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障害をもって生まれてきた子ども:家族はどう対応するか

要旨:

障害を持って生まれた子どもの親たちは、生涯にわたり適応を求められる。兄弟姉妹もまた影響を受ける。障害はいくつかの要素によって生じるが、家族はその障害に対し寛容で、受容的であることを学んでいかなくてはならない *1。そして、願わくは、それまで思い描いてきた子どもとは違うその子どもの誕生を祝福できたらいい。地域もまた、その子どもを受け入れ、様々な機会を与えることでその役割を果たす。子どもの誕生を待つ親たちは、生まれてくる子どもが彼らの未来であり、大きくなって価値観や興味を分かち合えることを望むものである。しかし、生まれてきた子どもに障害があり、他の子どもたちとは大きく違っていたとしたら、どうなるのだろうか。親はどのように子育てに向き合い、親子の絆を深めて、ありのままにその子を認めるのだろうか。どんな赤ちゃんも家族の在り方を変えていくものであるが、障害をもって生まれた場合は、きょうだいや親は悲しみを分け合い、共に世話をしていくことになる。障害のある子どもが、生まれながらに人生に制約をかけられてしまったことに対し、どう感じているかを知ることは大切である。ここでは、そうした家族の姿勢や経験を探っていく。地域がどのように障害のある子どもをもつ家族を支援していったらいいか、その方法も見えてくるように思う。
English
※筆者はカナダ在住の研究者であり、今回紹介する事例も、主に海外のものを取り扱っています。
定義

先天性異常とは、出生時に既に見られる身体、機能、代謝の異常である。深刻な異常の場合は、発達障害や身体的障害につながる *2

障害とは、身体あるいは精神の状態、健康に問題があり、日常生活をするのに必要な能力が制限されている状態をいう *3。米国疾病予防管理センター(CDC)によると、33人に1人の割合で、先天性異常のある赤ちゃんが生まれており、「遺伝子の異常や環境、あるいは原因不明の要因が考えられる *4。そうした赤ちゃんのほとんどが、健康に問題のない両親、あるいは危険因子はもっているものの健康な親から生まれている *2。」先天性異常の種類については、こちらのサイトを参照のこと、また、予防については、CDCの「先天性異常を防ぐためのガイダンス」が参考になる。

文献から

両親やきょうだい、そして障害のある子どもは、家庭の状況にどう対応するのか

両親の反応:KandelとMerrickは、障害をもって生まれた子どものいる家族について調べた研究結果を追った。このような子どもの誕生は、概して「否定・怒り・取引・絶望・受容」の5つの段階を経る。両親は、通常、「心理的ストレスや喪失感、自尊心の低下」という反応を示し、子どもを「失望」、恥や後ろめたさにつながる「社会的な障壁」であると感じるようだ。親はその怒りを、配偶者や医師、あるいはこうしたストレスと関係なくいられる、よその家庭に向ける。何かしらの大いなる力に対し取引をもちかける親もいる。もしこの子の障害を直してくれるのなら・・・、私がお酒を断つかわりに・・・。自分が犯した過去の罪の報いであると、罪の意識を感じもするだろう。あるいは、自分たちの失敗の象徴と考え、過度に子どもを守ろうとするかもしれない *5

専門的な支援をさがすストレス、重なる介護費用のやりくり、近隣や職場のつながりを維持するのに大変で、夫婦間の意思疎通がうまくいかなくなる場合もある。母親は、より大きな責任を背負い込みがちであり、しばしば父親は妻に無視されていると感じてしまう。イスラエルのダウン症の子どもについて調べたレポートによれば、25パーセントの親が、子どもを病院に置き去りにしている。アメリカ合衆国には、「障害のある子どものいる家庭では、一般集団に比べて離婚率が10倍になる」という研究結果もある。施設に預けようと、家庭で育てようと、望んでいた健常の子どもに恵まれなかったことの悲しみは、生涯続く「慢性的な悲しみ」である。親たちは、有能な専門家にかかり、彼らの思いや、その対処法について相談する必要がある。

きょうだいの思い:Gretchen Cook等は、障害のある子どものきょうだい達には、自分の感情を発散できる場所、彼らが家庭環境に対処できるように支援の手を差し伸べられる場所が必要であると報告している。多くのきょうだい達が、自分達には障害のある兄や妹がいるために恥ずかしく、後ろめたい気持ちをもっており、自分のきょうだいがなぜ普通と違うのか友達にも説明できないと回答している。さらに、そういう嫌な感情をもつことに度々罪の意識を感じており、自分には友達をもったり人生をうまくやっていく資格がない、自分も何かしらの障害を負って罰せられればいいとさえ思う。

親たちは、障害のあるきょうだいの世話で手いっぱいであり、自分たちは省みられていないという感情も多くみられる。自分もいつきょうだいのような状態になるかもしれないし、そうした遺伝子をもっているので、自分にも障害のある子どもが生まれるのではないかと恐れている。きょうだいの世話という、普通にはない重荷を小さいころから背負っていることに対する怒りや、親の後にその世話を長きにわたって受け継ぐことになるのではという不安を抱えていることもあるだろう。一方で、親と打ち解けてよく話している子どもは、友人関係をつくるのがうまい。責任を負わされたことでいいこともあったと、後になって感じられたと回答するきょうだいも多い。人はそれぞれ違っていると理解できるし、困難にどう立ち向かうかを学んできたと思うと、多くのきょうだいが述べている *5 *6

障害のある子どもたち自身の思い:障害のある人々は、レッテルを貼られるのを嫌う。個人として認めてほしく、興味のあることなどについて同じ経験を分かち合いたいと思っている。自立して生活できること、公共交通機関を利用して外に出、仕事や社会とのつながりをもつことを望んでいる。愛され尊重されたら、自信を深められる。そうできたら周りの人々とも付き合いやすくなって、よくわかり合える *1

ケーススタディー・ジェシカの場合

ジェシカは、社交的で親しみやすい36歳の若い女性である。脳性まひと言語障害があり、手や腕が不自由、脚は完全に麻痺していて、けいれんの大発作もある。両親と一緒に住み介護を受けながらも、活発な生活を送っている。母親であるナンシーは、ジェシカの妊娠中に何度も子宮の収縮におそわれたが、双子の一人が胎内で死亡し、その胎児を排出するために体が反応したらしいということが後にわかった。ジェシカは、予定日より6週間早く、陣痛室で生まれた。このような小さな赤ちゃんには酸素が必要だったのだろうが、陣痛室にはその設備がなかった。7年前の初産の時の経験から、ナンシーの陣痛は長引くものと考えていた主治医は、彼女を設備の整った分娩室に移すことはしなかった。

普通の子どもが座ったり立つことができるようになる歳になっても、ジェシカはそうならなかったことから、両親は、何かしらの障害があるのではと疑い始めた。しかし、主治医は、ジェシカが早産で生まれたためであるとし、そのうちに発達が追いつくものと彼らの疑念を打ち消した。ジェシカが18カ月になったとき、ようやく主治医はオンタリオ肢体不自由児センターで診てもらうように紹介し、そこで診断が下されたのである。これだけ多くの障害を抱えた子どもを自宅で育てるのは無理だろうと述べ、センターの医師は、ジェシカを施設に入れることをアドバイスした。また、「ジェシカの介護は、金銭的にも大きな負担になるだろうから」と、出産に立ち会った医師と病院を訴えることも助言した。そう訴えることは、自分は望まれないお荷物であるとのメッセージをジェシカに送りつけてしまうことにもなりかねないと感じたナンシーと夫は、このアドバイスには従わないことにした。

当初より両親は、ジェシカが周りの子ども達に溶け込めるように、自宅で豪華なパーティーを催し、近所の子ども達を招いた。ボーリング・パーティー、道化師を呼んでのパーティーを開いたり、友達と乗馬体験や三輪車に挑戦させたりと、心を砕いた。障害のある子ども達のための特別支援学校ではなく、通常の学校に入学が認められるように教育委員会に働きかけた。その就学の権利は認められたものの、実際にジェシカを受け入れてくれる学校を見つけるのは困難であることを、後に知ることとなる。オンタリオで、特別な必要がある子どもを助ける援助者を学校が雇うことになる前のことである。ジェシカを車で遠くの学校まで連れて行くこと、トイレに連れていくために昼に学校に戻ることは、ナンシーがやらなければならなかった。ジェシカは、絵と片手による手話を使う、ブリス・シンボリック国際システムで言葉を学んだ。今回、母親のナンシーに話を聞いた。

--「ご家族はどんな感じ?」

ナンシー:「母親が食事の支度、洗濯や子どもの世話をする、ごく普通の家族と同じです。いつもあれこれ働いていて、必要があるとジェシカによく呼ばれます。一心同体のようなものでしょうか。」

--「上のお姉さんは、ジェシカについてどう思っていますか。」

ナンシー:「姉のタマーラは、家事や妹の世話を助けてくれました。私はつい、いろいろしてしまいますが、彼女はジェシカにもっと自分自身でするように仕向けて、実際にうまくいっています。いいことだと思います。今は結婚して自分の生活があります。10代のときに骨盤を悪くして、自分の子どもはもてないだろうと言っています。でもそれは本当は、障害のある子どもが生まれるのを心配しているのではと、時々、私は考え込んでしまうことがあります。」

--「ご主人は、どうですか?」

ナンシー:「他の多くの家庭のように、大体は母親任せです。でも彼は留まってくれました。障害のある子どもが生まれたことで離婚にいたる夫婦はいったいどのくらいいるのでしょう。夫は、求められるときにちゃんとそこにいてくれます。ジェシカを病院や喫茶店に連れて行ったり、何か特別なこともしてくれます。」

--「現在、ジェシカは、グループホームでも過ごすことがあると伺っていますが、ゆくゆくは、そこで生活するようになるのでしょうか?」

ナンシー:「そうです。ジェシカが22歳のときに、私たちはトロントにやって来ましたが、トロントでは、ウィール・トランスという、障害のある人々が予約をして、door to door で利用できる公共のミニバスがあります。ですので、ジェシカは自分で出かけられるのです。数年前、父親が重い心臓発作を起こしました。その後は、回復して今は元気なのですが、今度は私が大腸がんに罹ってしまったのです。医師に『癌にかまけている時間はないんです。』と言ったのですが、彼の答えは、『そんな猶予はないのですよ。』というものでした。」

--「手術はしたのですか?」

ナンシー:「はい、大きな手術でした。入院と療養の間、タマーラが家にきてジェシカの世話をしてくれました。6か月おきに検査を受けていて、いまのところ再発はありません。でも、それをきっかけに、ジェシカのこれから暮らす場所について考えるようになりました。今は、一週間の半分をグループホーム、残りの半分を私達と過ごしています。その内、グループホームでずっと過ごすことになります。」

--「あなた自身の、楽しみは何ですか?」

ナンシー:「いろいろしていますけれど、そうですね、例えば庭いじり。」

--「お忙しくしてらっしゃるのですね。地域でも多くの人といろいろな助け合いをしていますね。」

その後、今度はジェシカも一緒に会った。ジェシカは2つか3つの単語で思いを伝えてくれる。状況が分かっていれば、彼女のいうことを理解するのに問題は感じられない。何が一番好きかを聞いてみた。

ジェシカ:「子ども、・・・仕事」、(子どもと一緒に何かをするのが好きなの、と教えてくれた。)

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彼女の好きなことを楽しんでいる


--「週に二度、保育園でボランティアをしていると聞きましたが、そこで何をしているのですか?」

ジェシカ:「ハサミで、小さな、工作」(小さな子どもはハサミが使えない。彼女は工作を手伝っているのだろう。)

ジェシカ:「皆が、ジェシカ、ジェシカって。」

ナンシー:「ジェシカが見当たらないと、どの子も名前を呼んで探すのです。」ナンシーが説明してくれた。

私はナンシーに、ジェシカが何か残念に思っていることはないか、聞いたことがあるか、尋ねてみた。

ナンシー:「何かしてみたいことはない?もし私に手伝えることなら、とジェシカに聞いてみたことがあります。彼女の答えは、『赤ちゃんが欲しい』でした。『それは無理だわ。』と答えるしかありませんでした。」

--「週に一度、Variety Village(障害をもつ人のためのスポーツ・フィットネス複合施設)にエクササイズに行っていますね。どんなことをしていますか?」

ジェシカ:「水泳、バスケットボール」

--「グループホームには、お友達はいますか?」

ジェシカ:「デーヴ、・・・」(他にもいくつか友達の名前を教えてくれた。ホームで一緒に過ごしている人たちだとナンシーが教えてくれた。)

写真を撮って、このインタビューを終わりにした。ジェシカは、少しお澄ましした後、私たちを笑わせようと、おどけたポーズをとってくれた。

ケーススタディー・ワンダの場合

筆者の妹ワンダは、青白い肌、白い髪、そして弱視で生まれた。当時、地域で「アルビノ」の人はおらず、両親は、どうしてこのような外見の子どもが生まれたのだろうかと、先祖に青白い肌の人はいなかったかと探し続けた。(色素欠乏症は劣性遺伝し、両親が保因者で、その両者から遺伝子の変異を受け継いだときにアルビノとなる。おそらく両親はこうしたことも知らなかったと思われる *7。)妹は、他のいろいろなことが上手くなることで自分の障害に折り合いをつけ、障害でレッテルを貼ったり、大げさな反応をしない子ども達と友達になった。オハイオ州コロンバスの高校を、クラスで2番という成績で卒業、成績優秀者に与えられる奨学金をとって、大学に進学した。そして栄養士になった。その前には、ピアノと歌を習い、結婚して3人の子どもを育てた後には、子どもに音楽とピアノを教え始めた。自分の身体の色と眼で、何か困ったという記憶がないか、ワンダに聞いてみた。

ワンダ:「私の最初の記憶は、ベビーカーにくくりつけられ太陽の日にさらされたこと。身動きがとれなくて、どう逃げたらいいかわからなかった。誰かが、母に、日焼けをするように太陽に当てたらいいと言い、母は母で、私のおかしなところを"直し"たかったのね。もっと後には、母と車に乗っていた時のこと、ポストの上の鳥が見えるか、母はしつこく聞き続けたの。最初、『見えない』と答えたのだけど、それでも聞き続けるから、がっかりさせたくないと思って、そのつど嘘をついて、『見える』と答えたわ。」

--「3歳からメガネをかけているけど、母は、ワンダの目が治ればいいとずっと思い続けていたのよね。」私は、そう言い、続いて「いじめられたことはあった?」と聞いた。

ワンダ:「雑貨屋で男の人たちから、『tow-head and blondie(とても明るい髪をもつ人を指すスラング)』と呼ばれるのは好きではなかった。ローレルビル(オハイオ州の小さな町)で育ったのはよかったと思っているわ。雑貨店に自分で行けるのは好きだったし、ティーンエイジャーの頃には、お買い物の手伝いにリリー叔母さんが私を雇ってくれた。ベビーシッターもしたわ。街の人たちは、私が他の人と違っているとは思っていないようだった。お父さんが病気で亡くなってからは、先生がいろいろと送り迎えをしてくれたわ。見下されるのは好きじゃない。例えば私の検査結果や治療について話し合うのに、夫の方だけを見て話す医師がいるの。私がいないかのように無視されるのは嫌な気持ち。はじめから私が何もできないなどと決めつけないでほしい。できるかできないかは、私が決めることで、できないことはこちらから頼むから。でも歩いていてもし危ないような時は助けてほしいけどね。」

--「学校や、人づきあいといった点では、どうだった?」

ワンダ:「先生は、私を一番前の席に座らせて、友達の席も隣にしたの。その友達が黒板に書かれた内容を伝えてくれた。私が高校入学のとき、私たちは街へ引っ越したのよね。友達と3人で、私たちが一番成績がよかったの。その友達、バージニアとロージーが私のためにノートをとってくれて、よく一緒に勉強したわ。彼女たちは一番の親友。通学は先生の車に乗せてもらっていたけど、そう母が頼んだの。家の前の通りから、他の生徒と歩いて通学するのを母が許してくれていたら、もっと友達ができただろうにと思う。大学でも友達はできたわ。男子学生も。コーラス隊に入って歌ったり、教会の若者のグループに入ったり、週末にその仲間たちとコテージにキャンプに出かけたり、まあ、そんなところね。」

--「あなたがアルビノであることについて、あなたの子ども達はどのように思っているの?」

ワンダ:「これまで一度もそれについては話し合ったことはないわ。あっ、そうね、上の息子のJが、『そのうち、ママの目にもよく見えるテレビができて、なんでもよく見えるようになるよ』と言ってくれた。確かに、そんなテレビができそうだと思う。パーティーで夫が、『妻の白い髪と弱視は別になんてこともないんだよ。彼女の価値はそんなものではないんだ。』そう、言ってくれたこともあるわ。」

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ワンダの家族


--「身体の色と、目と、どちらにより不自由を感じている?」

ワンダ:「目ね。球技をしたいといつも思ってた。観客が熱狂するのを聞くのが好きだから、よくフットボール観戦に行ったわ。でも、ボールは見えなくて、何がおきているのかよくは分からなかったの。音には敏感だし、触覚も優れてるわ。物はいつも同じ場所に置くことにしていて、家はよく整理できているの。」

--「もし目がよかったらどんなんだろうと思う?と、誰かがあなたに聞くのを耳にしたことがあったわ。あなたは、『わからない、ずっと弱視で生活してきたから。』と答えていたように思う。あなたは自分自身の制約を受け入れて、よい人生になるようにスキルや才能を花開かせている、そんな風に私は思ったの。」

結論

遺伝や環境、あるいは原因がわからないまま、多くの子ども達が障害をもって生まれる。そうした子どもの家族は、精神的にも経済的にも困難を強いられる。親達、きょうだい達は、失意、怒り、不満、そうした感情を表に出し、子どもをそのままに受け入れ、尊重することを学んでいく必要がある。「ひとりの子どもを育てるのには、ひとつのコミュニティーを要する」というアフリカのことわざがある。地域には、障害のある人々を交通手段、仕事、社会的活動につなげる力があるし、子どもを、その障害ではなく、性格、人格、才能でみて理解する、そうした役割を負うことができる。


訳注
  • *1 Solomon, Andrew. Far From the Tree. (2012) Scribner, N.Y.
  • *2 Bartoshesky, Louis E., M.D. MPH, Reviewer. (2010) "Genetic Disorders in Children." Kids Health. Genetic Disorders in Children Nemours
  • *3 "Profile of disability among children." (2006) Statistics Canada. Disabilty in Canada: A Profile
  • *4 Centers for Disease Control and Prevention."Facts about Birth Defects."
  • *5 Kandel, Isak and Joav Merrick. "The Birth of a Child with Disability Coping by Parents and Siblings." (August 20, 2003) The Scientific World Journal.
  • *6 Cook, Gretchen, "Siblings of Disabled Have Their Own Troubles." (2006) The New York Times, April 4, 2006.
  • *7. この遺伝子の変異は基本的には先祖代々延々と受け継がれてきたものですが、あまりにも昔から受け継がれてきたものですので「どこそこの特定の家系の問題」 などではなく、人類全体が共有しているごく普通のもので、決して少なくない人々がこの遺伝子の変異を片方受け継いでいるのです(突然変異もあります)。(出典:日本アルビニズムネットワーク―JAN)
筆者プロフィール
Marlene_Ritchie.jpgマレーネ・リッチー(旧姓アーチャー)

アメリカ、日本、中国で教壇に立つ。看護師として働く一方、入院中の子どもたちの医療以外のニーズに応えるEmma N. Plank of the Child Life and Education Programを立ち上げた副設立者。トロントの競売会社Ritchiesの共同設立者でもある。多岐にわたる以上の経験と、オハイオ州の小さな町で育った経験、母としての経験をもとに執筆活動をしている。現在、フリーランスライター兼チューター。カナダ、トロント在住。過去8年間CRNに寄稿。
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