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【子ども理解を問い直す】 第5回 片づけられない子どもたち

要旨:

本稿では、学級崩壊状態になる教室に乱雑な印象があることを手がかりとして、身のまわりが片づいている/片づいていないことが子どもに与える影響について考える。その際手がかりにしたのが、私たちの行為を助ける道具というハイデガーの思索である。ハイデガーの現象学に基づけば、身のまわりが片づいていることは、私たちが何かをするための道具が、それぞれふさわしい場所でふさわしい形でつながりあっていることである。片づいている部屋は、そこでどのようにふるまうべきであるのかを、子どもたちに間接的に示している。このように身のまわりが片づいているという観点から、学級崩壊状態の学級において何が起こっているのかを捉えなおす。

キーワード:
学級崩壊, 乱雑な教室, 道具のつながりあい, ハイデガー, 現象学

第3回「授業を聴けない子どもたち」第4回「届かない教師の言葉」では、いわゆる<学級崩壊>を取りあげた。教師の言葉が子どもに届かなくなり、教室全体がさわがしくなってしまうのはなぜなのかについて、子どもたちと教師それぞれのありように現象学の観点から焦点を当てて考えた。筆者のみる限り、学級崩壊状態になる教室には、もうひとつ特徴がある。それは、教室全体に乱雑な印象がある、という特徴である。そこで今回は、身のまわりが片づいている/片づいていないことが子どもに与える影響について、学級崩壊傾向になるクラスの具体的な例に基づいて考えてみたい。

1.乱雑な教室

筆者はこれまで、学級崩壊状態になっているクラスに何度か関わったことがある。筆者の経験するかぎり、さわがしく落ちつかない状況が続く教室には、以下のような特徴がみられることが多い。

子どもたちの机の配置が乱れて教室全体に広がるようになっており、適切な通路が確保されていない。毎日掃除をしているにも関わらず、丸めたティッシュペーパー、消しゴムのかす、鉛筆の削りかす、紙くず、体操服入れや手さげ袋といった子どもの持ち物などが、教室の床に落ちている。教室の側面や背面に貼ってある掲示物の画びょうが取れてはがれかけていたり、季節にそぐわない掲示物のままになっていたりする。教室背面の黒板に、学級運営とは関係のない落書きが書かれたり貼られたりしたままになっている。教室背面に設置されているロッカーの上は、しばしば、図工や理科や家庭科などで制作した子どもたちの作品が展示されるが、作品が乱雑に置かれていることにより、一時的な物置スペースのようにみえてしまう。

教室のこうしたありようは、クラスの秩序が乱れがちになっていることや、教師と子どもの心が落ちつかないことを、象徴しているかのようである。教育学者の佐藤学(2009)は、授業において教師が自分の身体感覚を教室全体に広げることにより、子どもたちの一挙手一投足や教室の雰囲気の変化に敏感になることの重要性について述べている。おそらく、教師の身体感覚が教室全体に広がっており、教室の隅々にまで教師の配慮が行き届いているときは、学級経営が順調にいっているときなのだろう。こうしたとき、教室が乱雑になる兆候を教師は敏感に感知することができ、その結果、教室全体がつねに整った状態に保たれることになる、と考えられる。また、教師の身体感覚に子どもたちが包み込まれることにより、落ちつかなさに繋がるような彼らの微細な変化にも、教師はいち早く気づくことができる、と考えられる。

他方、学級崩壊傾向にあるクラスでは、教師は、自分の身体感覚を教室全体に広げることが難しくなるのだろう。実際、筆者が関わったいくつかのクラスの担任教師は、授業中に黒板の前からほとんど動かず、机間巡視をして子どもたちに声をかける頻度が少なくなっていた。また、休み時間も教室の前にある教卓に座ったままで、子どもたちや教室の様子にあまり目が向けられていないようにみえた。このように身体感覚が伸び広げられていないために、担任教師は、教室の掲示物や、ロッカーの上や、教室背面の黒板の状況に気がつき、整えることができなかった、と考えられる。また、子どもたちの変化や現在のありようを適切に把握することも難しくなってしまった、と考えられる。

2.片づけられない子どもたち

こうした教室環境に影響されるからだろうか、筆者が関わった学級崩壊傾向にあるクラスの子どもたちの多くは、自分の身のまわりの片づけが得意ではないようにみえた。例えば、子どもたちの机のなかは、箱がふたつ入っていて引き出しの役割を果たしているのだが、その箱のなかは、しばしば、文房具や必要のない教科書などでいっぱいになっている。あまりにも多くの物を入れすぎて、引き出しが閉まらなくなる場合さえある。彼らのランドセルのなかには、過去のプリント、ポケットティッシュ、ハンカチなどが、ぐしゃぐしゃになって詰めこまれていたりする。こうした整理整頓のできなさに呼応するかたちで、子どもたちは、宿題などの提出物を出さなくなる。毎日の連絡帳に関しても、「ほら、連絡帳書かなくちゃ」などと筆者がうながしても、「うん、大丈夫」と言って書かない子どもも多い。

子どもたちが自分の身のまわりの整理整頓ができなくなることに呼応して、教室が乱雑になっていくのか、教室が乱雑であることに呼応して、子どもたちが自分の身のまわりの整理整頓ができなくなるのか、筆者にはわからない。しかし、いずれにせよ、教室全体の乱雑さと、子どもたち一人ひとりの整理整頓のできなさが悪循環を起こし、<学級崩壊>といわれる状況が継続していく、といえる。そこで次に、子どもたちの身のまわりや教室全体が整理整頓されていることが、彼らにどのような影響を与えるのかについて、現象学者マルティン・ハイデガーの記述を手がかりとしながら考えていきたい。

3. 私たちの行為を助ける道具

ところで、現在筆者は、机に置いてあるパソコンに向かってこの原稿を書いている。このコラムの読者のみなさんは、パソコンやタブレットやスマートフォンなどを用いて読んでくださっているはずである。このように私たちは、つねに、何かの物を使って、何かを行なっている。寝ているときには何もしていないかのように思われるが、実は私たちは、ベッドや布団や枕を使って、寝るという行為を実現している。

ハイデガーは、このように私たちが何かを行なうときに用いる物を、「道具」と呼ぶ。道具という言葉から私たちがイメージするのは、大工道具や調理道具など、何らかの作業をするための物だろう。しかし、ハイデガーによれば、私たちの身のまわりにあるすべてのものが、道具なのである。つまり、文房具、家具、部屋、家、道路といった人工物に加えて、川、海、森、山といった自然でさえ、私たちの道具である。というのも、例えば、道路は私たちが移動することを、海は私たちが海産物を収穫することを、それぞれ助けてくれているからである*1

道具が私たちの行為を助けてくれるためには、ひとつ注意しなければならないことがある。それは、道具は、使用されるときにそなえて、ふさわしい場所に、ふさわしい形で片づけられている必要がある、ということである。ハイデガーは、このようにふさわしい場所でふさわしいやり方で使用されうる道具のあり方を、「適切さ」と呼ぶ。さらに、道具がその適切さを発揮できるためには、他の道具とのつながりが必要になる場合が多い。例えば、部屋の壁にはコンセントがあり、そのコンセントのそばに机が置かれており、そのコンセントから電源をとっているデスクライトとパソコンが机の上に置かれており、それらのおかげで筆者はパソコンで書類を書くことができる、というように、私たちの行為を助ける、ある道具の適切さは、ほかの道具の適切さへと次々につながっていく。このように道具が、ふさわしい形でクモの巣のようにつながりあい、相互に関連しあいながら働いていることを、ハイデガーは、「全体としての適切さ」と名づけている。

学級崩壊傾向にある乱雑な教室では、道具のつながりあいの広がりが限定されていたり、寸断された断片的なものになっている。全体としての適切さが充分に機能しない状況になっている。すると、学校の机のひきだしから授業に必要なものをすぐに取りだせなかったり、回答を書くために前の黒板に行くための通路をふさがれてしまったりと、目指している行為を子どもたちが実現できなくなる場合もでてくる。こうした場合、子どもたちは、必要なものが机から取りだせないために、授業を受ける意欲を失ってしまったり、自分の回答をクラス全体に発表したいという意欲を失ったりしてしまう。いずれにせよ、本来目指していたはずの行為を実現できなくなることをきっかけとして投げやりになることで、子どもたちは悪循環に陥ってしまうことになる。

4. 身のまわりが片づいていることの意義

ここまで見てきたように、教室が片づいていれば、つまり、道具がそれぞれふさわしい場所でふさわしい形でつながりあっていれば、子どもたちは自分の目指す行為をスムーズに実現できる。このことが、子どもたちの身のまわりが片づいていることの意義のひとつである。

さらには、現象学的教育学者である中田基昭は、部屋が片づいていることの意義について、次のように述べている。「適切さを発揮できる様々な道具の配置」が、「その人間が自分自身のあり方をどのように捉えているのか、つまり自分の生をどのように充実させようとしたり、慈しんでいるのかをも、暴きだしている」、あるいは、「道具の配置そのものに、住人の生き方が刻みこまれている」と。すると、子どもたちが身のまわりを片づけられないことは、自分自身を大切にするやり方がわからないという、彼らなりのSOSである、と捉えうることにもなる。こうした子どもたちと一緒におとなが片づけてあげることは、彼らに自分自身を大切にしたり、自分の生活を充実させたりする術を教えることなのである*2

また、通常、子ども部屋や教室の多くは、保護者や教師の配慮によって整えられている。すると、子ども部屋や教室が片づいているかどうかは、子どもたちに対するおとなの思いを反映していることになる。つまり、子ども部屋や教室が片づいていることは、保護者や教師がそこで暮らす子どもたちにどのように生きてほしいのか、おとなが子どもたちをどのように慈しんでいるのかを映し出しているといえる。子どもたちは、片づいた部屋や教室で何かをスムーズに行なえることを通して、間接的に、おとなの配慮や思いを感じとっている、と考えられるのではないだろうか。

学級や家庭などにおけるおとなと子どものすれ違いについて考える際、気もちの通じ合いやお互いの理解など、心理面に注目される場合が多い。しかし、ハイデガーを手がかりとして本稿で見てきたように、部屋や教室の物の配置を考え、片づけることが、大人と子どもとのすれ違いや、子どもの落ちつきのなさに対して良い影響を与えうる、といえるのではないだろうか。


引用・参考文献
  • Heidegger, M. 1927 Sein und Zeit, Max Niemeyer. ハイデガー『存在と時間I ・II・ III』
  • 原佑・渡邊二郎訳 中央公論新社 2003
  • 中田基昭 2008『感受性を育む』東京大学出版会
  • 中田基昭編著・大塚類・遠藤野ゆり著2011『家族と暮らせない子どもたち』新曜社
  • 佐藤学2009『教師花伝書』小学館

  • *1 当然ながら、道具の使われ方は一つではない。私たちがその道具を用いて何を行なおうとするのかに応じて、道具はさまざまに異なる働きをする。
  • *2 子どもにとって自分の部屋が片づいていることの意義については、中田基昭編著『家族と暮らせない子どもたち』第1章で考察した。
筆者プロフィール
Rui_Otsuka.jpg大塚 類(青山学院大学教育人間科学部教育学科准教授)

東京大学大学院教育学研究科博士課程修了。博士(教育学)。日本学術振興会特別研究員PDを経て、現在は、青山学院大学教育人間科学部教育学科・准教授。専門は、教育方法学、教育実践の質的研究、臨床教育学。『施設で暮らす子どもたちの成長』(東京大学出版会、2009)、『現象学から探る豊かな授業』(共著、多賀出版、2010)、『家族と暮らせない子どもたち』(共著、新曜社、2011)などの著書がある。
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