晴眼者である場合に私たちは周囲の世界を見渡して、その中を物にぶつかったり躓いて転んだりせずに、苦もなく移動しています。また食事の時にも皿に盛られたご馳走を上手に自分の皿に移動して細かく切って、それを鼻の穴に押し込んだりせずに正確に口の中に運び込みます。箸の先やフォークの先で自分の手や顔を突き刺して怪我をすることもありません。これらのことが平然とできるのは、脳内に自分の身体と周囲の状況を正確に反映する空間マップが精密に作成されていて、自分自身のボディイメージがその空間マップ内を自由に移動して活動しているからであります。私たちが暮らしているこの世界を正確に再現する脳内世界があるからこそ、私たちは毎日の生活に不自由を感じなくてすむのです。そしてこの脳内世界は視覚と触覚および聴覚にも依存して個人の内部にだけ存在する神経活動現象であり、その主たる機能領域が海馬と頭頂葉にあるのです。頭頂葉の機能をよりわかりやすくするために、頭頂葉に障害のある症例をあげて解説を続けます。
主に左の頭頂葉に障害を受けた症例では、観念失行と呼ばれる特殊な症状が現れます。患者は実際の道具を手に持たせると正しく使える、たとえば実際に箸を手に持って豆をつかむことは出来るにも関わらず、箸を持たずに落語家が手だけで箸を持つ仕草をするような、道具を想像して使う動作をするパントマイムの動作は全く出来ないのです。このときの脳機能画像検査結果を調べますと、実際に箸を使う動作では主に小脳が強く活動しているのに対して、箸を使わないで手だけ動かすパントマイム動作と、全く運動を伴わない想像だけで箸を使う脳内操作では左の下頭頂小葉が強く活動していることがわかりました。この「運動の脳内操作」の重要なポイントは、実は食べ物を口に運ぶ場合でも歩きながら物をつかんだりする場合でも、神経軸索内を運動指令が移動して運動の結果が感じられるまでには0.2秒から0.3秒の時間差があるので、自分の動作の結果を脳内で予測して計算して0.2秒か0.3秒先回りした動作指令を組み立てなければ正確でスムーズな運動は出来なくなってしまうという時間的なズレを自動的に修正している点にあります。私たちの脳は常にこのような空間内での時系列の運動予測を無意識かつ正確に計算した上でシミュレーションして活動し、この予測計算に対する実際の動きの視覚的あるいは体性感覚的なフィードバック感覚信号が入力するのを常に監視することで、予測誤差を修正して正確でスムーズな運動につなげているのです。また左の頭頂葉に障害のある患者では他人が自分と同じように手を動かしているのを見たときに、その他人の手があたかも自分の手のように感じられて混乱が起こることが報告されています。このような混乱の背景には頭頂葉のミラーニューロンが関与する一方で、自己と他者の動きを分別認知する脳機能の異常があると思われます。
乾敏郎教授はコンピュータのモニター上に描いた曲線状を移動するターゲット物体を被検者にカーソルで追跡させる課題時に、ターゲットあるいはカーソルを一時的に画面から消えさせる実験中に脳機能画像検査を行いました。その結果(1)実際の曲線とカーソルの位置のずれを検出しているのは右頭頂葉-側頭葉接合部(TPJ)の機能であるらしい。(2)カーソルが消えているときには前頭葉の前補足運動野が活発に活動しており、前補足運動野がカーソルの脳内イメージを作るのに重要であるらしい。(3)自分で動かしているカーソルが消えると左の下頭頂小葉の活動が高まり、ターゲット物体が消えると右の頭頂葉の活動が高まっている。このことは運動およびそのイメージの自他の区別を脳内では左右の頭頂葉が分業・相互連絡して検出している可能性を示唆している。という事を述べておられます。下図は乾敏郎教授からご厚意でご提供をいただいた(3)の実験結果を示す脳機能イメージ写真です。
この左右頭頂葉の自他を分別する連合機能に異常が生じると、自分の行為を他人にさせられているという「させられ体験」を生じ、その場合にも右の下頭頂葉の活動が異常に高くなっていることから、この部分で自分の行為による感覚フィードバックと予測脳内イメージとの誤差が計算されているのだろうと推測されています。
自分の身体を自分でくすぐってもあまりくすぐったく感じませんが、他人に不意にくすぐられると激しくくすぐったさを感じるという体験は誰でもしたことがあると思います。この場合は予測信号が脳内で感覚フィードバックを抑制するために、自分で行う行為は感覚意識に上りにくいので、自分で自分をくすぐってもあまりくすぐったく感じないのだと考えられています。このようなメカニズムのおかげで、自己が(無意識に)予測した、あるいは自己が(無意識に)作成した脳内イメージは体性感覚として意識的には知覚されにくいはずなのですが、この機能が障害されたり破綻したりすると幻聴や幻覚が起こるのではないかと考えられています。幽霊が見えたとか自分の魂が身体から出て自分を上空から見下ろしている等の自己像幻視現象や幽体離脱現象はTPJの障害で起こることが報告されています。実際に右のTPJを電気刺激すると、身体がベッドに沈み込んでいく感じとか、高いところから墜落している感じ、さらには自分を上から見下ろす感じ(幽体離脱)が生じ、自分の足をみると足が縮んで行くように見えたり、足が自分の顔に向かって迫ってくるような感じが得られることが報告されています。また自分の行為が自分でないような感じを持つ離人症では右頭頂葉の7b野の活動の強さと障害度が相関することも報告されています。右頭頂葉の異常活動によって他者のイメージ(離人症の場合は自分のコピーであるもう一人の自分)が自己の意思とは無関係に形成されるのだろうと推測されています。これらの知見を総合して左の頭頂葉では視点不変の物体・外界認知から脳内座標軸を操作し、右の頭頂葉ではどの方向から見ているかという視点に依存した情報処理から脳内座標を操作するというように、左右の脳が分業・連合して自己視点と他者視点の両面から脳内で座標軸操作活動を行っているのではないかと推測されています。
このように頭頂葉の連合機能は自己と他者の認識に重要な役割を担っていることが指摘されており、さらに近年になって頭頂葉内にミラーニューロンと呼ばれる他者の動きと自己の動きの両方に反応するニューロンが見つかり、触覚と視覚の両方に持続的に反応するバイモーダルニューロンの存在も明らかになってきています。頭頂葉連合野はこれらの神経細胞が脳の高次認知処理を支える緻密なネットワーク回路を形成している場であり、ヒトが空間認知処理を発達させて道具を使用したり製作したり出来るのは、頭頂葉のイメージ操作機能に負う部分が大きいことが考えられます。これらミラーニューロンを含む頭頂葉連合野の神経細胞のネットワーク回路が解明されるにしたがって、私たちが考えたり行動したりするときに脳神経はどのような計算処理を行っているのかが少しずつ、しかし確実に解明されてくると期待されます。子育ての中でも、このような頭頂葉の機能の重要性に注目して、前頭葉神話ばかりではなく、前節で解説した天才アインシュタインの下頭頂小葉に見られた脳変化も考慮して、「頭頂葉とイメージ脳を育てる子育て」を提唱する人が居ても良いのではないかと個人的には考えております。
本稿の作成には著者の承諾を得て、乾敏郎著 岩波書店刊『イメージ脳』を参考図書として使用いたしました。貴重な資料のご提供をいただいた乾敏郎教授に心から謝意を表します。