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42. 脳の発生・進化とHox遺伝子

要旨:

近年の研究では、ハエの遺伝子骨格とヒトを含む哺乳類の遺伝子骨格が基本的に大差ないということが発見されている。今回では、ヒトの発生と進化の系統樹からヒトの脳と心はチンパンジーだけでなく、他の動物と、多くの共通点を持っていることを解説する。またヒト特有の脳の機能とは、他者の精神活動を自分自身の脳内に取り込んで追体験して共感や模倣学習を行う能力だと、人類の脳の特性について筆者の持論を述べる。
「個体発生は進化の歴史を繰り返す」という考え方は反復説と呼ばれ、古くからその真否が議論のテーマになっていました。確かにヒトの胎芽から胎児を経て赤ちゃんが産まれるまでの個体発生を見ていると、原始的な動物から徐々に進化の足跡を辿りながらヒトの赤ちゃんへと育ってくるようにも見られます。
report_04_55_1.jpg画像出典:wikipedia public domain


左から魚、サンショウウオ、亀、ニワトリ、ブタ、ウシ、ウサギ、そしてヒトの胎芽から出生までを示していますが、驚くほど類似性が高いのがわかります。

しかし近代に入って遺伝子が発見されると、個体発生とは遺伝子に蓄えられた情報が発現することによって起こるので、決して系統進化の過程を反復するのではなく(たとえば発生途中で生まれたから魚として生きていけないように)ヒトにはヒト固有の遺伝子情報があって、この遺伝子情報によってヒトの赤ちゃんになるのだと反復説は否定されていました。それがさらに近年になると、ハエの遺伝子骨格とヒトを含む哺乳類の遺伝子骨格が基本的に大差ないという衝撃的な発見がなされました。これが1995年にノーベル賞を受賞した研究で、ショウジョウバエの発生初期に体の各部の段階的な発生をコントロールする新しい遺伝子群が見つかり、後に他の多くの動物種でも類似遺伝子群が見つかったということです。ホメオティック遺伝子と名付けられたこの遺伝子群は発生過程において、頭から尾の方向に重なりを残しながら少しずつずれた位置で働き、このパターンがそれぞれの場所が将来身体のどの部位になるかを決めているのです。ホメオティック遺伝子はその後他の多くの動物からも見つかり、同じような働きをしていることもわかりました。これはなぜ「個体発生は進化の歴史を繰り返す」ように見えるのかということを科学的に説明する発見となると共に、ショウジョウバエも我々人類を含む哺乳類も共通の祖先から進化した同様の段階的な発達機構を持つ仲間であることを示唆する発見でありました。ヒトとネズミの祖先が同じというだけでも奇妙な感じがするのに、ヒトとハエとが同じ遺伝子骨格を持っていることには驚きを隠せません。

report_04_55_2.gifこのように身体の発生が進化の過程を通じてその骨格部分は良く保存されている以上は、脳神経系の進化も例外とは言えなくなります。

report_04_55_3.jpg上に示した図版は東京大学出版会刊「シリーズ脳科学4 脳の発生と発達」より下郡智美先生のご厚意で改変引用した哺乳類の大脳皮質領域の系統進化樹ですが、各領域の大きさと全体に占める割合には差が見られるものの、基本的な骨格構造には大きな変化が無いことが見受けられます。ヒトゲノムの解読が終了した現在、ヒトとチンパンジーの遺伝子的な相同性は98.8%であり、遺伝子の違いは僅か1.2%程度にしか過ぎないことがわかっています。ヒトに近い環境で育てられたチンパンジーは他利行為を行うことや、心の理論課題を遂行できるとの報告が提出されています。また、次に示すようにチンパンジーでもヒトの赤ちゃんと同じように新生児模倣が見られるとの報告もあります。

report_04_55_4.jpgこのようにヒトとチンパンジーの脳は基本的に大差がなく、同じ心を持っているとも言えるのでしょうか?チンパンジーをいくらヒトらしく育ててもヒトと同じに育つことはありませんし、また逆にもしもヒトの赤ちゃんがチンパンジーに育てられることがあったとしても、ヒトの赤ちゃんがチンパンジーに育つことは無いと私は思っています。個人的には、ヒトとチンパンジーの遺伝子の差が1.2%であることは脳にとっては十分に大きな差だと考えています。なぜならば、自閉症や統合失調症というヒトの精神に重大な障害を起こしうる病気についてさえ、その遺伝子的な差はごく僅かで、複数の遺伝子変異が重複する事で発病することと考えられています。そこから類推すれば、1.2%という数字は脳にとっては決して小さな差異を示す数字でないと私には思えます。

下郡智美先生は前述の著書の中で、ヒトの脳と類人猿の脳の構造的な違いとして、背側視床枕の発達割合が著しく異なることを示しておられます。視床は大脳皮質と相互に強い連絡を持つ部位でありますので、この部位が人類特有の心の発達に関与している可能性はあるかも知れません。

report_04_55_5.jpgさらに海馬ではCA2 領域がヒトおよび類人猿で大きく発達していることも報告されていますので、これらの領野が前頭前野背外側部と共に人類らしい心の働きを生み出している可能性があると推測できます。

私は人類特有の心の働きは何かと問われれば、他者の心を自分の中に取り入れること、すなわち他者の精神的活動が自分の脳内に入り込んで来ることを許可して、他者の体験を脳内で追体験することで共に共感・模倣学習したり、さらには改良出来る能力が格段に高いことだと考えています。この能力を特別に伸ばすことで人類は個人の思考では作ることの出来ない偉大な文明と文化を形成したのです。第33回「心は小宇宙」で述べたことの繰り返しになりますが、人類の脳は「コミュニティや社会の知的資産」を生み出し、それを共有する事で他の動物種より圧倒的に有利な生存環境を作り出し、ホモサピエンスという種の遺伝子を繁栄させて来たのだと私には思われます。ヒトがいつ人類になったのかという疑問に対する私見は、次回でさらに思索を深めたいと思います。

図版引用の御許可を頂き、貴重な資料をご提供いただいた、下郡智美先生、明和政子先生、および東京大学出版会、NTT出版に心から謝意を表します。
筆者プロフィール
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林 隆博 (西焼津こどもクリニック 院長)

1960年大阪に客家人の子で日本人として生まれ、幼少時は母方姓の今城を名乗る。父の帰化と共に林の姓を与えられ、林隆博となった。中国語圏では「リン・ロンポー」と呼ばれアルファベット語圏では「Leonpold Lin」と自己紹介している。仏教家の父に得道を与えられたが、母の意見でカトリックの中学校に入学し二重宗教を経験する。1978年大阪星光学院高校卒業。1984年国立鳥取大学医学部卒業、東京大学医学部付属病院小児科に入局し小林登教授の下で小児科学の研修を受ける。専門は子供のアレルギーと心理発達。1985年妻貴子と結婚。1990年西焼津こどもクリニック開設。男児2人女児2人の4児の父。著書『心のカルテ』1991年メディサイエンス社刊。2007年アトピー性皮膚炎の予防にビフィズス菌とアシドフィルス菌の菌体を用いる特許を取得。2008年より文芸活動を再開する。
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