CHILD RESEARCH NET

HOME

TOP > 論文・レポート > 子育て応援団 > 【産科医の海外留学・出産・子育て記】第4回 ハーバード大学への道②合格までの奮闘

このエントリーをはてなブックマークに追加

論文・レポート

Essay・Report

【産科医の海外留学・出産・子育て記】第4回 ハーバード大学への道②合格までの奮闘

要旨:

ハーバードに目標を定め留学を決心したものの、高いハードルが待っていました。数々の申請書類、証明書のほかに、GREというアメリカの大学卒業程度の学力があるということを証明する試験と、TOEFLという語学力を証明する試験を受けなくてはなりません。しかも2人の小さな子どもを抱えながら、3人目の子どもを妊娠中!好きな格言や『ドラゴン桜』の先生の言葉で自らを励まし、夫に数学を教わったりと、時間のやり繰りをしながら猛勉強の日々を送ったのです。
さて、ハーバード大学大学院に目標を定めた私が最初にしたことは、海外留学をした多くの先生方、先輩方にお話を聞いて回り、留学や助成金情報を集め始めるとでした。そうすることで、少しずつ実現する方向に進んでいきました。目指す米国大学院の卒業生で推薦状を書いてくださるという先生も現れました。自分の目標を設定して口に出してみると、実現の可能性が増えていくということを身を持って体験しました。

幸い、家族の反対はありませんでした。夫は、私が留学のために勉強したり助成金の申請をしたりするのを見て励ましてくれましたし、私が「今の日本にはこういう人材が必要」と熱く語るのを、理解してくれていました。自分の両親はアメリカ留学で楽しい思い出を持っていましたし、夫の両親も、私がやりたいことに対していつもサポーティブで応援してくれましたので、とてもラッキーだったと思います。何をゴールに選択するか、そう考えた時に、診療をする医師であるというだけでなく、研究や教育もでき、信頼できる最良で最新の情報をもっている医師像がイメージされていたというのは、このように、穏やかで、信頼できる家族がいてくれたからだと思います。

そうは言っても、子どもを抱えながらの留学の実現は確かに大変です。留学に行き着くまでに、家庭や子育てをどう両立してきたか、ハンディの大きい既婚・子持ちによる、リアルな両立方法や苦労話を聞きたい、などのご相談も実際よく受けます。また、高収入の女性なら育児との両立のため、家事代行サービスやベビーシッターを雇えるけれど、そうでない女性でも、育児と仕事を両立できるような、ロールモデルを教えてほしいと言われることもあります。

確かに我が家は夫婦二人共稼ぎのダブルインカムで、医師という仕事を辞めることは考えられなかったため、仕事を続けることを優先させてヘルパーさんとシッターさんに家事や送り迎えを頼める状況にありました。お世話になる方々へのお支払いは月間5~6万円、保育料は5万円、その他子育てのためにやむを得ず出費するタクシー代や食費は3~4万円にのぼり、私たち家族にとっても大きな負担でした。母も、子ども3人を育てながら働き続けてきた先輩ワーキングマザーでした。しかも、遠方に住んでいて自分では私たち娘夫婦の助けになることができないため、何でも自分で何とかしようと悪戦苦闘する私に、「人の力を借りなさい」「母親が楽になることが最優先」と、いつも背中を押してくれました。今貯金を減らしてでも仕事を続けること、将来社会に還元することを誓いながら人さまのお世話になることを、実の母親から強く勧められなければ、仕事をして、その上また留学するための勉強をするということは難しかったのではないかと思います。

当時は、私たち女性医師がまだ少数派の時代でしたから、最初からロールモデルを求めようという発想がありませんでした。職人肌の医師業務ですから、多少は自分の腕に自信を持っているため、組織に依存したり、逆に所属先の言いなりになったりする気持ちが薄かったのかもしれません。夫の留学でドイツについていき、帰国後は夫の勤務先について関東に来たことで、出身大学の縛りやお礼奉公といった束縛もありませんでした。自分のキャリアを自分で切り拓くことができたのは、このような条件も重なっていたのでしょう。たとえ道中辛くても、「私は周囲とは違う」「自分だけの道を自分で歩んでいる」という充実感を励みに頑張るのは、私のような第二次ベビーブーマーに共通して見られる特徴なのかもしれません。結果は後からついてくる。そう思えるくらいの柔軟さがあるのも良かったと思います。

夫は、自分の留学や職場のために私がそれまで住んでいた名古屋を離れてドイツや関東についていったことに対して、いつも申し訳なく思っているようでした。周りのカップルが、妻の家族や職場に近い場所に居を構える中、「妻はよくついてきてくれたと思います」と友人や知人たちに話していました。ドイツ留学は夫が助成金を取り、留学先を探してきたため、ついていく私はとても楽で、「ラッキー!」と思ったくらい、全く負担は無かったのですが、夫は出来るだけ妻にばかり負担を強いることはしたくない、私の望みをかなえたいと思っていたようです。そのようなわけで、「次に留学するのなら、今度は君が助成金を取って、留学してね。僕はついていくから。」といつも話していました。

アメリカの大学院の受験には、GREというアメリカの大学卒業程度の学力があるということを証明する試験と、TOEFLという語学力を証明する試験が必要です。また、卒業した大学、および博士号を取った大学の英文卒業証明書、英文成績証明書、推薦状3通、自分の抱負や学生時代のボランティア活動、仕事の経歴、業績など、多くの英文の書類が求められます。これらの書類は、主に、通勤途中の車内でパソコンを開いて書きました。また、夜中や週末に子どもたちを負ぶって勉強し、何回も試験を受け、3回目に漸く満足のいく結果が得られました。

report_09_64_1.jpg

report_09_64_2.jpg
ハーバード受験のために、イメージを膨らませられるパンフレットで
行きたい気持ちを煽りました
高いレベルの学問、未知の世界に対する憧れが後押しとなりました


実は、GREという学力試験には、日本の教育では歯が立たないほど実際的な「考える力」「論理的思考」「筋道立ててストーリーをまとめる記述力」が必要とされます。ほとんどの日本人受験生は、要求される英語のボキャブラリーもさることながら、このロジカルな思考力・記述力に音を上げます。ですので、GRE受験生の先輩からは「まずは数学で点を取る」ことを目標に数学から勉強した方が良い、とアドバイスを受けていました。

少し古いですが、私が留学したハーバード公衆衛生大学院のHSPH Student Club of Japan(日本人会)のHP「在校生・卒業生プロフィール」には卒業生にGREやTOEFLの成績をアンケートした結果が載っています。
http://hsph.jp/prospective/profile.htm

しかし、私は高校生の時も数学が苦手で、医学部に入学してからはずっと、数学という学問からすっかり離れていたため、正直、「数学=点取り科目」とは思えませんでした。といっても、GREで必須とされる英語の内容がそれ以上に難しく、過去問を読んで、どうすればいいの?と泣きべそをかきそうになった時もあります。その時、夫が、仕方ないな、という顔をしながら三角形の内角の和は180°なんだよ、というレベルから説明を始めてくれました。夫が大学入試の参考書や、インターネット上の数学の試験問題を探し出してくれ、夫に教えてもらいながら、まずは日本語で数学を勉強しなおしました。私にとって数学という分野は、できるだけ避けて通りたいものでしたが、GREの英語論述やボキャブラリーの勉強よりはまだまし、と自分を励まし、高校生の数学の問題を解き、その後、英語で書かれたGREの過去問を解きました。ここで昔学んだ数学を思い出し、少しずつ解けるようになったことで、自分の学習能力に自信がつきました。何といっても、24歳の時に医師国家試験を受けて就職し、30歳の時に産婦人科の専門医試験を受けて以来、試験らしい試験を受けるのは5年ぶり、数学の試験を受けるのは18歳の大学入試以来17年ぶりです。数学でも勉強をすれば解けるようになるんだ、という感覚は久しぶりでした。GREは開催日が少なかったため、2回受けて2回目の点数が良かったので、そちらを提出しました。やはり数学以外の英語の成績はボロボロでしたが、数学で点を稼いだことで何とか基準をクリアできました。GREもTOEFLも、受ければ受けるほど点が上がるよ、と聞いていましたが、もっと勉強してから受けようと思っても受験の締め切りが12月に迫ってきます。TOEFLは毎月一回、合計3回受けて、やっとハーバードが要求するiBT(インターネット)90点以上にたどり着きました。過去問3冊を繰り返し解くことよりも、TOEFLを実際に受けることで点数が上がっていったように思います。

どうやって時間を作ったかですが、私の場合は、子どもを寝かしつけるときに自分も一緒に寝てしまいます。特に三人目の子を妊娠中でしたので、いくら寝ても足りないというくらい、夜はすぐに眠くなりました。唯一の自分の時間は、夜中3時か4時に目を覚まし、こっそり布団を抜け出して机に向かえる朝の時間だけです。主に明け方の1-2時間、通勤時間の往復2時間、そして土曜日に子どもを保育園に預けられるとき、これが私の勉強時間でした。人間、「なんとか今の状況を脱したい」そして「あと数週間でTOEFLを受けるんだ(それも高い受講料を払って)」という締め切りがあると馬力が出るのかもしれません。また、『七つの習慣』(スティーブン・R・コヴィー著)の本に載っていた15分刻みの手帳を自作し、一日ごと、一週間ごとのタスクリストを作って、自分のスケジュールにはめこんでいきました。自分を強制的に机に向かわせたのは、「この15分で何をする」「今日のお昼休みにこれをする」という小さな行動プランが出来上がっていたからかもしれません。もともと本が好きでしたが、特に格言集が好きな私は、フォードという自動車会社を作ったヘンリー・フォードの

Nothing is particularly hard if you divide it into small jobs.
(いかなることも、小さな仕事に落とし込めば特に難しくはない)

という言葉に奮起し、受験の準備一つ一つを細かな「To Do List」にしてその一つ一つをスケジュール帳に書き込むことにしました。・・・が、もちろん、予定通りに進まないこともしょっちゅうです。そのたびにスケジュール帳の予定を一日分後ろにずらし、できていないことに焦り、という毎日でした。「HPには大学からの成績表の作成・送付まで2週間かかります、と書いてある!どうしよう!到着が間に合わない!」と青くなり、卒業大学に電話し、頭を下げて追加の速達用切手を送り、郵送を早めてもらい、ということも多々ありました。そのたびに、たくさんの方にお世話になってここまで来ています。

また、格言ではないのですが、その頃流行っていた『ドラゴン桜』という受験漫画の中で読んだ「根拠のある自信と根拠のない自信、両方必要なんだ」という言葉も印象に残っています。「自分はラッキーなんだ」という根拠のない強気、35歳になって「今留学しないでいつするんだ!」という切迫感、たくさんの人にお世話になって推薦状などの書類を準備しているという申し訳なさ感が、その時の私を後押ししてくれました。

私が研修医としてトレーニングを積んだ聖路加国際病院の院長である福井次矢先生は、ハーバード公衆衛生大学院の卒業生で、受験するならここをと推薦してくださいました。実はほかにも3校の公衆衛生大学院を受験したのですが、2校は不合格、2校は合格、という2勝2敗の結果で辛くもハーバードに合格したのです。

本命のハーバード大学大学院からの結果通知の封筒は、Letterサイズで、大きく分厚い封筒です。中には、合格のお祝いの言葉が詰まった通知と、オリエンテーションの資料、必要な手続きや健康診断などの書類、医療保険についてのブックレットなど、さまざまなものが入っていました。ロゴや文章を見ても、大変カッコいい書類で、ここで勉強するんだという喜びが胸に沸き起こり、夫をはじめ家族皆に大喜びで報告したのは言うまでもありません。

report_09_64_4.jpg

report_09_64_3.jpg
三人目を妊娠していることなど忘れてしまうほど慌ただしい毎日でした
働きながら受験する秘訣は、夫と育児を分担し合いながら勉強することです


まさか受かるわけがないと思っていた夫はとても驚いて、今から自分の受け入れ先を探さなければいけない、と、同じ分野の先輩方にあちこち頼んでいました。すると、私が勉強する大学院のすぐ近くの、付属病院の研究所の教授のところに留学していた先生とお知り合いになることができ、その先生から紹介状を書いていただいて、夫の留学先もめでたく決まりました。合格通知を手にしたのが2008年の3月初旬、夫の受け入れ先が決まったのが6月、三女が生まれたのが7月初旬でしたから、8月の渡米までは怒涛のような毎日でした。

それまでに日本の住居を引き払い、アメリカの住居や保育園を確保しなければいけません。上述したように、夫の職場探しも難題のひとつでしたし、勤務先の上司に「産休(通常2ヶ月で復帰)の延長で、留学してきます(つまり、当分は戻れない=辞めます、ということ)」と伝え、友好的に退職するというのも大きな難関でした。合格の喜びもつかの間、たくさんのTo Doリストが新たに出てきて、お祝いの食事をしたかどうかも、あまり覚えていません。このとき、三女の妊娠後期に入る頃でしたが、渡米の準備、家族のビザ取得、医療保険や保育園のことなど、合格が決まってからするべき準備があまりにも多く、夜を徹してさまざまな調べものをしていました。英語の情報は検索すること自体慣れておらず、大学に関すること、住居に関することなど、どのサイトを見てもなかなか理解できません。ウェブサイトを読んでも、どこの部分に何が書いてあるのか、探すだけで膨大な時間がかかります。そこで、当時アメリカに留学していた大学時代の友人や、友人に紹介してもらったハーバードの先輩たちにメールや電話で問い合わせ、相談し、随分助けてもらいました。

やはり、留学してみないと分からないことは多く、渡米してからはじめて現実の厳しさに愕然とし、「どうして日本ではあんなに甘ちゃんだったんだろう」「どうしてあんなに楽観的だったんだろう」と思ったこともしばしばありました。 しかし、やってみないとわからないこと、体験で身につくことはたくさんありましたし、留学して本当に良かったと思っています。このときの自分に戻ったとしても、やはり留学をすることに変わりはないと思います。

次回は、いよいよ、子どもと夫を引き連れての留学生活についてお伝えします。
筆者プロフィール
report_yoshida_honami.jpg 吉田 穂波(よしだ ほなみ・ハーバード公衆衛生大学院リサーチ・フェロー・医師、医学博士、公衆衛生修士)

1998年三重大医学部卒後、聖路加国際病院産婦人科レジデント。04年名古屋大学大学院にて博士号取得。ドイツ、英国、日本での医療機関勤務などを経て、10年ハーバード公衆衛生大学院を卒業後、同大学院のリサーチフェローとなり、少子化研究に従事。11年3月の東日本大震災では産婦人科医として不足していた妊産婦さんのケアを支援する活動に従事した。12年4月より、国立保健医療科学院生涯健康研究部母子保健担当主任研究官として公共政策の中で母子を守る仕事に就いている。はじめての人の妊娠・出産準備ノート『安心マタニティダイアリー』を監修。1歳から7歳までの4児の母。
このエントリーをはてなブックマークに追加

TwitterFacebook

インクルーシブ教育

社会情動的スキル

遊び

メディア

発達障害とは?

論文・レポートカテゴリ

アジアこども学

研究活動

所長ブログ

Dr.榊原洋一の部屋

小林登文庫

PAGE TOP