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論文・レポート

メディアリテラシー (Media Literacy)

大森 美弥 (教育学博士)

2003年3月28日掲載

要旨:

ベネッセ教育総研の調査によると、子どもたちのほとんどが多様なタイプのメディアにさらされて接触をもっており、彼らがメディアリテレイト(Media Literate)な環境で成長することの必要性が明確になってきている。私達は若者達がメディアリテレイトになるためにこれらの道具の賢い選択者、使用者になるよう指導しなくてはいけない。親がそういった新しい技術を発展させ適応するにつれ、親自身が賢い選択が身に付き、そのような選択についてどう考えているか発言することができるようになった時、メディアリテレイトな個人を育成することが可能になるだろう。
English

ベネッセ教育総研によって実施された調査「モノグラフ・中学生の世界 中学生とメディアとの接触」によると、子どもたちのほとんどが多様なタイプのメディアにさらされており、またそれらと接触をもっていることが分かる。この調査を読む限り、日本の子どもたちは、様々なメディアツールに攻め立てられており、彼らがメディアリテレイト(Media Literate)な環境で成長することの必要性が、今までにないほど明確になってきている。

 

調査では、メディアリテラシーの定義を次のように挙げている。1.メディアアクセス 2.情報の収集と取捨選択、3.自己表現。 メディアアクセスは非常に豊富であり、ここでは、情報の収集と取捨選択、自己表現に重きをおくべきである。しかしながら、メディアへのアクセスがとても簡単になり、またそれがどこにでも存在していることに同意はするが、メディアが子どもに大きな影響を与えるということがもっと認識されなくてはいけない。これはメディアが豊富にありすぎるという問題とメディアの収集と選択という問題が結びつく。豊富なメディアの中で情報を集め、選ぶことを結び付けている。子どもたちはどうやって賢い選択の仕方を学ぶのであろうか?この問題は今や子どもたちのみならず大人達の問題にもなっている。責任は学校の教師だけでなく、子どもたちが触れるメディアを作りだす大人、そして一番重要な存在、親にあるのである。

 

若者の頭脳を教育するメディアの種類や量は非常に多い。しかしながら私達大人も、ダイレクトメールやその他のスクリーンにポップアップする広告メディア、品質の悪いメディアには悩まされ始めている。アメリカのテレビの歴史では子どもたちが番組の合間のコマーシャルをどのように受け止めているかという調査がさかんに行われてきた。長年にわたる調査と提案によって、今では番組の合間には「商業目的のお知らせが流れます」と子どもたちに知らせるようになった。メッセージによっては他のものより明らかなものがある、これは多くのテレビ番組がオリジナルのおもちゃを作っているからである。残念なことにこれらは金銭的な価値によるものである。このように、私達はメディアの制作者達に大人としての責任を期待することはできない。もちろん幾人かの人々は高品質のメディアを提供しようとしていることは確かだろうが。そこで私達は学校の教師や親が子どものメディアリテラシーを植え付けることを期待すべきなのである。

 

教師は子どもたちに基本的な情報を与えることができ、子どもたちはそれによって情報を賢く選ぶことができるようになる。自分達のプレゼンテーションにそういった技術を取り入れることもできる。もしくは教師は子どもたちに研究素材の一つとしてレベルの高いメディアを使うことをすすめることができる。最近、私はウォールストリートジャーナルで、小学2年生の子どもたちがパワーポイントを使って動物園への遠足の記録を作っているという話を読んだ。私はこれに非常に驚いたが、なにかがしっくりしなかった。子どもたちはお絵描きや手書きなどの伝統的なメディアを楽しんではいけないのだろうか?2年生の子どもたちには書き方や、絵の具の色の混ぜ方の効果などを習うことや、次は何を使って書こうかと悩む経験をすることなど許されないのだろうか?(これもまた別の意味でのメディアではある。)私が考えるに、彼らが本当にパワーポイントを使うことを望み、なおかつ上にあげた手段を取り入れたいとしたら、まず絵を描き、それに題名をつけ、スキャナーでそれを読み込み、パワーポイントに取り込んで発表に使ったらよいと思う。一体何人の親と教師がこういうことを薦めるだろうか?私はそういう人がたくさんいてくれたらいいのにと思う。2年生の子どもが発表に電子メディアを使うことはメディアリテレイトととは言わない。それはメディアについて精通しているというだけである。

 

この事柄は自己表現という点において、日本の中学生に振り返って考えさせられる。自己表現については幼児期に初めて学ばれる。そして私達は、積極的な交流を働きかけてやればやるほど、子どもたちはコミュニケーションをうまく取れるようになると知っている。日本の子どもたちの書く、話すというコミュニケーション能力が衰えてきていると言われていることは非常に残念なことである。余談だが、日本語は状況に応じた話し方のパターンがある一種独特な言語である。普通語、男性語、女性語、尊敬語、謙譲語などである。従来の頻繁な社会との交わりやコミュニケーションがあれば、より若い世代のコミュニケーション能力の衰退ということはないだろう。特に手に携帯電話を持っている若い子どもたち(時には小学生さえいる)を見るとそう思う。

 

日本の携帯電話文化はさらにかっこよく、軽く、多機能にといったメーカー同士の競争によってアメリカよりも非常に進んでいる。画面のカラー表示は今ではすっかりあたりまえであり、ほとんどがすでにカメラ付き携帯電話になっている。このようにして、携帯電話はコミュニケーションの道具としてだけではなく、PDAのような役割も果たしている。それに続いて、日本の携帯電話は文書を送る機能も発達し、しばしば電話で話すよりもメールですますことも多い。文書を送るだけでなく、絵文字も使っている。これは小さなクリップアートのようなアニメ化された、小さなアイコンのような画像である。日本語の文字の起源について考えてみると、それらはもともと絵から作られ、そして文字となった。これらの文字の組合せ自体にはわずかな意味しかない。文字として認識されるためにはこれらの文字が様々に組合せられなくてはいけない。文字を並べる必要もなく、絵文字を並べるだけで、若い世代は必要なことや、欲しいもの、感じたことなどを伝えることが出来る。私が心配なのは、彼らがどれだけ深くそのような感情を伝えることができているかということである。日本語は言葉もコミュニケーション方法ももともと直接的ではない、これ以上どんなにもっと分かりにくくなるんだろうか。もしくはこれは実際の出来事やふるまい、本当の感情に向き合わず物事を明確にしないことをよしとする文化的な病的現象の一つなのだろうか。

 

証拠もなく一足飛びに結論に導くのは不可能であるが、最近の若者の理解しがたい犯罪の増加がコミュニケーションの欠落と関係があるというのは言い過ぎではないだろう。間接的で、行間を読むということにも美しさがあるにもかかわらず、日本文化の西洋化と時間のスピード化とともに、コミュニケーションのスタイルと多くの若者が送る生活様式に矛盾が生まれてきている。そしてそれらがますます直接的なコミュニケーションのスタイルを選ぶ理由になっているようである。しかしながら、携帯世代の若者達は自分の感情をきちんと言い表せないことを携帯のせいにしているようである。そしてこれはおそらく複雑な日本語の構造への理解の欠如によるものであろう。それにもかかわらず新しい技術が生まれ、どんどん便利になっていき、生活のさまざまな場面に浸透し続け、今までの伝統的な生活様式を追いやっていることは明らかである。よって、私達は若者達をこれらの道具の賢い選択者、そして使用者になるよう指導しなくてはいけない ―彼らがメディアリタレイトになるために。初めの一歩はまず大人、特に親であろう。これらの新しい技術の進歩のために、必要があればそれらに挑戦し、臨機応変に生活に取り入れて欲しい。親はこれらの道具を自らの交際にも取り入れ、子どもたちがメディアという道具を使って世界を広げられる環境を与えてやらなくてはいけない。親がそういった新しい技術を発展させ、適応するにつれ、親自身が賢い選択が身に付くだろう。そして自らがそのような選択についてどう考えているか発言することができるようになった時、メディアリテレイトな個人を育成することが可能になるだろう。

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