支援学校への就学が考慮されることもあります。
就学時健診で発達障害の見立てが行われるのと、就学後に見立てられることの差はどこにあるのでしょうか。もちろん時間的には就学時健診で見立てが行われるほうが少し早いのですが、その時間的差はそれほど大きいとは思われません。就学時健診という比較的短時間のアセスメントと、就学してからの学級での行動の観察では、後者の方が明らかにより細かな見立てができると思います。
就学後の教室での行動の様子から、専門家による見立てに進んでも良いはずです。就学後に診断がついたら、そこで対応(合理的配慮)を行えば良いのです。
これは私の憶測ですが、就学時に発達障害を診断して、早いうちから「適切な対応」をするというのは、発達障害と見立てられた子どもを、特別支援教室ないし特別支援学校に就学させるということなのではないでしょうか?
すべての学校は、発達障害の子どもに「合理的配慮」をすることがすでに求められているわけですから、発達障害の見立てを就学時にこだわって行うことの合理的な理由は、私には見えません。
以前、オランダの学校教育に詳しいリヒテルズ直子さんと、ある会合でご一緒したことがあります。私はそこで、「発達障害の告知」というテーマでお話をさせていただきました。私の話を聞いたリヒテルズさんは、不思議そうな顔をしながら次のように質問されました。「どうして告知が必要なのですか。私には全く理解できません」と。
発達障害の告知とは、あるお子さんに発達障害の診断をしたときに、親だけでなく、担任の先生や本人あるいは同じクラスの子どもとその親に、診断名ないしは子どもの特徴を伝えることを言います。
日本では、発達障害の診断によって、その子どもを通級教室に紹介したり、時には普通学級から特別支援学級、特別支援学校への転校をしてもらうことがあるので、その際に告知は必要になると、私は説明しました。
オランダでは、子どもの発達障害の有無にかかわらず、親の希望で異なった種類の学校を選ぶことができます。日本の特別支援学校のような学校もありますが、それも親が自由に選べるといいます。そしてインクルーシブ教育が行われているので、発達障害の有る無しに関わらず、希望した学校に就学できるのです。当然、普通クラスに発達障害の子どももおり、子どものニーズにあった合理的配慮のもとに教育が行われるのです。
リヒテルズ直子さんが、「なぜ告知が必要か分からない」と言われたのは、オランダでは告知の有無にかかわらず、子どもに発達障害の行動特性が見られれば、学校はその特性に準じた教育を(親が発達障害について教師に告知しなくても)行うことになっているからだったのです。
さて「就学時」に発達障害の見立てを行うことの意味について、読者の皆さんはどのように思われますか?
発達障害は早期発見、早期対応が重要であり、就学後に気づくより就学時に発見したほうがよい、という理由によるものとされており、本ブログをお読みの多くの方々も、その通りではないかと思われると思います。
私の疑義は、なぜ就学時に発見しなくてはならないのかということです。発達障害は、その種類によりますがおしなべて、学校などでの人間関係や集団生活あるいは学習において、その症状が顕在化します。就学後の学級で、様々な困難が出現し、治療や療育が行われたり、教育的な「合理的配慮」が行われるというのが一般的な道筋です。もちろん、就学前から発達障害の特徴が明らかになり、就学時点、あるいはその前から、特別支援教室や特別支援学校への就学が考慮されることもあります。
就学時健診で発達障害の見立てが行われるのと、就学後に見立てられることの差はどこにあるのでしょうか。もちろん時間的には就学時健診で見立てが行われるほうが少し早いのですが、その時間的差はそれほど大きいとは思われません。就学時健診という比較的短時間のアセスメントと、就学してからの学級での行動の観察では、後者の方が明らかにより細かな見立てができると思います。
就学後の教室での行動の様子から、専門家による見立てに進んでも良いはずです。就学後に診断がついたら、そこで対応(合理的配慮)を行えば良いのです。
これは私の憶測ですが、就学時に発達障害を診断して、早いうちから「適切な対応」をするというのは、発達障害と見立てられた子どもを、特別支援教室ないし特別支援学校に就学させるということなのではないでしょうか?
すべての学校は、発達障害の子どもに「合理的配慮」をすることがすでに求められているわけですから、発達障害の見立てを就学時にこだわって行うことの合理的な理由は、私には見えません。
以前、オランダの学校教育に詳しいリヒテルズ直子さんと、ある会合でご一緒したことがあります。私はそこで、「発達障害の告知」というテーマでお話をさせていただきました。私の話を聞いたリヒテルズさんは、不思議そうな顔をしながら次のように質問されました。「どうして告知が必要なのですか。私には全く理解できません」と。
発達障害の告知とは、あるお子さんに発達障害の診断をしたときに、親だけでなく、担任の先生や本人あるいは同じクラスの子どもとその親に、診断名ないしは子どもの特徴を伝えることを言います。
日本では、発達障害の診断によって、その子どもを通級教室に紹介したり、時には普通学級から特別支援学級、特別支援学校への転校をしてもらうことがあるので、その際に告知は必要になると、私は説明しました。
オランダでは、子どもの発達障害の有無にかかわらず、親の希望で異なった種類の学校を選ぶことができます。日本の特別支援学校のような学校もありますが、それも親が自由に選べるといいます。そしてインクルーシブ教育が行われているので、発達障害の有る無しに関わらず、希望した学校に就学できるのです。当然、普通クラスに発達障害の子どももおり、子どものニーズにあった合理的配慮のもとに教育が行われるのです。
リヒテルズ直子さんが、「なぜ告知が必要か分からない」と言われたのは、オランダでは告知の有無にかかわらず、子どもに発達障害の行動特性が見られれば、学校はその特性に準じた教育を(親が発達障害について教師に告知しなくても)行うことになっているからだったのです。
さて「就学時」に発達障害の見立てを行うことの意味について、読者の皆さんはどのように思われますか?
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