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70. 意識と人格形成の脳科学(全編の総括)

要旨:

今回は、「子育ての脳科学」連載の中で明らかにされてきた論点である意識と人格形成の脳科学について、今後の理論的・実践的な課題を中心に総括しました。
2年半の「子育ての脳科学」の連載を通して一体何が解明され、何が課題として提起されたのでしょうか?私がこの連載で知ったことと解らなかったことを明らかにして、次の新しい連載への課題発見と導入にするとともに、私たちが今何をしなければならないかという問題提起を行いたいと思います。

このシリーズで私が追い求めてきた課題は、人の心の働きは脳神経細胞の物理化学的な活動に帰納され、子どもの心の成長・発達の正常と異常も全てがこの脳神経細胞のシナプス形成とミエリン化のプロセスに還元されるという徹底した還元主義的な思考方法でした。そしてこの還元論的な思考方法でほとんどの精神現象を解明できるはずだとの姿勢を維持しましたが、現時点では科学的なデータが十分ではなく、全てを還元論的に解明することは出来ませんでした。連載の最後に告白の機会を与えていただけるなら、私は人類の知恵はどこから生まれたかという謎に対して、個人的に「神の英知」を信じる余地があることを告白します。哲学者のダニエル・C・デネットは著書の「ダーウィンの危険な思想」の中で、人類の知的進化は遺伝子の変化だけでは説明できないことを教示すると共に、この偉大な哲学者が真面目に生命の起源は偶然では生まれ得ず、神の手に帰する以外に考えようがないことを数理科学的に全力で証明しようとした姿は私を安堵させてくれました。生命の起源は科学の実証を越えた分野なので、そこに「神の手」を持ち出すことには多くの異論があるとは思いますが、生命の起源が地球上の分子結合の偶然であれ、神の手の創造物であれ、生命と遺伝子は進化するために生まれたということ、生命の本質は自己複製で、その為により多くの自己複製の出来る方向へと進化してきた、ということには現在では異論は少ないと思われます。

そのために人類は個人の能力を最大限に伸ばす一方で、社会に英知を蓄積して文化として共有する事で種全体の遺伝子保存を有利にする方略を選択したと考えられます。今や遺伝子の進化を越えて、人類の文明と文化が爆発的に進化しようとしているのですが、私はデネットとは違った見地から、人類の英知はどこから生まれたのか? という科学実証が困難な分野でも「神の英知」を考える余地があると考えています。ヒトと非常に近い遺伝子を持った類人猿や過去の人類の祖先やホモ族の猿人たちも個体としての想像力や思考力、社会性やコミュニケーション能力といった現人類ホモサピエンスに近い能力を有していたことが実験的に実証、あるいは考古学的に推測されています。そのなかで他種を超越した社会的な知的文化・文明を構築できたホモサピエンスが他種を圧倒して地球上の生命体の頂点に立ったのは、いったい何が原動力だったのでしょうか? この部分は知能が化石として残っていない以上、証拠を挙げて科学的に実証することが不可能な部分であります。社会脳共生脳が人類の文化文明をいかに生み・育んだのかについては新しい連載の中でもう一度深く考えたいと思います。

「人格形成は生まれか育ちか」について、脳科学的なデータを基に連載では検討を続けて来ました。その中で、遺伝子は本来の性質として、環境に応じて発現のパターンを変える特性を持つことが明らかとなり、病的遺伝子をもつ事が必ずしも障害を発現するわけではない事も明らかにされ、養育環境の持つ重要な要素が強調されました。このことを理解することが自閉症や発達障害の子どもを育てる上で大切なポイントとなると提唱出来たことは、今後の発達障害児への対応の中で役立つ重要な見地だと思われます。

そしていま子育ての脳科学と子どもたちの未来に向けて、私たち小児科医は何をしなければならないか? と考えますと、サイレントベビーへの早期介入、すなわち発達障害の疑われる遺伝的、生育環境的背景を早期に発見して早期に環境改善することが大切だと思われます。そのためには小児科医師の児童精神医学トレーニングの必要性を強く感じます。私自身が25年間も小児科臨床医として働いてきて、「心のカルテ」の著作当時から子どもの心の問題に強い興味と関心を持ち続けていたにもかかわらず、今回の「子育ての脳科学」を連載執筆するまでは、ここまで深く子どもの脳神経と精神発達について考えることも、知ることもありませんでした。現在の小児科医のトレーニングプログラムには、はたして十分な児童精神医学の課程が実施されているでしょうか?私にはまだまだ不足しているように感じられてなりません。

また、乳幼児の発達段階に応じた子育てと環境整備の必要性も痛感しています。子どもの精神は周囲からの社会的刺激を受けて発育・発達するので、赤ちゃんは身体的のみならず精神的発達でも、独りでは育つことが出来ない事が明らかになりました。少子化の中では乳幼児は社会的な刺激を受ける機会が少なくなり、乳幼児期に社会性を育むような集団的育児設備の充実とそれに必要な保育資金の確保が重要な課題であります。保育所が単なる子どもの一時預かり施設ではなく、社会脳共生脳を育む養育施設であることを社会全体で再認識して、それにふさわしい良い環境を構築する必要があります。

「心のカルテ」で不登校児童や家庭内暴力のお世話をしていた当時の私は、この時代の祖父母と親の間に起きている教育観の違いが心の安定を失わせる一因であると考えて、アメリカ流の家族療法を導入して「父親の権威」の大切さを提唱しましたが、いま考えてみると、25年前に私が感じていた「甘やかしすぎる祖父母と、厳しすぎる両親の間で板挟みになって苦しむ子どもたち」を救うのは、厳しすぎる側の親世代だけではなく、祖父母世代の優しさこそが、面倒見の良い遺伝子情報として重要であった可能性も思い起こされます。いずれにしても「社会脳共生脳の成長・発達」にもっと重点を置いて不登校や家庭内暴力の対策を行えていれば、もっと効果的な教育指導が可能だったのではないかと考えられます。この点は今後の重要な研究課題です。

小児科医の児童精神医学トレーニングと、乳幼児養育施設の整備、地域での養育指導体制強化は直ぐにでも実施すべき行政課題だと私は考えています。そのポイントとして、私は「笑顔のキャッチボール」としての母子間の表情コミュニケーションの積極的な推奨と、見つめ合い子育て、笑いの脳科学が教える笑顔の感情交流推進などが乳児期早期の重要な子育て指針だと思います。顔を注視する養育訓練と表情交流・感情交流が十分に行われることで、子どもの脳神経内で社会脳共生脳に必要なシナプス形成とミエリン化が促進されるはずです。このような思想的言語の基礎となる脳神経システムの成長と発達を監視して、子どもの社会脳発達の指標として注意深く観察する乳幼児検診のシステム作りとその背景となる基礎研究の推進が急務だと思われます。

また、それとともに母子家庭の貧困や育児困難等の問題も十分に社会が援助して保護する体制の整備が急がれるべき課題であると思われます。

最後に今回の連載中では取り上げませんでしたが、ストレス漬け社会から子どもを守る対策の一環に環境音の整備も含まれるべきだと私は考えています。視覚は目を閉じれば停止でき、眠っている間は働きませんが、音は眠っていても聞こえてきて、耳をふさいでも骨を通して脳内に侵入してきます。不快な音環境は子どもの脳に悪影響を与えている可能性が否定できません。詳しくは大橋力著「音と文明」に書かれていますので、環境音についての考察は今後の課題として、次の連載でもう一度深く考えようと思います。

以上、「子育ての脳科学」連載の中で明らかにされてきた論点である、意識と人格形成の脳科学の、理論的・実践的な今後の課題を中心に総括しました。
筆者プロフィール
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林 隆博 (西焼津こどもクリニック 院長)

1960年大阪に客家人の子で日本人として生まれ、幼少時は母方姓の今城を名乗る。父の帰化と共に林の姓を与えられ、林隆博となった。中国語圏では「リン・ロンポー」と呼ばれアルファベット語圏では「Leonpold Lin」と自己紹介している。仏教家の父に得道を与えられたが、母の意見でカトリックの中学校に入学し二重宗教を経験する。1978年大阪星光学院高校卒業。1984年国立鳥取大学医学部卒業、東京大学医学部付属病院小児科に入局し小林登教授の下で小児科学の研修を受ける。専門は子供のアレルギーと心理発達。1985年妻貴子と結婚。1990年西焼津こどもクリニック開設。男児2人女児2人の4児の父。著書『心のカルテ』1991年メディサイエンス社刊。2007年アトピー性皮膚炎の予防にビフィズス菌とアシドフィルス菌の菌体を用いる特許を取得。2008年より文芸活動を再開する。
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