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子ども、彼らはどんな存在だったのか-韓国の子ども観の歴史的考察-

要旨:

韓国の神話で子どもは未完成の存在ではなく、宇宙的存在である。今も人類学者Maurice Godelierを含む多くの人が子どもを宇宙論的存在としてみなしている。宇宙論的存在としての子ども教育は一連の通過祭儀を通じて新たに生まれ変わることでこの世の存在になるということである。韓国の伝統的な子ども観は、外国から入った仏教や儒教からも影響を受けた、その後、バン・ジョンファン(方定煥)により近代的な子ども観に変わった。子どもは親の所有物でも、社会の所有物でもなく、子ども自身の存在であり、自由の存在である。しかし、近代の教育の普及は、‛勉強する存在(教育的存在)’としての子ども観を生み、産業社会が要求する人材になることが求められるようになった。その意味では教育的存在である子ども観は望ましいことではないだろう。今後の研究や活動によりかつての去っていった子ども観を取り戻すようになることを望む。
1.何が問題なのか。

「子ども、彼らは誰だったか?」というタイトルは、フィリップ・アリエス(Philippe Ariès(1914-1984))の訳著『<子供>の誕生:アンシャン・レジーム期の子供と家族生活』の中で提示されたものであり、その本は2つの目標から出発したという。1つは、フランスの子どもに関する研究であり、その結論はフランスの伝統社会では子どもに対する概念を発展させられなかったことであった。2つ目は近代社会の子どもに関する研究であり、それは子どもに対する近代的な認識の特徴を現すことであった。後者の場合は伝統社会や近・現代社会から子どもを見る観点を研究する必要があるため、筆者はその問題意識から韓国の伝統社会や近・現代社会で子どもに対する観点を調べることにしたい。伝統社会の子ども観やその中で教育がどのように位置づけられているかを明らかにし、今日の韓国社会において子どもの問題、子どもの教育の問題を論じることにする。ここでは、思想史的な観点から韓国の伝統社会の子ども観に触れていくことにする。

2.子ども、彼らは誰だったか。

『三国遺事 』1)には当時‛小児'の意味で「알지(アルジ)」という韓国語の言葉があった。アルジは新羅時代の金氏の始祖であるが、その名は新羅 2)の始祖である‛혁거세(ヒョッコセ) 'から由来したという。『三国遺事』を見ると‛アルジ'あるいは‛アル 'という言葉は同時の社会では特別な意味で使われたことが分かる。‛アルジ'あるいは‛アル3)'は子ども(小)の意味で使われると同時に'始め'の意味もあり、子どもはその社会の神聖な存在として認識された。神聖な存在としての子ども観は新羅だけでなく、朝鮮の開国神話や高句麗の開国神話等他の神話にも卵から生まれた子どもは神聖な存在として認識されている。その理由はその存在自体が根源と関連しているからであり、神話の中で彼らは自分の存在(或は、誕生の根源)を天(神様)に置いている。それをみると韓国の神話で子どもは未完成の存在ではなく、宇宙的存在である。今も人類学者モーリス・ゴドリエ(Maurice Godelier)を含む多くの人が子どもを宇宙論的存在としてみなしている。宇宙論的存在としての子ども教育は一連の通過祭儀を通じて新たに生まれ変わることでこの世の存在になるということである。

このように子どもに関する神話的観点からみた子どもは外形的には小さい存在、始め存在であると同時に神聖な存在である。その根拠は宇宙論的存在であることだが、それ自体が完成された存在でなく、通過祭儀への参加を通じて生まれ変わることで求められる存在になる。

韓国の伝統社会の子ども観は‛巫俗信仰'にも多く表れている。まず、‛巫俗'は人間の出生を神様が決めることとみなしている。「三神」という巫俗の出生神は妊娠と出産、また生育の神である。妊産婦の体は神様に守られる中で胎児が成長し神様の決まりによって子どもを産むことになる。産後回復や子どもの成長にも神様の守りや神様とのバランス良い関係の中で可能になるという。このような子ども観は万物に神がいるという巫俗信仰によるものであり、このように神様がいる環境の中で、神様とバランス良い関係を作り交流することで成長していくという。近代に入ってからこのような環境や神が否定されるようになり、その役割を学校と教師が代わりに行うことになる。

韓国の伝統的な子ども観は、外国から入った仏教や儒教からも影響を受けた。仏教の子ども観を見ると、経典では児童という言葉の代わりに乳児、童子(童女)といい、体は小さいが特別な存在として認めている。未熟でうまく動けない乳児を‛如来(釋迦牟尼如來)'の心であると言っている。仏教では子どもの心を解脱に進める理想的な心といい、それに関する説話等も少なくない。このように仏教では子どもを未熟で幼い存在ではなく心が世俗に染められていない理想的な人間として観ている。

子どもや子どもの心を理想的な存在・状態とみなすことは東洋思想の共通的なことである。仏教の他、道教や儒教でも見られるが、儒教の場合は宇宙論的な観点からみた人間への理解を「性理学 」でより哲学的に体系化された。それが朝鮮の統治理念で生活哲学になった。性理学4)では生活の中で差別倫理を強調したが、そこから子どもの位置が決められてしまい、大人との関係の中で‛子どもらしい'存在になることが求められた。子どもらしい子どもになるためには、大人の価値観を受け入れることが必要であり、それが教育の目標であった。

朝鮮の儒教的な子ども観に変化のきっかけになったのは東学5) と洋学6) である。クリスト教が導入されることで人間平等の認識が広がった。チェ・ゼウによって立てられた東学の‛子どもも天である'という考えにより子どもへの認識に大きな変化をもたらした。このような東学の思想はバン・ジョンファン(方定煥)により近代的な子ども観に変わった。バンによると、子どもは親の所有物でも、社会の所有物でもなく、子ども自身の存在であり、自由な存在である。バンは児童文化と児童運動において中心的存在として評価されている人物であり、さらに韓国で初めて子ども本位の児童観を確立した人として評価されている人物である。バンの子どもの‛発見'は子どもの心理的特性や社会的特性の発見を意味する。つまり、それが「童心」であり、今までとは違って子どもを社会的存在としてみなしたことが重要である。だが、このような運動は国家体制で行われた画一的で前近代的な教育とは違って、文学、芸術のような文化運動によって導かれたことに意味がある。

3.この時代の子ども、どのような存在なのか。

著者がアリエスの問題意識とそれほど変わらないと考えて始めた問題意識は、産業社会での子どもの位置付けであり、それは子どもではなく時代を扱ったことである。子どもという概念や意識もない時代的な限界から子どもに関する制度や機構、また学問が生まれた。しかし、それが子どもの幸せに役に立ったかどうかは別の問題である。韓国内でも近代に入ってから子どもに関する認識が変わり、1960、1970年代の産業化時代を迎えるにつれよって子どもは‛国の未来'のように新たな解釈が生まれた。しかし、近代、子どもが学校で教育を受けられる存在になったことで、同時に‛勉強する存在(教育的存在)'としての子ども観が生まれ、産業社会が要求する人材になることが求められるようになった。その意味では教育的存在である子ども観は望ましいことではないだろう。

これが今の時代の子ども観であるが、今後の研究や活動により、かつての去っていった子ども観を取り戻すようになることを望む。

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(注1)13世紀末に高麗の高僧一然(1206年 - 1289年)によって書かれた私撰の史書
(注2)古代の朝鮮半島南東部にあった国家
(注3)卵と言う意味の韓国語:알【al】
(注4)中国で宋代から明代にかけて隆盛だった儒学の一学説。漢・唐代の訓詁(くんこ)学に対し、宇宙の原理 としての理を究明し、人間の本性を明らかにしようとしたもの。宋学の中核をなす。
(注5)朝鮮時代の1860年、チェ・ゼウ(崔濟愚)が創建した新興宗教
(注6)キリスト教

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2010年5月27日、晋州教育大学で行われた「子ども研究財団・子ども研究所 創立準備シンポジウム」での講演録を掲載しました。
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